大久保一翁(忠寛)は大政奉還に尽力し、江戸無血開城を支えた「もう一人の大久保」

幕末の激動期、崩壊寸前の徳川幕府で冷静な分析力柔軟な先見性を発揮した官僚――それが大久保一翁(おおくぼ いちおう/忠寛)です。勝海舟とともに江戸無血開城を導き、徳川家の名誉ある退場を実現させた彼は、薩摩藩の大久保利通とは無関係の別人物。「もう一人の大久保」として、幕臣側から改革を推し進めた開明派の知性でした。

  1. 大久保一翁(忠寛)とは?―幕末動乱期に輝いた幕府の知性
    1. 基本情報 ― 開明派エリート幕臣のプロフィール
    2. 出自と家系 ― 500石旗本・大久保家の長男
    3. 人物像 ― 先見性と恭順論を貫いた開明派官僚
    4. 江戸無血開城への貢献 ― 勝海舟と並び立つ「影の功労者」
    5. 明治期の功績 ― 東京府知事として近代化に貢献
  2. 大久保一翁の歩みを知る年表
  3. 大久保一翁の幕臣としての活躍 – 幕政改革から対外問題まで
    1. 阿部正弘の電撃登用――目付抜擢で海防の最前線へ
    2. 井伊直弼と激突――京都町奉行就任から左遷・罷免の試練
    3. 再起の狼煙――蕃書調所頭取から外交の切り札へ
    4. 洋学・兵制改革の旗手――勝海舟と描いた近代海軍への道
  4. 大久保一翁と幕末動乱のクライマックス – 大政奉還から江戸無血開城へ
    1. 大政奉還への働きかけ
    2. 会計総裁・若年寄として恭順方針を確立
    3. 江戸城明渡しを取りまとめる実務の要
    4. 戊辰戦争初期の和平工作
  5. 関連人物とのつながり
    1. 勝海舟 ― 恭順方針を並走した実務パートナー
    2. 山岡鉄舟・高橋泥舟 ― 「三舟」と交差した恭順ネットワーク
    3. 徳川慶喜 ― 最後の将軍を支えた側近
    4. 大久保利通 ― 姓は同じでも立場は対極
    5. 坂本龍馬 ― 間接的な思想的つながり
  6. 明治維新後の歩み – 旧幕臣から新政府要職へ
    1. 静岡藩で旧主を補佐
    2. 東京府知事から中央政界へ
    3. 晩年と改葬
  7. 歴史に刻まれた大久保一翁 ― 先見性と「無血」への貢献
    1. 幕末における開明派官僚としての先見性
    2. 江戸無血開城実現への隠れた貢献
    3. なぜ勝海舟ほど有名ではないのか ― 「影の功労者」の評価
    4. 家系と子孫
    5. ゆかりの地
  8. 参考文献

大久保一翁(忠寛)とは?―幕末動乱期に輝いた幕府の知性

基本情報 ― 開明派エリート幕臣のプロフィール

項目内容
名前大久保 忠寛(おおくぼ ただひろ)
号・別称一翁(隠居後の号)/石泉・桜園(号)/幼名:金之助/通称:三四郎・三市郎
生没年文化14年(1817年)11月29日 – 明治21年(1888年)7月31日
出身・身分江戸生まれ、徳川幕府 旗本(500石)
主な役職【幕末期】徒頭 → 目付・海防掛(1854)→ 蕃書調所総裁(1856)→ 長崎奉行(赴任せず、1857)→ 駿府町奉行 → 京都町奉行(1859)→ 外国奉行(1861)→ 大目付 → 会計総裁(1868)→ 若年寄【明治期】静岡藩権大参事 → 東京府知事(1872)→ 元老院議官(1877)
思想的立場開明派・現実主義
ゆかりの人物勝海舟/山岡鉄舟/高橋泥舟/徳川慶喜 ほか
墓所青山墓地を経て 多磨霊園(東京都府中市) に改葬

(出典:『国史大辞典』「大久保忠寛」項、『日本大百科全書』同項)

出自と家系 ― 500石旗本・大久保家の長男

一翁は500石の旗本大久保家の長男として江戸に生まれ、父・大久保忠向は西ノ丸留守居を務めました。譜代大名・大久保忠世系とは別系統ながら、将軍家に近侍する家格で幕政を支える立場にあり、その環境が彼の開明的視野を育んだとされます。

(出典:『国史大辞典』「大久保忠寛」項、『日本大百科全書』同項)

人物像 ― 先見性と恭順論を貫いた開明派官僚

一翁は開明的な幕吏として知られ、松平慶永とも親交を持ち、早くから大政奉還の必要性を説いていました。慶応元年(1865年)12月の長州再征に際して大坂に召され、将軍徳川家茂の諮問に寛大な処置を講ずべきことを主張しましたが容れられず、翌二年正月江戸に帰りました。また、勝海舟の門下生として行動を共にし、恭順論を唱えて江戸無血開城の実現に尽力しました。

(出典:『国史大辞典』「大久保忠寛」項、『幕末維新大人名事典』大久保忠寛項)

江戸無血開城への貢献 ― 勝海舟と並び立つ「影の功労者」

慶応4年(1868年)、会計総裁となった一翁は、陸軍総裁勝海舟と協力し、徳川家の恭順方針を貫徹。4月には田安慶頼とともに勅使を江戸城へ迎え、徳川家処分の条項を取りまとめました。その結果、慶喜の水戸退隠と江戸城の平和的開城が実現し、江戸の町を戦火から守ることに成功します。この交渉の舞台裏で調整を担った一翁は、「影の功労者」と評されることもあります。

(出典:『国史大辞典』「大久保忠寛」項)

明治期の功績 ― 東京府知事として近代化に貢献

明治5年(1872年)5月、一翁は東京府知事に任命されました。明治10年(1877年)には元老院議官となり、明治20年(1887年)には子爵を授けられるなど、旧幕臣でありながら新政府でも重用されました。これは彼の実務能力と公正な人格が評価された証左といえるでしょう。

(出典:『国史大辞典』「大久保忠寛」項、『日本大百科全書』大久保忠寛項、『日本人名大辞典』大久保一翁項)

大久保一翁の歩みを知る年表

年代(西暦)主な出来事
1817年(文化14)11月29日、江戸に生まれる。父は西ノ丸留守居 大久保忠向
1848年(嘉永元)幕府に出仕し、徒頭に任ぜられる。※具体的な任命年は諸説あり
1854年(安政元)5月、目付(海防掛)に抜擢され、岩瀬忠震とともに対外防備策を担当。
1856年(安政3)10月、外国貿易取調掛を命ぜられ、同月 蕃書調所総裁 を兼帯。講武所創設にも尽力。
1857年(安政4)正月、長崎奉行に転ずる(赴任せず)。この後、駿府町奉行・禁裏付を歴任。
1859年(安政6)2月、京都町奉行となる。しかし一橋派であったため大老井伊直弼に忌まれ、6月に 西ノ丸留守居へ左遷。同年8月、罷免され謹慎。
1861年(文久元)8月、寄合から 蕃書調所頭取 に復帰。その後、外国奉行→大目付→御側御用取次 を歴任。
1862年(文久2)11月、講武所奉行に就くが罷免差控(安政の大獄関係有司追罰に連座)。
1864年(元治元)7月、勘定奉行に任ぜられるも、5日で罷免。
1865年(慶応元)2月、隠居して号を 「一翁」 と称す。12月、長州再征に際し大坂で将軍徳川家茂へ寛大処置を進言。
1868年(明治元)1月、会計総裁、2月若年寄。勝海舟とともに恭順論を主張し、4月に田安慶頼・勅使を迎えて調整、江戸無血開城を実現。
1869年(明治2)8月、静岡藩権大参事に就任し、旧徳川領の藩政を補佐。
1871年(明治4)11月、静岡県参事となる(廃藩置県後)。
1872年(明治5)5月、東京府知事に就任。府政機構の整備にあたる。
1875年(明治8)12月、教部少輔に転任。
1877年(明治10)1月、元老院議官となる。
1888年(明治21)7月31日、死去。享年72(数え年)。

(出典:『国史大辞典』「大久保忠寛」項、『日本大百科全書』大久保忠寛項、『日本人名大辞典』大久保一翁項)

大久保一翁の幕臣としての活躍 – 幕政改革から対外問題まで

外交と海防を軸に幕府近代化へ挑んだ大久保一翁。その歩みを史実に沿ってたどります。

阿部正弘の電撃登用――目付抜擢で海防の最前線へ

幕府に出仕し徒頭を務めた一翁は、安政元年(1854)5月、老中阿部正弘の推挙で目付(海防掛)に昇進し、岩瀬忠震とともに沿岸警備を統括しました。さらに安政3年(1856)10月、外国貿易取調掛と蕃書調所総裁を兼帯し、洋学教育や講武所設立を推進。翌安政4年(1857)には長崎奉行を命ぜられ(実赴任せず)、続いて駿府町奉行・禁裏付を歴任し、行政手腕を磨きます。

(出典:『国史大辞典』「大久保忠寛」項、『日本大百科全書』「大久保忠寛」項)

井伊直弼と激突――京都町奉行就任から左遷・罷免の試練

安政6年(1859)2月、京都町奉行に就任。しかし一橋派の立場が大老井伊直弼の弾圧に触れ、同年6月には西ノ丸留守居へ左遷、8月には罷免差控となり謹慎します。失脚中も洋学・兵制研究を続け、再起の機を静かに待ちました。

(出典:『国史大辞典』「大久保忠寛」項)

再起の狼煙――蕃書調所頭取から外交の切り札へ

井伊直弼の死後、幕府は開国路線を再調整し、一翁を再登用。文久元年(1861)8月に蕃書調所頭取として復帰すると、外国奉行、大目付、御側御用取次を順次歴任し、条約改訂交渉や将軍側近の政務を担いました。列強との折衝では現実主義を貫き、不平等条約下でも幕府主権の維持に努めています。

(出典:『国史大辞典』「大久保忠寛」項、『日本人名大辞典』「大久保一翁」項)

洋学・兵制改革の旗手――勝海舟と描いた近代海軍への道

海防掛目付として一翁は、西洋の軍事技術導入を推進し、勝海舟や永井尚志らの洋式航海・砲術習得を支援しました。長崎海軍伝習所での伝習は「安政二年六月、観光丸(旧スンビン号)入港後に開始され…次第に成果をあげた」と伝えられ、一翁の提唱した海防強化策と軌を一にします(『国史大辞典』「長崎海軍伝習所」項)。彼は海軍力を外交カードと位置づけ、国家戦略の要と見なした先見性を示しました。

(出典:『国史大辞典』「長崎海軍伝習所」項)

大久保一翁と幕末動乱のクライマックス – 大政奉還から江戸無血開城へ

幕府瓦解が目前に迫るなか、大久保一翁は「流血を避け、徳川家を存続させる」という現実主義を貫き、転換期の舞台裏で重要な役割を果たしました。

大政奉還への働きかけ

『日本大百科全書』によれば、一翁は早い段階から政権返上(大政奉還)を唱えていた開明派に数えられます。ただし、将軍徳川慶喜へ直接進言した一次史料は確認できず、経緯の詳細には慎重な解釈が必要です。

(出典:『日本大百科全書』「大久保忠寛」項)

会計総裁・若年寄として恭順方針を確立

明治元年(1868)正月会計総裁、続いて2月に若年寄となった一翁は、前将軍慶喜の意を受けつつ陸軍総裁勝義邦(海舟)と協調し、幕府の恭順方針を固めました。財政整理と軍備縮小の両面で「戦わずに守る」策を押し進めます。

(出典:『国史大辞典』「大久保忠寛」項)

江戸城明渡しを取りまとめる実務の要

同年4月、一翁は田安慶頼とともに勅使(橋本実梁・柳原前光)を江戸城へ迎え、徳川家処分条項を調整。4月11日の江戸城明け渡しが決定し、江戸の町は戦禍を免れました。その後は大総督府の命で江戸鎮撫取締りを担い、治安の維持にあたります。

(出典:『国史大辞典』「大久保忠寛」項)

戊辰戦争初期の和平工作

鳥羽・伏見の戦い後に抗戦論が噴出しても、一翁は一貫して恭順・和平を主張。藩兵の進駐や騒擾を抑えるため説得に奔走し、100万を超える江戸市民の生命と財産を守ることを最優先に行動しました。こうした現実主義的努力が、無血開城という先例なき政権移行を支えたと評価されています。

(出典:『国史大辞典』「大久保忠寛」項、『日本人名大辞典』「大久保一翁」項)

関連人物とのつながり

大久保一翁は、同時代の要人と連携しながら幕末の難局を乗り切りました。主要人物との接点を一次事典の範囲で整理します。これらの人物関係から、幕末維新期の複雑な政治力学と、一翁が果たした調整役としての重要性が浮かび上がります。

勝海舟 ― 恭順方針を並走した実務パートナー

『国史大辞典』によると、一翁は明治元年正月に会計総裁、2月に若年寄となり、陸軍総裁勝義邦(海舟)と協力して恭順論を貫いたと記されています。同年4月の江戸城明け渡しでは、勝が前面交渉を担い、一翁が財政・文書面を整え「無血開城」を同じ方向で支えました。

(出典:『国史大辞典』「大久保忠寛」項)

山岡鉄舟・高橋泥舟 ― 「三舟」と交差した恭順ネットワーク

江戸開城直前、山岡鉄舟が西郷隆盛との談判に赴く際、田安慶頼とともに一翁が派遣を取り計らったという記録があります(『国史大辞典』「大久保忠寛」項)。また、将軍近侍として行動した高橋泥舟らとともに恭順派として活動し、「幕末の三舟」(勝・山岡・高橋)に一翁が加わった人脈が無血開城の実務ネットワークを形づくりました。

徳川慶喜 ― 最後の将軍を支えた側近

一翁は慶喜の側近格として、徳川家の名誉ある存続を図る恭順策を推進しました。『日本大百科全書』は、一翁が「早くから政権返上を説いた」と記し、大政奉還構想を抱いていたことを示唆します。ただし、慶喜へ直接進言した一次証拠は確認されておらず、経緯には諸説があります。

(出典:『日本大百科全書』「大久保忠寛」項、『国史大辞典』「大久保忠寛」項)

大久保利通 ― 姓は同じでも立場は対極

『日本人名大辞典』は、一翁が幕府旗本、利通が薩摩藩士であり、血縁・政治的連携がないことを明示しています。幕末期には恭順派(幕府側)と倒幕派(新政府側)として、むしろ対立する陣営に属していました。

(出典:『日本人名大辞典』「大久保一翁」項)

坂本龍馬 ― 間接的な思想的つながり

龍馬と一翁の直接交渉を示す一次資料はありませんが、共通の知己である勝海舟を介し、大政奉還や無血政変という理念を共有していた可能性があります。龍馬の「流血なき政権交代」と一翁の「無血開城」は、手段こそ違えど目指す方向で重なっていました。

明治維新後の歩み – 旧幕臣から新政府要職へ

江戸無血開城後も、大久保一翁は徳川家への忠義を守りつつ新政府で要職を歴任しました。一次事典の記述をもとに、その後半生を振り返ります。

静岡藩で旧主を補佐

慶応4年(1868)閏4月、徳川宗家が駿府へ移封されると一翁も随行。明治2年(1869)8月静岡藩権大参事に就任し、約700万石から70万石へと大幅減封された徳川家の財政再建を支援しました。困窮する旧幕臣の生活立て直しや新藩政の基盤整備に尽力したと伝えられます。

(出典:『国史大辞典』「大久保忠寛」項)

東京府知事から中央政界へ

明治5年(1872)5月、一翁は東京府知事に任命され、府政整備と治安維持を担当。明治8年(1875)12月には教部少輔に転じ、宗教・教育行政を統括しました。さらに明治10年(1877)には元老院議官となり、立法諮問機関で国政に関与。功績が認められ、明治20年(1887)には子爵を授爵しています。

(出典:『国史大辞典』「大久保忠寛」項、『日本大百科全書』「大久保忠寛」項)

晩年と改葬

元老院在任中の明治21年(1888)7月31日、72歳で逝去。当初は青山墓地に葬られましたが、大正期に入り多磨霊園(東京都府中市、大正12年開園)へ改葬されました(『国史大辞典』同項)。忠義と現実主義を貫いた生涯は、旧幕臣が新時代へ適応し続けた一例として語り継がれています。

歴史に刻まれた大久保一翁 ― 先見性と「無血」への貢献

大久保一翁は幕末の危機を冷静に見極め、流血を避けて時代の転換を導いた陰の功労者でした。ここでは、一次辞典に基づき功績と評価を整理します。

幕末における開明派官僚としての先見性

『国史大辞典』には、一翁が阿部正弘政権下で目付・海防掛(1854)となり沿岸防備を担当、外国貿易取調掛・蕃書調所総裁(1856)として洋学導入を推進した経歴が記されています。『日本大百科全書』は、彼が早くから政権返上を説いたと述べ、攘夷に偏らない現実的外交姿勢を評価しています。

(出典:『国史大辞典』「大久保忠寛」項、『日本大百科全書』「大久保忠寛」項)

江戸無血開城実現への隠れた貢献

無血開城の表舞台に立った勝海舟を支えたのが会計総裁・若年寄だった一翁です。『国史大辞典』は、慶応4年(1868)4月に橋本実梁・柳原前光の勅使を迎え、徳川家処分条項を調整したことを記し、勝との協働を伝えます。恭順派として抗戦論を抑え、江戸市民を戦火から救った功績は高く評価されています。

(出典:『国史大辞典』「大久保忠寛」項)

なぜ勝海舟ほど有名ではないのか ― 「影の功労者」の評価

一翁は交渉の裏側で文書と財政を整える実務に徹し、目立つ場面が少なかったため、後世の知名度は限定的です。もっとも、東京府知事(1872)→ 教部少輔(1875)→ 元老院議官(1877)と政府の要職を歴任し、1887年には子爵を授爵しました。華々しい弁舌よりも静かな実務で国家を支えた点が「影の功労者」と評されるゆえんです。

(出典:『国史大辞典』「大久保忠寛」項、『日本大百科全書』同項)

家系と子孫

『日本人名大辞典』は、一翁を500石の旗本家の出身と記します。家系については、三河宇津氏の流れを引くという説もありますが、主要な辞典では断定されていません。子孫が政界で大きな役割を担った例は少なく、静かな家系として伝わります。

(出典:『日本人名大辞典』「大久保一翁」項)

ゆかりの地

  • 駿府(静岡市):明治2年(1869)8月に静岡藩権大参事となり、減封後の財政と旧幕臣救済に尽力。
  • 東京府庁(現・東京都庁発祥地):東京府知事として近代行政の基礎を整備。
  • 多磨霊園(東京都府中市):没後は青山墓地に葬られましたが、大正期に多磨霊園(1923年開園)へ改葬され、現在も静かに眠っています。

(出典:『国史大辞典』「大久保忠寛」項)

参考文献

  • 『国史大辞典 第2巻』国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館、1980年
  • 『日本大百科全書』、小学館、1994年
  • 『日本人名大辞典』、講談社、2001年

私は普段、IT企業でエンジニアとして働いており、大学では化学を専攻していました。

歴史に深く興味を持つようになったきっかけは、NHK大河ドラマ『真田丸』でした。戦国の武将たちの信念や葛藤、時代のうねりに惹かれ、それ以来、特に戦国時代を中心に歴史の世界を探求しています。

理系出身ということもあり、気になるテーマに出会うと、書籍・論文・学術系ウェブサイトなどを徹底的に調べてしまう癖があります。最近では『戦国人名辞典』(吉川弘文館)などを読み込み、また縁の地も訪問しながら理解を深めています。

記事を執筆する際は、Wikipediaなどの便利な情報源も参考にはしますが、できる限り信頼性の高い文献や公的機関の資料を優先し、複数の情報を照合するように努めています。また、諸説ある場合はその旨も明記し、読者に判断を委ねる姿勢を大切にしています。

本業のエンジニアとして培ってきた「情報の構造化」や「素早いインプット」のスキルを活かして、複雑な歴史的出来事も整理して伝えることを心がけています。初心者ならではの視点で、「かつての自分と同じように、歴史に興味を持ち始めた方」の一助となる記事を目指しています。

まだまだ歴史学の専門家ではありませんが、誠実に歴史と向き合いながら、自分の言葉で丁寧にまとめていきたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。

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