幕末、激動の日本を動かした「四賢侯」の一人、松平春嶽(慶永)。名門徳川一族に生まれながら、開明的な思想で藩政改革や幕政改革に挑み、公武合体運動の中心となるも、理想と現実の狭間で苦悩しました。この記事では、彼が「何をした人」で、どのような理想を持ち、幕末史にどんな足跡を残したのか、信頼できる資料に基づき、初心者にも分かりやすく解説します。
松平春嶽(慶永)とは? – 幕末を動かした開明派の名君
まずは松平春嶽(慶永)がどのような人物だったのか、その基本的なプロフィールと、英明さと理想主義が同居した人となりを見ていきましょう。
基本情報 – 徳川一門出身の改革派藩主
項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 松平 慶永(まつだいら よしなが) |
号 | 春嶽(しゅんがく)※隠居後の号であり、藩主時代は「慶永」を使用 |
生没年 | 文政11年(1828年) – 明治23年(1890年) |
出自 | 田安徳川家第3代・斉匡の八男。天保9年(1838)、将軍徳川家慶の命により、越前福井藩第16代藩主となる。 |
藩主在任 | 1838年から1858年(安政5年)にかけて |
幕府での役職 | 政事総裁職として、幕政改革に従事。 |
新政府での役職 | 内国事務総督、議定、民部卿、大蔵卿、大学別当、侍読などを歴任。 |
関連人物 | 中根雪江、橋本左内、横井小楠、徳川斉昭、徳川慶喜、井伊直弼、山内豊信(容堂)、伊達宗城、島津斉彬 |
墓所 | 東京都品川区南品川の海晏寺 |
※以上はすべて『国史大辞典 第13巻』松平慶永項に基づいて構成。
松平春嶽の歩みを知る年表
徳川一門に生まれ、若くして藩主となり、幕末の政局の調停に尽力し、明治を迎えるまで。松平春嶽の激動の生涯を年表で振り返ります。
年代(西暦) | 出来事・春嶽の動向 |
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1828年(文政11年) | 江戸城内田安邸にて、御三卿・田安徳川家第3代斉匡の八男として誕生。 |
1838年(天保9年) | 将軍徳川家慶の命により越前福井藩主・松平斉善の養嗣子となり、藩主に就任。「慶永」を称する。 |
就任直後〜1840年代 | 中根雪江・橋本左内・村田氏寿らを登用し、財政改革・兵制刷新・藩校「明道館」の整備などに着手。名君の資質を評価される。 |
1853年(嘉永6年) | ペリー来航時には、徳川斉昭の意を受けて幕府の指導力強化と攘夷論を主張したが、安政4年(1857)頃からは積極的な開国論へと転じていった。 |
1857年(安政4年) | 将軍継嗣問題では、一橋慶喜を推戴する一橋派の中心人物として活躍し、島津斉彬・山内容堂・伊達宗城ら開明派諸侯と連携した。 |
1858年(安政5年) | 大老・井伊直弼との政見対立のなか、「不時登城」の罪を口実に隠居・謹慎の処分を受け、支藩・糸魚川藩主であった松平直廉(のちの茂昭)に家督を譲った。 |
1859年(安政6年) | 側近・橋本左内が安政の大獄により刑死。春嶽にとって精神的痛手となる。 |
1862年(文久2年) | 桜田門外の変によって井伊直弼が暗殺され、幕府方針が公武合体に転じたのを受けて、謹慎を解かれ政界に復帰した。 |
1863年(文久3年) | 諸侯会議を提案し上京するも、朝廷からの攘夷実行圧力に反対し、政事総裁職を辞任・帰国。 |
1867年(慶応3年) | 大政奉還に向けて調整を行う。王政復古を前に再び上京し、国事周旋に従事。 |
1868年(明治元年) | 明治新政府に協力し、議定・民部卿・大蔵卿などを歴任。徳川慶喜の服従と徳川家の存続を図る。 |
1870年(明治3年) | 官職を辞し、政治の一線を退く。以後は著述や史料編纂(『逸事史補』『徳川礼典録』)に取り組む。 |
1890年(明治23年) | 東京小石川の邸宅にて死去。享年63。墓所は東京都品川区の海晏寺。 |
出典:
- 『国史大辞典 第13巻』(吉川弘文館、1992年)「松平慶永」項
- 川端太平『松平春嶽』(人物叢書、吉川弘文館、1990年)第1章〜第10章
- 『福井県史 通史編4 近世二』(福井県、1996年)第六章 第一〜第三節
松平春嶽と越前福井藩 – 藩政改革にかける情熱
若くして藩主となった松平春嶽は、疲弊した藩を立て直すため、優れた人材を登用し、意欲的な改革に取り組みました。その具体的な内容と成果を見ていきます。
若き藩主の挑戦 – 藩の課題と改革への決意
春嶽が藩主に就任した当時、福井藩は累積債務と慢性的な財政難に苦しんでいました。藩政の旧弊を打破するべく、彼は若くして抜本的な改革に踏み切る決意を固めます。その原動力には、田安徳川家で培った学問への関心と、国政への問題意識の高さがあったとされます(『松平春嶽』第2章、『福井県史 通史編4 近世二』第六章第一節)。
有能なブレーンたち – 橋本左内、由利公正、横井小楠との出会い
春嶽は、身分や門地にとらわれず人材を登用する姿勢を示しました。中でも橋本左内は、藩政の理念形成において春嶽を支える思想的支柱となり、由利公正(後の三岡八郎)は財政・経済改革の実務に携わります。また外部からの顧問的存在として横井小楠を招き、その先進的な政治理念に影響を受けました(『松平春嶽』第2〜3章、『福井県史』第六章第一節)。
福井藩藩政改革の具体的な内容
松平春嶽は藩主就任後、誠実・謹直で明敏な資質をもって藩政改革に着手し、実際に多くの革新的施策を断行しました。とくに以下のような実績は、『国史大辞典』にも明記されている確実な成果です。
- 藩財政の立て直し
- 兵制の刷新
- 種痘館の設立
- 藩校「明道館」の創設
- 殖産興業策の振興
これらの改革は、春嶽が中根雪江・橋本左内・横井小楠ら有能な人物を登用して進められたものであり、福井藩を幕末における最先進の親藩の一つへと押し上げました。その結果、藩は財政・軍制・教育の各分野で安定を保ち、幕政改革への参画という中央政局への足場を確保することにもつながりました。
(出典:施策内容については『国史大辞典 第13巻』松平慶永項、改革の意義・評価については川端太平『松平春嶽』(第3章)、福井県編『福井県史 通史編4 近世二』(第六章第一節)などを参照。)
松平春嶽、中央政界へ – 幕政改革と公武合体の理想
藩政改革で成果を上げた春嶽は、その識見と行動力をもって中央政界へと進出します。将軍継嗣問題、そして公武合体運動における彼の役割と苦悩を追います。
将軍継嗣問題で徳川慶喜を推す – 一橋派の中心として
将軍継嗣問題が表面化すると、春嶽は徳川慶喜を将軍後継候補として推し、一橋派の中心人物として活動を開始します。その背景には、慶喜の聡明さと時代に適応できる資質を見抜いていたこと、さらに島津斉彬ら同じ開明派大名との連携もありました。
これに対し、大老・井伊直弼を中心とする南紀派は、徳川家斉の子・徳川慶福(のちの家茂)を推し、幕府内の対立は激化していきます。春嶽のこうした政治活動は、幕政関与への端緒ともなりました。(『松平春嶽』第4章、福井県史第六章第二節)
安政の大獄 – 一橋派への弾圧と春嶽の隠退
将軍継嗣問題において一橋慶喜を推す一橋派が勢力を増すなか、南紀派を支持する大老・井伊直弼は、安政5年(1858)6月、慶喜擁立派諸侯の「不時登城」事件を口実として、松平春嶽・徳川斉昭・山内容堂らに隠居・謹慎の処分を下しました。春嶽は越前福井藩の家督を糸魚川藩主・松平直廉(のちの茂昭)に譲り、政治の第一線から退くことになります。
翌安政6年(1859)には、安政の大獄の一環として、春嶽が最も信頼を寄せていた側近・橋本左内が刑死。この事件は、春嶽にとって深い精神的打撃となり、『逸事史補』においても「言語に絶す」とその衝撃を記しています。以後、春嶽は政治的沈黙を強いられる時期に入ります。
(出典:『国史大辞典 第13巻』松平慶永項、川端太平『松平春嶽』第5章、『福井県史 通史編4 近世二』第六章第二節、『逸事史補』巻之一)
復権、そして政事総裁職へ – 公武合体運動の旗手
桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺されると、幕府方針は公武合体路線へと転換。これを受けて文久2年(1862)、春嶽は謹慎を解かれて政界に復帰し、幕府の政事総裁職に就任しました。この役職は、幕政全般の統轄を担う事実上の最高責任者であり、春嶽は就任直後から幕府の私政的体制を厳しく批判し、諸藩の意見を幕政に反映すべきだと主張しました。
とくに彼は、参勤交代制度の緩和や幕臣の特権是正など、封建制度の改革に着手。将軍後見職・徳川慶喜、京都守護職・松平容保とともに、いわゆる「一会桑政権」を形成して政局を主導しました。しかし、春嶽が重視した合議体制・調和路線は、慶喜の幕権集中志向としばしば対立し、両者のあいだに政策方針の不一致も生じるようになります。
それでも春嶽は、朝廷と幕府が協調して国政を運営する「公武合体」を理想に掲げ、将軍継嗣問題から続く政争の収拾と体制改革に尽力しました(出典:『国史大辞典 第13巻』松平慶永項/『松平春嶽』第5章/『福井県史 通史編4 近世二』第六章第二節)。
理想と現実の壁 – 公武合体運動の行き詰まりと辞任
公武合体という春嶽の理想は、朝廷内の尊攘派や幕府内の保守派、さらに薩摩・長州などの雄藩との方針対立により、次第に実現困難な状況へと追い込まれていきました。文久3年(1863年)、朝廷が攘夷決行の期日を定めるよう幕府に迫ると、春嶽はこれに反対し、政令を幕府に一本化する「政令帰一論」を主張します。
しかし、その主張は受け入れられず、春嶽は政事総裁職を辞任。さらに、幕府の許可を得ずに越前へ帰国し、長州藩に対して攘夷の延期を要請するなど、独自に圧力をかけました。この行動は、彼の公武合体構想が政治現実の中で限界に達したことを示しており、政局はやがて大政奉還・王政復古の大号令へと雪崩を打ちます。
(出典:『国史大辞典 第13巻』松平慶永項、川端太平『松平春嶽』第6章、『福井県史 通史編4 近世二』第六章第二節)
松平春嶽と明治維新 – 新時代への関わりと晩年
幕府の要職を辞した春嶽ですが、大政奉還、そして明治維新という歴史の転換点に再び関わることになります。新時代における彼の役割と、その後の人生を見ていきましょう。
大政奉還と新政府樹立への動き
幕府の権威が失われていく中で、春嶽は再び徳川慶喜と連携し、大政奉還の建白に関与しました。この動きは内戦を避けるための和平策でもあり、彼の政治的理想を象徴するものでもあります。
王政復古の大号令ののち、新政府では「議定」という要職に任命され、新体制への移行に協力しました(『松平春嶽』第9章、福井県史第六章第三節)。
徳川救済への尽力と構想の崩壊
春嶽は新政府の議定として、旧幕府の「辞官納地(役職・領地の返上)」に際し、円滑な処理を調整する中心人物となりました。さらに、徳川慶喜の朝政復帰を模索していたものの、その実現を目前にして慶応4年正月の鳥羽・伏見の戦が勃発。徳川家は朝敵とされ、春嶽の公武合体構想はここに潰えることとなりました。
(出典:『国史大辞典 第13巻』松平慶永項、川端太平『松平春嶽』第9章、『福井県史 通史編4 近世二』第六章第三節)
明治政府での活動と早期引退
春嶽は明治政府において、内国事務総督・議定・民部卿・大蔵卿・大学別当・侍読など多くの役職を歴任しました。とくに大学別当・侍読としては、新政府における教育制度の編成に関与し、国学と儒学の対立や、行政官と教育官との摩擦を調整しようと尽力しました。
しかし、こうした諸課題の調整は思うように進まず、明治3年(1870)にすべての官職を辞して政界を退くに至ります(『国史大辞典 第13巻』松平慶永項)。
晩年の春嶽 – 『逸事史補』に綴られた思い
晩年の松平春嶽は、趣味の写真撮影や漢詩・書を楽しむ一方で、政治的回顧と記録にも積極的に取り組みました。とくに『逸事史補』は、幕末維新期の政局や人物評を収録した回想録として知られています。
さらに彼は、儀礼制度や政治運営の記録として『幕儀参考』を著し、晩年には伊達宗城・戸田忠至らとともに『徳川礼典録』の編纂にも参画し、旧幕府の儀礼制度を記録・体系化することに努めた(『松平春嶽』第9章)。
これらは旧幕府体制の政治文化を後世に伝える意図をもった著述活動であり、史料的価値も高いとされます。
明治23年(1890)6月2日、東京府小石川区関口台町の邸宅にて死去。享年63。墓所は東京都品川区南品川の海晏寺にあります(『国史大辞典 第13巻』松平慶永項)。
関連人物とのつながり
松平春嶽の生涯は、多くの重要な歴史人物との関わりの中で形作られました。特に影響力の大きかった人物との関係を見ていきます。
運命を共にした側近 – 橋本左内、由利公正
春嶽の藩政改革を支えた中核人物が橋本左内と由利公正(のちの三岡八郎)でした。春嶽は彼らの才能を早くから見抜き、年齢や身分にとらわれず登用しています。橋本は政治思想や藩政理念の形成において、春嶽の最も信頼する助言者であり、由利は財政や制度改革の実務面で重要な役割を果たしました。
安政の大獄によって橋本左内が処刑された際、春嶽は『逸事史補』で「言語に絶す」とその衝撃を記し、左内の死が精神的打撃であったことを率直に語っている(『逸事史補』巻之一)。
幕末四賢侯 – 山内容堂らとの連携とライバル意識
春嶽と並び称される「幕末四賢侯」には、山内容堂(土佐藩)、伊達宗城(宇和島藩)、島津斉彬(薩摩藩)がいます。彼らとは、将軍継嗣問題や幕政改革、公武合体構想の中で協調・連携しながらも、ときに意見の違いから対立することもありました。
特に山内容堂とは、政治理念の近さと同時に気質の違いもあり、協力しつつも時に批判を交える関係であったことが記されています(『松平春嶽』第5〜6章)。
徳川慶喜 – 擁立から最後まで続いた複雑な関係
春嶽が将軍継嗣として強く推したのが徳川慶喜でした。若き日の慶喜に期待を寄せた春嶽は、その聡明さと時代に対する柔軟な姿勢に惹かれ、たびたび政治的な後押しを行っています。
しかし、公武合体運動や大政奉還の過程で、慶喜の判断や行動に対して疑問や失望を抱くこともあったようです。とはいえ、明治に至っても書簡のやり取りが続けられており、両者の間には複雑ながらも深い信頼関係があったとみられます(『松平春嶽』第6章、第9章)。
思想的影響 – 横井小楠
横井小楠は、熊本藩出身の儒学者・思想家として春嶽に大きな影響を与えました。春嶽は藩政改革期に彼を顧問的立場で招き、政治思想や教育・制度改革に関する多くの助言を受けています。
横井の思想は、合理主義的でありつつ道徳と国政を融合させようとする独自の政治観に基づいており、春嶽が中央政界で目指した「公武合体」や幕政改革にも色濃く反映されていきました(『松平春嶽』第2〜3章)。
時代背景と松平春嶽の役割
松平春嶽が生きた幕末とはどのような時代だったのか。その中で彼が果たそうとした役割と、歴史的な位置づけを考えます。
幕末 – 開国、体制変革、思想対立の奔流
春嶽が政治の表舞台に立った幕末期は、ペリー来航に始まる開国と攘夷の対立、西洋列強の圧力、そして幕藩体制の動揺などが重なった、かつてない混乱の時代でした。
尊皇攘夷、開国、倒幕、公武合体など多様な政治理念が交錯する中、春嶽は「調整型」の政治家として、幕府・朝廷・雄藩の意見を調停し、内乱を防ごうと尽力しました(『松平春嶽』第3〜6章)。
開明派大名としての先進性と限界
春嶽は早くから西洋の学問や政治制度に注目し、それを藩政や国政に取り入れようとした数少ない開明派大名の一人でした。藩政改革で導入された洋式軍制や藩校での洋学教育、殖産興業策などはその表れです。
しかし、彼の理想主義や徳川一門という出自は、時に大胆な改革を妨げる要因にもなりました。強い指導力や革命的行動力を持つ人物とは異なり、調停役としての限界も同時に指摘されることがあります(『松平春嶽』第2章、第6章)。
公武合体という「第三の道」の探求者
春嶽は、尊皇攘夷でも開国倒幕でもない「第三の道」として、公武合体構想を一貫して模索しました。幕府と朝廷が協力し、新しい体制を作るというこの構想は、平和的な体制移行を目指すものであり、当時としては画期的な政治理念でした。
しかし、尊攘派の台頭や幕府の弱体化により、公武合体は政治的現実に押し流されていきます。春嶽の構想は実現されなかったものの、その理念は後の立憲体制や政治調和の思想へと引き継がれていったとも評価されています(『松平春嶽』第5〜6章、福井県史第六章第二節)。
歴史に刻まれた松平春嶽 – 賢侯の功績、苦悩、そして遺したもの
藩政改革、幕政参与、そして明治へ。松平春嶽の生涯は、幕末という時代の縮図とも言えます。彼の功績と苦悩、そして歴史に何を残したのかを振り返ります。
藩政改革と人材育成 – 福井藩に残した遺産
春嶽は若くして藩政改革に取り組み、福井藩の近代化に向けた土台を築きました。特に財政再建、軍制改革、教育制度の整備を通じて、福井藩を開明的な藩へと転換させたことは特筆されます。
また、彼が登用した橋本左内や由利公正らは、後の幕末・維新の政局で重要な役割を果たしており、春嶽の人材育成の眼力と功績は高く評価されています(『松平春嶽』第2〜3章、福井県史第六章第一節)。
幕政改革・公武合体への尽力とその挫折
春嶽は藩主としての実績をもとに幕政に参画し、政事総裁職として公武合体運動を主導しました。朝廷と幕府をつなぐ調停役としての役割を果たすことで、内戦の回避を目指したのです。
しかし、朝廷内の尊攘派や幕府の保守勢力、さらには雄藩との利害の対立などによって、その構想は次第に行き詰まりを見せ、政事総裁職を辞する結果となります。ここに春嶽の理想と現実のギャップが明確に表れることとなりました(『松平春嶽』第5〜6章)。
「英明か、優柔不断か」 – 多面的な人物評価
春嶽はその学識と政治的先見性から「英明な賢侯」と称される一方で、決断力に欠けるという批判も受ける人物です。将軍継嗣問題や幕政改革においては、重要な局面での決断の遅れや逡巡が指摘されることもありました。
しかしその反面、情勢を冷静に見極めて行動する慎重さや調停能力は、戦乱を回避する上で大きな力となったともいえます。この多面性こそが、松平春嶽という人物の複雑で人間味ある魅力の一端を成しています(『松平春嶽』第6〜9章)。
春嶽が現代に伝えるもの – 改革者の情熱と苦悩
松平春嶽の歩みは、変革期におけるリーダーのあるべき姿を私たちに問いかけます。急進的な革命ではなく、対話と調整による改革を目指した彼の姿勢は、現代においても示唆に富んでいます。
また、自らの見聞や思索を日記『逸事史補』として記録に残した姿勢からは、歴史を後世に伝える意志と誠実さが見て取れます。彼の残した記録は、当時の政治や人物の動静を知るうえでも貴重な資料です(『逸事史補』、福井県史第六章第三節)。
松平春嶽ゆかりの地
- 福井城址・福井市立郷土歴史博物館(福井県福井市)
- 明道館跡(福井県福井市)
- 橋本左内墓所(福井県福井市、東京都荒川区)
- 海晏寺(東京都品川区):春嶽の墓所
- 松平春嶽公別邸跡(現・養浩館庭園)(福井県福井市)
参考文献
- 『国史大辞典 第13巻』、国史大辞典編集委員会 編、吉川弘文館、1991年
- 川端 太平『松平春嶽』(人物叢書)吉川弘文館、1990年
- 福井県編『福井県史 通史編4 近世2』福井県、1996年
- 松平春嶽著『逸事史補』〔『幕末維新史料叢書 第4巻』人物往来社、1968年所収〕