幕末の英雄・西郷隆盛や島津斉彬を生み出した薩摩藩。その礎を築いた藩主が、島津斉興(しまづ なりおき)です。 財政破綻寸前だった薩摩藩を驚異的な手腕で立て直し、藩の近代化への道を開いた一方、自らの後継問題を巡って激しいお家騒動「お由羅騒動」を引き起こしたことでも知られています。 この記事では、島津斉興の生涯と財政改革、そして薩摩藩を揺るがせたお由羅騒動の真相まで、功績と問題点の両面からわかりやすく解説していきます。 激動の時代を生きた一人の藩主の「光と影」を、ぜひご一緒に辿ってみましょう。
島津斉興の基本情報
江戸時代後期、混迷する日本の中で薩摩藩を財政危機から救い、近代化の礎を築いた藩主――それが島津斉興(しまづ なりおき)です。財政改革を断行しつつも、後継者問題では深刻なお家騒動を引き起こした斉興。その生涯は、「英断と頑固」「光と影」が交錯する激動の時代そのものでした。ここでは、島津斉興の基本情報と彼を取り巻く背景について整理していきます。
項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 島津 斉興(しまづ なりおき) |
生没年 | 寛政2年11月1日(1791年12月6日) – 安政6年8月28日(1859年9月24日) |
家系 | 薩摩藩島津家27代当主、第10代藩主。父は島津斉宣。 |
藩主在任 | 文化6年(1809年) – 嘉永4年(1851年) |
主な役職 | 薩摩藩主、従四位上・大隅守、左近衛中将 |
家族 | 正室:弥姫(周子、かねこ。一橋治済の娘、池田治道の養女)、側室:お由羅の方 他。子:島津斉彬(母:弥姫)、島津久光(母:お由羅の方) 他多数 |
主な事績 | 調所広郷登用による藩財政改革(天保改革)、お由羅騒動 |
関連人物 | 調所広郷、島津斉彬、島津久光、お由羅の方、阿部正弘、西郷隆盛(斉彬側近) |
死因 | 病没(具体的な病名は伝わっていない) |
墓所 | 鹿児島県鹿児島市・福昌寺跡(島津家墓地) |
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名門・島津家の家督相続
斉興は、名門・島津家の直系として生まれ、わずか18歳で藩主の座に就きました。当時、薩摩藩は祖父・島津重豪の放漫な財政運営により、莫大な借財を抱えていました。若き斉興は、重豪の後見のもと困難な政務に挑みながら、次第に自らの統治スタイルを確立していきます。名家の当主として、財政危機の克服と藩政立て直しという重責を背負った斉興の苦悩の始まりでした。
家族 – 斉彬・久光、そして側室お由羅
島津斉興には、正室・周子との間に生まれた嫡男・斉彬、側室・お由羅の方との間に生まれた久光ら、数多くの子がいました。特に斉彬と久光という二人の男子は、後に薩摩藩の行く末を大きく左右する存在となります。正統な跡継ぎでありながらも政治的に冷遇された斉彬と、寵愛を受けた久光。その間に立ったお由羅の方は、藩内政治に強い影響力を持つようになり、後のお由羅騒動へとつながる複雑な家族関係が形成されていきました。
島津斉興の人となり – 改革への意志と保守性
若き頃より藩政再建に心血を注いだ斉興は、危機を打開するために大胆な手腕を発揮しました。一方で、新たな時代を切り拓こうとする息子・斉彬の急進的な改革案には慎重な姿勢を崩さず、保守的な側面を色濃く見せます。藩政改革においては断固たる決断力を持ちながらも、家督相続を巡る場面では頑なな意志を貫き、結果的に藩内対立を深めてしまった――そんな光と影が同居する人物像が、島津斉興には刻まれているのです。
島津斉興の歩みを知る年表
年代(西暦) | 出来事・藩主斉興の動向 |
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1791年(寛政2年) | 誕生(父・島津斉宣、母・お登勢の方) |
1809年(文化6年) | 父・斉宣の隠居に伴い、薩摩藩主に就任(祖父・重豪の後見を受ける) |
(藩主就任後) | 破綻寸前の藩財政に直面 |
1828年(文政11年) | 側用人・調所広郷を登用し、財政再建に着手 |
1830年代~ (天保年間) | 天保改革(密貿易・砂糖専売強化など)を主導し、藩財政を劇的に再建 |
1848年(嘉永元年) | 調所広郷、密貿易発覚を恐れ江戸藩邸で自害 |
1848年末~1849年(嘉永2年) | お由羅騒動(高崎崩れ)勃発、斉彬派藩士を粛清 |
1849年(嘉永2年) | 幕府(老中・阿部正弘)による介入開始 |
1851年(嘉永4年) | 幕府の命により隠居。家督を嫡男・島津斉彬に譲る |
1858年(安政5年) | 島津斉彬が急逝、孫・島津忠義が家督を継ぐ |
1859年(安政6年) | 鹿児島にて病没(享年70 ※数え年) |
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関連人物とのつながり
島津斉興の治世を語るには、彼を支え、時に対立した重要人物たちの存在を無視することはできません。ここでは、特に関係の深い四者――調所広郷、島津斉彬、島津久光とお由羅の方、そして幕府老中・阿部正弘――とのつながりを中心に見ていきます。
調所広郷(ずしょ ひろさと) – 財政再建の右腕、そして悲劇
島津斉興が直面していた破綻寸前の藩財政を救った立役者が、側用人から家老に抜擢された調所広郷でした。文政11年(1828年)、斉興は祖父・重豪の後ろ盾を得て、調所に大胆な財政改革を一任します。 調所は、藩債を事実上踏み倒すかたちで超長期無利子返済に持ち込み、さらに黒砂糖の専売制度を徹底して藩収入を飛躍的に増加させました。また、琉球を通じた密貿易にも手を染め、莫大な利益を藩にもたらしました。 しかしこの密貿易は、幕府の規則に違反する重大なリスクを伴うものでした。嘉永元年(1848年)、抜け荷疑惑が江戸幕府に露見すると、密貿易発覚を受け、調所広郷は江戸藩邸で服毒自害した。 斉興は彼の死を深く悼みながらも、調所の成果によって得た財政的基盤を、藩政の安定と軍備強化に活用していきました。
嫡男・島津斉彬 – 期待と深刻な確執
島津斉興の嫡男斉彬(なりあきら)は、幼少より聡明さと進取の気性を備えた人物でした。蘭学・西洋技術に通じ、開国的な思想を抱いていた斉彬は、薩摩藩の近代化を推進しようと強く志していました。 しかし、保守的な斉興にとって、斉彬の開明路線は危うく見えたのです。財政再建に心血を注いできた斉興は、改革による再びの財政破綻を何よりも恐れていました。こうして父子の間には深刻な意見対立が生じ、斉興はなかなか斉彬に家督を譲ろうとしませんでした。 この父子の確執は藩内にも波及し、斉彬を支持する若手藩士(西郷隆盛や大久保利通ら)が密かに勢力を広げる一方、斉興派の保守勢力も対抗。やがてこれが「お由羅騒動」へと発展していきます。
島津久光とお由羅の方 – 渦中の人物とその立場
島津斉興が晩年、特別に愛した側室がお由羅の方でした。江戸の町人の娘という出自ながら、聡明で美貌に恵まれ、斉興の寵愛を受けます。そして二人の間に生まれたのが、後に「国父」と称される島津久光(ひさみつ)です。 斉興は、久光に深い期待を寄せるようになり、彼を後継に推す意向を持ち始めました。(久光に深い期待を寄せたとも言われますが、正式に後継指名したかどうかは史料上明確ではありません。)一方、久光自身は兄・斉彬と比較されることを嫌い、当初は政治への積極的な関与を望んでいなかったともされます。 しかし「お由羅騒動」の勃発により、久光は否応なく藩内政局の渦中に引きずり込まれました。結果的に久光は、父・斉興の隠居後、藩政の実権を握る立場となり、後の幕末動乱期には薩摩藩の指導者として歴史の表舞台に立つことになります。
幕府老中・阿部正弘 – お家騒動への介入
「お由羅騒動」が激化し、藩内抗争が幕府にも知られるようになると、当時の幕府老中首座だった阿部正弘(あべまさひろ)が事態の収拾に乗り出しました。 阿部は、ペリー来航という国難を控えるなか、開明派の斉彬の能力に期待を寄せていました。藩内抗争の泥沼化を憂慮した阿部は、斉興に対して隠居を命じるよう将軍・徳川家慶を通じて働きかけます。 嘉永4年(1851年)、将軍からの内意を受けた斉興は、ついに嫡男・斉彬に家督を譲り、自らは隠居。こうして薩摩藩の激しい内紛は、幕府の介入によって一応の決着を見ることとなりました。
島津斉興の藩政 – 500万両の借金からの再建
藩主として島津斉興が直面した最大の課題は、破綻寸前の薩摩藩財政でした。ここでは、絶望的な状況から奇跡的な再建に至る過程と、その光と影を詳しく見ていきます。
絶望的な藩財政 – 薩摩藩破綻の危機
文化6年(1809年)、若干18歳で藩主となった島津斉興が引き継いだ薩摩藩の財政は、まさに壊滅寸前の状態にありました。 その原因は複合的です。
- 祖父・島津重豪の進歩政策による莫大な支出(学問奨励や文化事業、洋式技術の導入など)
- 木曽川治水工事など、幕府から課せられた公共事業の巨額出費
- 頻発する飢饉や自然災害による農村疲弊
- 大名行列や江戸屋敷の維持にかかる参勤交代費用の膨張 これらが積み重なり、藩債は実に500万両(現在の貨幣価値で数千億円相当とも)に膨れ上がっていました。 若き藩主・斉興は、まさに「火の車」の藩政運営を強いられることになったのです。
調所広郷による天保改革 – 奇跡か、禁じ手か
この絶望的状況を打開すべく、斉興は文政11年(1828年)、側用人の 調所広郷(ずしょ ひろさと)を抜擢します。 調所は、非常に大胆かつ苛烈な手法で藩財政の建て直しに着手しました。
- 緊縮財政: 藩士への俸禄削減や支出削減を断行し、藩内全体に倹約を強いました。
- 砂糖専売強化: 奄美群島で産する黒砂糖を薩摩藩が独占し、直接販売して莫大な収益を上げました。 これにより、地元農民には過酷なノルマが課され、いわゆる「黒糖地獄」と呼ばれる苛烈な労働環境が生まれました。
- 琉球を通じた密貿易: 琉球王国を隠れ蓑にして清国と密貿易を展開し、藩外貨を稼ぎました。 これは幕府法令違反でしたが、あえて違法行為に踏み込んだ点が調所の「禁じ手」とも言えます。
- 借金整理: 藩債の返済を無利子・250年分割払いという極めて有利な条件に変更させ、大坂商人たちに泣き寝入りを強要しました。
これらの手段により、薩摩藩の財政は劇的に回復。かつて500万両あった借金は整理され、天保年間末には逆に50万両の蓄財ができるほどの黒字化に成功しました。 一方で、こうした裏技的な方法には多くの批判も存在し、のちに調所本人も密貿易発覚の責任をとって自害するという悲劇に見舞われます。
財政再建の「光」と「影」
島津斉興と調所広郷による財政再建は、まさに奇跡的な成果でした。
- 光の側面:
- 薩摩藩を倒産寸前から救い出し、後に雄藩として日本史に大きな影響を与える基盤を築いた。
- 財政余力によって、軍備近代化や集成館事業(産業育成事業)など幕末薩摩藩の躍進が可能となった。
- 影の側面:
- 奄美群島民への重税・重労働強制など、庶民に犠牲を強いる改革だった。
- 密貿易という違法行為に手を染めざるを得なかった道義的問題。
- 幕府の取り締まりリスクを抱え、調所広郷の自害という痛ましい結末を招いた。
斉興にとって、藩政改革は成功であった一方、その背後には深い代償があったのです。 この「光と影」が、彼の政治手腕と評価を複雑なものにしています。
お由羅騒動(高崎崩れ):藩を揺るがした後継者争い
島津斉興の晩年、薩摩藩は後継問題をめぐって深刻な対立に揺れました。正統な嫡子・斉彬派と、側室・お由羅の方の子・久光派による争いは、やがて血を流す政争へと発展します。 ここでは、この「お由羅騒動(高崎崩れ)」の経緯とその影響を追います。
騒動の火種 – 斉彬派 vs 久光派(お由羅派)の対立
当時、薩摩藩内は次期藩主をめぐって二大勢力に分裂していました。
- 斉彬派: 正室・周子の子であり、正統な嫡男である島津斉彬(なりあきら)を推すグループ。開明的な政策を期待する藩士や若手層が多く支持しました。
- 久光派(お由羅派): 斉興が晩年に寵愛した側室お由羅の方の子、島津久光(ひさみつ)を後継に据えようとするグループ。保守派や既得権層が中心でした。
両派の対立をさらに激化させたのは、呪詛(じゅそ)の噂です。 斉彬の子供たちが次々と幼くして夭折したことから、藩内では「お由羅の方が呪詛を行った」という風聞が広まりました。 もちろん実際に呪詛があった証拠はありませんが、藩士たちの疑心暗鬼を煽り、後継争いの火種となったのです。
高崎崩れ – 斉彬派への苛烈な弾圧
嘉永2年(1849年)、ついに斉彬派の一部が、久光擁立派を排除しようと暗殺計画を企てたとされる事件が発覚します。 この密謀が事前に密告され、「高崎崩れ」と呼ばれる苛烈な粛清が始まりました。
- 斉興は即座に対応し、関与したとされた高崎五郎右衛門ら斉彬派重鎮を次々と逮捕。
- 島津壱岐、山田清安ら斉彬派家老を含む多数が切腹・遠島・蟄居などの厳罰に処されました。
- 記録によれば、このとき50名以上の藩士が処分を受けたとされます。
斉興はこの断固たる措置によって藩内の実権を再び掌握しましたが、藩士たちの心には深い傷跡を残すこととなりました。
幕府介入と騒動の終結
粛清劇によって一旦は久光派が優勢となったものの、斉彬派は完全には屈しませんでした。 脱藩して逃れた斉彬支持者たちは、福岡藩主黒田長溥(ながひろ)らの支援を受け、幕府に訴え出ます。
- 当時の老中首座阿部正弘は、ペリー来航を控えた国難に対応できる指導者として斉彬を高く評価しており、斉彬擁立に動きます。
- 嘉永4年(1851年)、幕府は斉興に対し「隠居を勧告」。
- 斉興はこれを受け入れ、藩主職を嫡男斉彬に譲ることになりました。
こうして長く続いたお由羅騒動は、幕府の介入によって決着を見ることとなったのです。
騒動が残した深い爪痕と教訓
お由羅騒動は単なる藩内の政争にとどまらず、薩摩藩の今後に大きな影響を与えました。
- 藩内の深刻なしこり: 粛清を受けた斉彬派藩士たちと、久光派藩士たちの間には長く遺恨が残りました。
- 斉彬と久光兄弟の微妙な関係: 表面的には和解したものの、斉彬と久光の間には根強い不信感が漂い、後の薩摩藩の政策にも影を落とします。
- 教訓: 血で血を洗う権力闘争の末、藩士の士気は大きく低下し、幕末の政治運営に課題を残しました。 同時に、この経験が西郷隆盛や大久保利通といった人材に「時流を読むこと」「時に忍耐すること」の重要性を刻み込んだとも言われています。
お由羅騒動は、幕末日本における藩内権力闘争の典型例であり、政治とは「正義だけでは動かない」という厳しい現実を教える一大事件となったのです。
時代背景と島津斉興の役割
島津斉興が薩摩藩を率いた時代、江戸幕府はすでに安泰ではありませんでした。国内外でさまざまな危機が進行しており、各藩は生き残りをかけて厳しい選択を迫られていました。斉興の藩政と決断は、こうした動乱の時代背景と深く結びついています。
江戸後期~幕末前夜の国内外情勢:財政難と海外の脅威
- 藩財政の逼迫: 19世紀前半、ほとんどの藩は度重なる自然災害、米価の乱高下、参勤交代などの負担によって財政破綻寸前の状況に追い込まれていました。薩摩藩も例外ではなく、500万両を超える莫大な借金を抱えていました。
- 外圧の高まり: アヘン戦争(1840年~)で清国が欧米列強に敗北したことは、日本にも大きな衝撃を与えました。斉興の治世後期には、琉球王国を通じた接触をきっかけに、欧米船が薩摩近海に出没するようになり、通商を求める圧力が高まっていました。
- 幕府の動揺: 天保の改革(1841〜1843年)が失敗に終わり、幕府自体も内外からの信用を失いつつありました。これにより各藩の自主的な政治努力が一層重要になっていたのです。
保守的ながらも藩の存続を第一とした島津斉興の立場
島津斉興は、基本的に保守的な立場を取り続けた人物です。
- 藩の再建優先: 斉興はまず財政再建を最優先課題とし、調所広郷に大幅な権限を与えて改革を断行しました。大胆な密貿易や債務整理など、手段を選ばない現実主義的な方針が特徴でした。
- 開明政策への慎重姿勢: 一方で、嫡男・斉彬が推進しようとした急進的な西洋化には強い警戒心を抱いていました。財政を立て直してもなお、無謀な軍備拡張や急進改革は藩を再び危機に陥れると危惧していたのです。
- 存続を最優先: 斉興にとって、藩の存続こそが最も重要な使命でした。たとえそれが時に民衆に負担を強い、藩内に亀裂を生じさせるものであっても、現実的な手段を選び続けたのです。
次代への布石:斉彬・久光・西郷らの時代への橋渡し
島津斉興の藩政には賛否両論ありますが、後の薩摩藩の躍進を支える重要な土台を築いたことは間違いありません。
- 財政基盤の確立: 斉興・調所時代に整えられた財政基盤があったからこそ、後に斉彬が進めた集成館事業や軍備拡張、対外政策が可能になりました。
- 人材の土壌形成: 斉興期の政治的緊張の中で、西郷隆盛、大久保利通といった人材が苦難を経験し、後の明治維新の原動力となる精神を鍛えられました。
- 両派のしこりも教訓に: お由羅騒動で深まった藩内対立は、皮肉にも藩士たちに「内部対立の危険性」や「時流を読む重要性」を教えることになり、幕末の政治対応に活かされていきます。
島津斉興の家族・系譜と関連人物
島津斉興の出自と家族関係について、ここで整理しておきましょう。斉興は薩摩藩主家・島津宗家の27代当主で、その血筋は名門・島津家の本流にあたります。
斉興の祖先と出自
- 祖父:島津重豪(しげひで) 第8代薩摩藩主。文化・学問に熱心な一方、藩財政を悪化させたとされる人物。斉興の藩政改革を主導し、調所広郷を登用しました。
- 父:島津斉宣(なりのぶ) 第9代薩摩藩主。祖父・重豪により隠居させられ、斉興に家督を譲りました。 斉興は、父・斉宣の隠居により文化6年(1809年)に藩主に就任しましたが、若いころは祖父・重豪の傀儡(かいらい)状態だったと伝えられています。
母・正室・側室について
- 母:お登勢の方(おとせのかた) 市田氏の娘で、島津斉宣の側室。斉興の実母にあたります。
- 正室:弥姫(周子、かねこ) 一橋治済の三女で、鳥取藩主・池田治道の養女。教養豊かな女性で、斉興との間に嫡男・島津斉彬らをもうけました。
- 側室:お由羅の方 江戸の町人の娘。薩摩藩江戸屋敷に奉公していた際に斉興の目に留まり側室となり、島津久光らを産みました。特に久光の誕生は、後のお由羅騒動や藩政に大きな影響を及ぼしました。
子どもたちとその役割
- 長男:島津斉彬(なりあきら) 正室・周子の子。第11代薩摩藩主として、近代化政策(集成館事業など)を推進。西洋技術導入に積極的で、「名君」と称されました。
- 次男:島津久寧(ひさやす) 母は周子。岡山藩主池田家に養子に出されるも、夭折しました。
- 三男:島津久光(ひさみつ) 母はお由羅の方。異母兄・斉彬の死後、事実上の藩政を掌握。幕末期には「国父」と称され、明治維新を支える重要な存在となりました。
- 孫:島津忠義(ただよし) 久光の子で、斉彬の養嗣子として第12代薩摩藩主となりました。忠義の藩主就任は斉興の晩年にあたりますが、実質的な後見や藩政指導は父・島津久光が担いました。斉興が直接藩政に関与した期間はごく短期間にとどまっています。
島津家内での力関係と影響
このように、島津斉興を中心とする島津家の人間関係は極めて複雑でした。
- 斉興の財政改革を継承して近代化を推し進めたのが、息子の斉彬。
- お由羅騒動を経て藩の実権を掌握したのが、異母弟の久光。
- そして孫の忠義の時代に、薩摩藩は明治維新を迎えることとなります。
この父子・兄弟関係が、幕末の薩摩藩、そして日本史全体においても大きな役割を果たしたのです。
財政再建とお家騒動を生きた島津斉興の実像
島津斉興の生涯を振り返ると、そのリーダーシップと功罪が鮮明に浮かび上がります。破綻寸前の薩摩藩を立て直した財政手腕と、藩を分断するお家騒動という二つの側面から、彼の実像を見ていきましょう。
藩政再建の功績とリーダーシップ
島津斉興の最大の功績は、財政再建という困難な課題に果敢に取り組み、薩摩藩を破綻から救ったことにあります。
- 功績:
- 500万両という莫大な藩債を大胆な政策で整理し、藩財政を劇的に改善。
- 財政黒字化を実現し、後の幕末雄藩としての薩摩藩の基盤を築いた。
- リーダーシップ:
- 危機対応型リーダーとして、即断即決の財政改革を推進。
- 調所広郷に全幅の信頼を置き、大胆に権限を委譲するトップダウン型の統治スタイルを採用。
- 一方で、新しい技術導入や急進的な改革に対しては慎重・保守的な姿勢を崩さなかった。
実行力と保守性が同居する独特のリーダー像は、後世にも学ぶべき点が多いと言えるでしょう。
お家騒動の責任と評価
一方で、島津斉興は後継者問題において藩を大きく揺るがす結果を招きました。
- 責任:
- 後継者問題を情実に流されて判断し、藩論を二分する深刻な対立を生んだ。
- お由羅騒動(高崎崩れ)による大量処罰で、多くの有為な人材を失わせた。
- 評価:
- 財政再建という偉業を成し遂げながらも、内部抗争を激化させた責任は重い。
- 歴史的には「功罪相半ば」とする評価が一般的であり、光と影の両面を持つ人物として記憶されています。
薩摩藩雄飛の礎 – 島津家全体の文脈で
島津斉興と調所広郷による改革がなければ、幕末の薩摩藩の活躍はあり得なかったとも言われています。
- 斉興の財政再建によって、薩摩藩は倒幕運動を支える雄藩へと成長。
- 西郷隆盛や大久保利通といった人材が活躍できた背景には、豊かな藩財政と積極的な近代化の基盤がありました。
- 一方で、お由羅騒動で生じた藩内対立は、後の斉彬派と久光派の亀裂につながり、薩摩藩内の政治的緊張を引きずる遠因にもなりました。
- また、大河ドラマ「西郷どん」では、島津斉興の保守的な面と複雑な人物像が描かれ、現代の私たちにも彼の治世の難しさを伝えています。
島津斉興ゆかりの地
- 鹿児島城(鶴丸城)跡(鹿児島市) 斉興が藩主として拠点とした城。現在は石垣や堀が残り、城山公園として整備されています。
- 仙巌園(磯庭園)(鹿児島市) 島津家の別邸であり、斉興時代からの庭園や建築が残っています。後に斉彬が集成館事業を展開した地でもあります。
- 福昌寺跡墓地(鹿児島市) 斉興をはじめとする島津家歴代藩主の墓所。薩摩藩主の歴史を静かに物語る場所です。
参考文献
- 鹿児島県公式サイト「調所広郷の財政改革」 https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/pr/gaiyou/rekishi/tyuusei/zusyo.html
- 鹿児島県公式サイト「お由羅騒動」 https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/pr/gaiyou/rekishi/tyuusei/oyura.html
- 尚古集成館 公式サイト「二十七代 島津斉興」 https://www.shuseikan.jp/timeline/shimadzu-narioki/
- 鹿児島市公式サイト「島津忠義」紹介ページ https://www.kagoshima-yokanavi.jp/spot/10116
- 原口虎雄『お由羅騒動』改訂新版 世界大百科事典