幕末、激動の日本を動かした「四賢侯」の一人、松平春嶽(慶永)。名門徳川一族に生まれながら、開明的な思想で藩政改革や幕政改革に挑み、公武合体運動の中心となるも、理想と現実の狭間で苦悩しました。この記事では、彼が「何をした人」で、どのような理想を持ち、幕末史にどんな足跡を残したのか、信頼できる資料に基づき、初心者にも分かりやすく解説します。
松平春嶽(慶永)とは? – 幕末を動かした開明派の名君
まずは松平春嶽(慶永)がどのような人物だったのか、その基本的なプロフィールと、英明さと理想主義が同居した人となりを見ていきましょう。
基本情報 – 徳川一門出身の改革派藩主
項目 | 内容 | 出典例 |
---|---|---|
名前 | 松平 慶永(まつだいら よしなが) | 『松平春嶽』第1章(川端1990) |
号 | 春嶽(しゅんがく) | 同上 |
生没年 | 文政11年9月2日(1828年10月10日) – 明治23年(1890年)6月2日 | 同上、および『福井県史 通史編4 近世二』第六章第一節(福井県1996) |
出自 | 御三卿・田安徳川家斉匡の八男。越前福井藩 第16代藩主・松平斉善の養子。 | 『松平春嶽』第1章、および『福井県史』同章 |
藩主在任 | 天保9年(1838年) – 安政5年(1858年) | 『松平春嶽』第2章、福井県史第六章第一節 |
幕府での主な役職 | 政事総裁職(文久2年~文久3年) | 『松平春嶽』第5章 |
新政府での主な役職 | 議定、民部官知事、大蔵卿 など | 『松平春嶽』第9章、福井県史第六章第三節 |
評価 | 幕末四賢侯の一人、開明派大名 | 『松平春嶽』全般的記述 |
関連人物 | 橋本左内、由利公正、横井小楠、徳川慶喜、山内容堂、伊達宗城、島津斉彬、井伊直弼、西郷隆盛、勝海舟 | 『松平春嶽』第4〜8章など各章 |
死因 | 病死 | 『逸事史補』(幕末維新史料叢書 第4巻 所収) |
墓所 | 東京都品川区・海晏寺(かいあんじ) | 『松平春嶽』終章・略年譜 |
松平春嶽の歩みを知る年表
徳川一門に生まれ、若くして藩主となり、幕末の中央政界で活躍、そして明治を迎えるまで。松平春嶽の激動の生涯を年表で追います。
年代(西暦) | 出来事・春嶽の動向 【コメント】 | 出典例 |
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1828年(文政11年) | 江戸・田安邸にて誕生。 | 『松平春嶽』第1章(川端1990) |
1838年(天保9年) | 越前福井藩主・松平斉善の養子となり、家督を相続。第16代藩主となる。【若き藩主の誕生】 | 同上、第2章、福井県史第六章第一節 |
1838年以降 | 藩財政の窮状を知り、藩政改革を決意。橋本左内、由利公正らを登用開始。 | 『松平春嶽』第2〜3章、福井県史第六章第一節 |
1853年(嘉永6年) | ペリー来航。幕政への関心を強める。 | 『松平春嶽』第3章、福井県史第六章第二節 |
1857年(安政4年) | 将軍継嗣問題が本格化。徳川慶喜擁立運動(一橋派)の中心人物となる。【中央政界での活動開始】 | 同上第4章 |
1858年(安政5年) | 安政の大獄。大老・井伊直弼により隠居・永蟄居を命じられる。【最初の大きな挫折】 | 第4章〜第5章、福井県史第六章第二節 |
1859年(安政6年) | 側近・橋本左内が安政の大獄で刑死。【大きな痛手】 | 同上 |
1862年(文久2年) | 桜田門外の変(井伊直弼暗殺)後、蟄居を解かれ復権。幕府政事総裁職に就任。【幕政の頂点へ】 | 第5章、福井県史第六章第二節 |
1862年~1863年 | 将軍後見職・徳川慶喜、京都守護職・松平容保と共に公武合体を推進(一会桑政権)。【改革推進と苦悩】 | 同上 |
1863年(文久3年) | 公武合体運動の難航、幕府内対立などから政事総裁職を辞任。【理想と現実のギャップ】 | 第6章 |
1867年(慶応3年) | 大政奉還。 | 第6章 |
1868年(明治元年) | 新政府の議定に就任。戊辰戦争。 | 第9章、福井県史第六章第三節 |
明治初期 | 民部官知事、大蔵卿などを歴任するが、早期に公職から引退。 | 同上 |
1890年(明治23年) | 東京にて死去。 | 『松平春嶽』終章・略年譜 |
松平春嶽と越前福井藩 – 藩政改革にかける情熱
若くして藩主となった松平春嶽は、疲弊した藩を立て直すため、優れた人材を登用し、意欲的な改革に取り組みました。その具体的な内容と成果を見ていきます。
若き藩主の挑戦 – 藩の課題と改革への決意
春嶽が藩主に就任した当時、福井藩は累積債務と慢性的な財政難に苦しんでいました。藩政の旧弊を打破するべく、彼は若くして抜本的な改革に踏み切る決意を固めます。その原動力には、田安徳川家で培った学問への関心と、国政への問題意識の高さがあったとされます(『松平春嶽』第2章、『福井県史 通史編4 近世二』第六章第一節)。
有能なブレーンたち – 橋本左内、由利公正、横井小楠との出会い
春嶽は、身分や門地にとらわれず人材を登用する姿勢を示しました。中でも橋本左内は、藩政の理念形成において春嶽を支える思想的支柱となり、由利公正(後の三岡八郎)は財政・経済改革の実務に携わります。また外部からの顧問的存在として横井小楠を招き、その先進的な政治理念に影響を受けました(『松平春嶽』第2〜3章、『福井県史』第六章第一節)。
福井藩藩政改革の具体的な内容
春嶽による藩政改革は多岐にわたり、以下のような実績が挙げられます。
- 財政再建:藩札の整理、物産会所の設立など殖産興業の推進
- 軍制改革:洋式兵術の導入や兵制の近代化
- 教育改革:藩校「明道館」の拡充、洋学導入による人材育成
- 身分制度改革:能力主義による登用の促進
これらの改革により福井藩は、幕末期においても比較的安定した基盤を維持し、中央政局に積極的に関与する足場を築くことができました(『松平春嶽』第3章、『福井県史』第六章第一節)。
松平春嶽、中央政界へ – 幕政改革と公武合体の理想
藩政改革で成果を上げた春嶽は、その識見と行動力をもって中央政界へと進出します。将軍継嗣問題、そして公武合体運動における彼の役割と苦悩を追います。
将軍継嗣問題で徳川慶喜を推す – 一橋派の中心として
将軍継嗣問題が表面化すると、春嶽は将軍後見職の徳川慶喜を擁立すべく、一橋派の中心人物として活動を開始します。その背景には、慶喜の聡明さと時代に適応できる資質を見抜いていたこと、さらに島津斉彬ら同じ開明派大名との連携もありました。
これに対し、大老・井伊直弼を中心とする南紀派は、徳川家斉の子・徳川慶福(のちの家茂)を推し、幕府内の対立は激化していきます。春嶽の活動は幕政改革の第一歩でしたが、やがてそれは政治的弾圧へと繋がっていくことになります(『松平春嶽』第4章、福井県史第六章第二節)。
安政の大獄 – 改革派への弾圧と春嶽の挫折
将軍継嗣問題をめぐる対立の末、井伊直弼は安政の大獄を断行し、春嶽を含む一橋派の大名・志士たちを徹底的に弾圧します。春嶽自身も隠居・永蟄居の処分を受け、政治の第一線から退かざるを得なくなりました。
その過程では、彼が最も信頼を寄せていた側近・橋本左内が若くして刑死するという痛ましい出来事もあり、春嶽にとって大きな精神的打撃となりました(『松平春嶽』第5章、福井県史第六章第二節)。
復権、そして政事総裁職へ – 公武合体運動の旗手
安政の大獄後、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、政局は大きく転換します。春嶽は政界に復帰し、幕府の政事総裁職に就任。これは実質的に幕政の最高責任者ともいえる役職であり、朝廷との協調を重視する「公武合体」政策の実現に尽力しました。
このとき春嶽は、将軍後見職の徳川慶喜、京都守護職の松平容保とともにいわゆる「一会桑政権」を形成し、幕政の立て直しを図ります。彼が描いたのは、朝廷と幕府が協調し、開国による混乱を収める体制でした(『松平春嶽』第5章、福井県史第六章第二節)。
理想と現実の壁 – 公武合体運動の行き詰まり
しかし、公武合体という理想には多くの障害がありました。朝廷内の尊攘派公家と幕府内の保守派、さらには薩摩藩・長州藩などの雄藩とも政策の方向性で対立し、政局はますます混迷します。
こうした中、春嶽も次第に政治的な限界を感じ、政事総裁職を辞任するに至ります。公武合体構想は最終的に時流に抗しきれず、維新への流れの中に呑まれていきました(『松平春嶽』第6章、福井県史第六章第二節)。
松平春嶽と明治維新 – 新時代への関わりと晩年
幕府の要職を辞した春嶽ですが、大政奉還、そして明治維新という歴史の転換点に再び関わることになります。新時代における彼の役割と、その後の人生を見ていきましょう。
大政奉還と新政府樹立への動き
幕府の権威が失われていく中で、春嶽は再び徳川慶喜と連携し、大政奉還の建白に関与しました。この動きは内戦を避けるための和平策でもあり、彼の政治的理想を象徴するものでもあります。
王政復古の大号令ののち、新政府では「議定」という要職に任命され、新体制への移行に協力しました(『松平春嶽』第9章、福井県史第六章第三節)。
明治政府での活動と早期引退
春嶽は明治新政府において、民部官知事や大学別当、大蔵卿といった役職を歴任しました。しかし、旧幕臣であるという立場や、急進的な明治政府の方針との隔たりから、比較的早期に公職から退きます。
その判断には、時流との距離感や、自らの政治的信条を貫こうとした姿勢が見て取れます(『松平春嶽』第9章、福井県史第六章第三節)。
晩年の春嶽 – 『逸事史補』に綴られた思い
引退後の春嶽は、趣味の写真撮影や漢詩・書の制作に親しみながら、静かな余生を送りました。その中で執筆された『逸事史補』は、彼が目の当たりにした幕末維新の動向を克明に記した貴重な史料です。
春嶽自身の見聞や心情が多く記されており、政治家としてだけでなく、人間・松平春嶽の側面を知るうえでも極めて重要な記録といえるでしょう(『逸事史補』〔『幕末維新史料叢書 第4巻』人物往来社、1968年所収〕)。
関連人物とのつながり
松平春嶽の生涯は、多くの重要な歴史人物との関わりの中で形作られました。特に影響力の大きかった人物との関係を見ていきます。
運命を共にした側近 – 橋本左内、由利公正
春嶽の藩政改革を支えた中核人物が橋本左内と由利公正(のちの三岡八郎)でした。春嶽は彼らの才能を早くから見抜き、年齢や身分にとらわれず登用しています。橋本は政治思想や藩政理念の形成において、春嶽の最も信頼する助言者であり、由利は財政や制度改革の実務面で重要な役割を果たしました。
安政の大獄によって橋本左内が処刑された際、春嶽は深い悲しみを日記に綴り、彼の死が精神的な打撃であったことが記録されています(『松平春嶽』第4〜5章、逸事史補)。
幕末四賢侯 – 山内容堂らとの連携とライバル意識
春嶽と並び称される「幕末四賢侯」には、山内容堂(土佐藩)、伊達宗城(宇和島藩)、島津斉彬(薩摩藩)がいます。彼らとは、将軍継嗣問題や幕政改革、公武合体構想の中で協調・連携しながらも、ときに意見の違いから対立することもありました。
特に山内容堂とは、政治理念の近さと同時に気質の違いもあり、協力しつつも時に批判を交える関係であったことが記されています(『松平春嶽』第5〜6章)。
徳川慶喜 – 擁立から最後まで続いた複雑な関係
春嶽が将軍継嗣として強く推したのが徳川慶喜でした。若き日の慶喜に期待を寄せた春嶽は、その聡明さと時代に対する柔軟な姿勢に惹かれ、たびたび政治的な後押しを行っています。
しかし、公武合体運動や大政奉還の過程で、慶喜の判断や行動に対して疑問や失望を抱くこともあったようです。とはいえ、明治に至っても書簡のやり取りが続けられており、両者の間には複雑ながらも深い信頼関係があったとみられます(『松平春嶽』第6章、第9章)。
思想的影響 – 横井小楠
横井小楠は、熊本藩出身の儒学者・思想家として春嶽に大きな影響を与えました。春嶽は藩政改革期に彼を顧問的立場で招き、政治思想や教育・制度改革に関する多くの助言を受けています。
横井の思想は、合理主義的でありつつ道徳と国政を融合させようとする独自の政治観に基づいており、春嶽が中央政界で目指した「公武合体」や幕政改革にも色濃く反映されていきました(『松平春嶽』第2〜3章)。
幕末の群像 – 西郷隆盛、勝海舟らとの関わり
春嶽は西郷隆盛や勝海舟といった幕末維新を代表する人物たちとも一定の関係を持っていました。とくに勝海舟とは、大政奉還や維新期の新政府構想をめぐって意見交換を行っており、西郷隆盛とは明治初期における政局の調整などで関わったとされています。
ただし、いずれも盟友というよりは、状況に応じて連携する現実主義的な関係であったと考えられます(『松平春嶽』第9章、福井県史第六章第三節)。
時代背景と松平春嶽の役割
松平春嶽が生きた幕末とはどのような時代だったのか。その中で彼が果たそうとした役割と、歴史的な位置づけを考えます。
幕末 – 開国、体制変革、思想対立の奔流
春嶽が政治の表舞台に立った幕末期は、ペリー来航に始まる開国と攘夷の対立、西洋列強の圧力、そして幕藩体制の動揺などが重なった、かつてない混乱の時代でした。
尊皇攘夷、開国、倒幕、公武合体など多様な政治理念が交錯する中、春嶽は「調整型」の政治家として、幕府・朝廷・雄藩の意見を調停し、内乱を防ごうと尽力しました(『松平春嶽』第3〜6章)。
開明派大名としての先進性と限界
春嶽は早くから西洋の学問や政治制度に注目し、それを藩政や国政に取り入れようとした数少ない開明派大名の一人でした。藩政改革で導入された洋式軍制や藩校での洋学教育、殖産興業策などはその表れです。
しかし、彼の理想主義や徳川一門という出自は、時に大胆な改革を妨げる要因にもなりました。強い指導力や革命的行動力を持つ人物とは異なり、調停役としての限界も同時に指摘されることがあります(『松平春嶽』第2章、第6章)。
公武合体という「第三の道」の探求者
春嶽は、尊皇攘夷でも開国倒幕でもない「第三の道」として、公武合体構想を一貫して模索しました。幕府と朝廷が協力し、新しい体制を作るというこの構想は、平和的な体制移行を目指すものであり、当時としては画期的な政治理念でした。
しかし、尊攘派の台頭や幕府の弱体化により、公武合体は政治的現実に押し流されていきます。春嶽の構想は実現されなかったものの、その理念は後の立憲体制や政治調和の思想へと引き継がれていったとも評価されています(『松平春嶽』第5〜6章、福井県史第六章第二節)。
歴史に刻まれた松平春嶽 – 賢侯の功績、苦悩、そして遺したもの
藩政改革、幕政参与、そして明治へ。松平春嶽の生涯は、幕末という時代の縮図とも言えます。彼の功績と苦悩、そして歴史に何を残したのかを振り返ります。
藩政改革と人材育成 – 福井藩に残した遺産
春嶽は若くして藩政改革に取り組み、福井藩の近代化に向けた土台を築きました。特に財政再建、軍制改革、教育制度の整備を通じて、福井藩を開明的な藩へと転換させたことは特筆されます。
また、彼が登用した橋本左内や由利公正らは、後の幕末・維新の政局で重要な役割を果たしており、春嶽の人材育成の眼力と功績は高く評価されています(『松平春嶽』第2〜3章、福井県史第六章第一節)。
幕政改革・公武合体への尽力とその挫折
春嶽は藩主としての実績をもとに幕政に参画し、政事総裁職として公武合体運動を主導しました。朝廷と幕府をつなぐ調停役としての役割を果たすことで、内戦の回避を目指したのです。
しかし、朝廷内の尊攘派や幕府の保守勢力、さらには雄藩との利害の対立などによって、その構想は次第に行き詰まりを見せ、政事総裁職を辞する結果となります。ここに春嶽の理想と現実のギャップが明確に表れることとなりました(『松平春嶽』第5〜6章)。
「英明か、優柔不断か」 – 多面的な人物評価
春嶽はその学識と政治的先見性から「英明な賢侯」と称される一方で、決断力に欠けるという批判も受ける人物です。将軍継嗣問題や幕政改革においては、重要な局面での決断の遅れや逡巡が指摘されることもありました。
しかしその反面、情勢を冷静に見極めて行動する慎重さや調停能力は、戦乱を回避する上で大きな力となったともいえます。この多面性こそが、松平春嶽という人物の複雑で人間味ある魅力の一端を成しています(『松平春嶽』第6〜9章)。
春嶽が現代に伝えるもの – 改革者の情熱と苦悩
松平春嶽の歩みは、変革期におけるリーダーのあるべき姿を私たちに問いかけます。急進的な革命ではなく、対話と調整による改革を目指した彼の姿勢は、現代においても示唆に富んでいます。
また、自らの見聞や思索を日記『逸事史補』として記録に残した姿勢からは、歴史を後世に伝える意志と誠実さが見て取れます。彼の残した記録は、当時の政治や人物の動静を知るうえでも貴重な資料です(『逸事史補』、福井県史第六章第三節)。
松平春嶽ゆかりの地
- 福井城址・福井市立郷土歴史博物館(福井県福井市)
- 明道館跡(福井県福井市)
- 橋本左内墓所(福井県福井市、東京都荒川区)
- 海晏寺(東京都品川区):春嶽の墓所
- 松平春嶽公別邸跡(現・養浩館庭園)(福井県福井市)
参考文献
- 川端泰平『松平春嶽』(人物叢書)吉川弘文館、1990年。
- 福井県編『福井県史 通史編4 近世二』福井県、1996年。
- 松平春嶽著『逸事史補』〔『幕末維新史料叢書 第4巻』人物往来社、1968年所収〕。