明治維新という大変革期において、新政府の基本方針「五箇条の誓文」の原案(国事五箇条)を起草し、また初期政府財政の基盤を築いた実務官僚が由利公正(ゆり きみまさ)です。本来「三岡八郎」と称していましたが、維新後に祖先の旧姓「由利」に復しています。彼の功績は、越前藩における藩政改革、新政府の財政再建、そして日本の近代化に向けた地道な制度整備に集約されます。
由利は福井藩での財政再建を足がかりに、王政復古後は徴士・参与職として御用金取扱、会計基立金の徴募、太政官札(3000万両)の発行建議に尽力し、国家運営の基盤を支えました。さらに東京府知事・元老院議官・貴族院議員として制度や都市基盤の整備に貢献し、静かに近代国家の礎を築いた人物です。
由利公正(三岡八郎)の基本情報
項目 | 内容 |
---|---|
名前(諱) | 公正(こうせいと読むが、通称「きみまさ」) |
通称 | 三岡八郎 |
姓 | 本来三岡、維新後に祖先の旧姓由利に復姓 |
生没年 | 1829年(文政12年)11月11日 – 1909年(明治42年)4月28日(享年81、満79歳) |
出自 | 越前藩藩士三岡義知の家に出生 |
主な役職(維新後) | 徴士、参与職、会計官知事、東京府知事、元老院議官、貴族院議員 |
最終身分 | 子爵 |
墓所 | 東京都品川区南品川・海晏寺 |
主要な功績 | 福井藩の藩政改革・財政再建、殖産興業推進、五箇条の誓文原案起草、太政官札発行建議、新政府初期財政基盤構築 |
(出典:『国史大辞典 第14巻』由利公正項)
実務官僚としての歩みと思想
由利公正は、幼少より武芸と学問に励み、藩財政の危機に際して合理的かつ実学的手法による改革で成果を挙げました。熊本藩士横井小楠の実学・経世済民思想に影響を受け、富国強兵・殖産興業を藩政に反映させ、特産物生産奨励、養蚕事業推進、物産総会所設立、長崎の越前蔵屋敷設置による対外貿易にも尽力しました。
藩主松平慶永の側用人として公議政体の実現を志し、列藩会議開催を建白しますが、藩論の変化により謹慎・蟄居を命じられました。王政復古後、新政府に徴士・参与職として登用され、御用金取扱、会計基立金の徴募、太政官札3000万両の発行建議に従事。商法司・商法会所を通じて殖産興業資金として貸付を計画しましたが、実際には政府の財政赤字補填に使われ、紙幣の信用確立に苦戦。外国からの反対もあり、時価通用を認めざるを得ず、期待した成果を上げられず辞職しました。
東京府知事時代には銀座煉瓦街建設を推進し、さらに岩倉使節団に随行して欧米の自治・議会制度を視察、日本の近代化の基盤づくりに尽力しました。
(出典:『国史大辞典 第14巻』由利公正項、『世界大百科事典』由利公正項)
名称の変遷とその意義
由利は元来「三岡八郎」と称しましたが、維新後に祖先の旧姓「由利」に復しました。これは新国家の建設に身を投じ、旧体制から決別する象徴とも解されます。諱「公正(こうせい)」の命名経緯については国史大辞典に記載がなく、慎重に言及を控えます。
その名の変遷は、幕末から明治という大転換期における彼の立場や使命の変化を物語っています。
(出典:『国史大辞典 第14巻』由利公正項)
由利公正の歴史的インパクトと評価
由利公正は、明治初期の財政基盤構築と理念形成において極めて重要な役割を果たしました。福岡孝弟とともに、五箇条の誓文の原案(国事五箇条)を起草し、特に第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」という公議政体の理念を示しました。この条文は由利が起草した文言がほぼそのまま採用されたものです。
太政官札の発行や会計基立金の徴募で新政府の資金調達を支えましたが、紙幣の信用確立に苦戦し辞職。その後も都市改造、制度整備、欧米制度視察を通じ、日本の近代化に多大な影響を与えました。晩年は子爵に叙され、貴族院議員として国政に関わりました。
(出典:『国史大辞典 第14巻』由利公正項、『世界大百科事典』由利公正項)
由利公正の歩みを知る年表
幕末の福井藩での藩政改革、4年間の謹慎蟄居、明治新政府での財政基盤構築、そして近代日本の制度整備──由利公正の激動の81年を年表形式でたどります。それぞれの転機と背景を整理し、彼が果たした役割の全体像を明らかにします。
年代(西暦) | 出来事・由利の動向 |
---|---|
1829年(文政12年)11月11日 | 越前藩藩士・三岡義知の子として誕生。 |
1847年(弘化4年) | 横井小楠が福井藩に招かれ、その実学思想に強い影響を受ける。 |
1853年(嘉永6年) | 父の急死により家督を相続。藩財政再建に尽力し、殖産興業や藩内特産物の生産奨励に努める。 |
1862年(文久2年) | 政事総裁職に就任した藩主松平慶永の側用人となり、公議政体を志向。列藩会議を建白。 |
1863年(文久3年) | 藩論の変化により謹慎・蟄居を命じられ、その後4年間蟄居生活を送る(~1867年)。 |
1867年(慶応3年) | 王政復古(12月)後、京都に召喚され、新政府の徴士・参与職に登用。御用金取扱を担当。 |
1868年(明治元年) | 会計基立金300万両の募集と太政官札3000万両の発行を建議。五箇条の誓文の原案(国事五箇条)を福岡孝弟とともに起草。 |
1871年(明治4年) | 東京府知事に任命される。 |
1872年(明治5年)2月 | 大火災後の銀座煉瓦街建設を東京府知事として推進。 |
1872年(明治5年)後半 | 岩倉使節団に随行し、欧米の自治・議会制度を視察(~1873年)。 |
1875年(明治8年) | 元老院議官に任命される。 |
1887年(明治20年) | 子爵に叙される。 |
1890年(明治23年) | 貴族院議員に勅選される。 |
1909年(明治42年)4月28日 | 東京で死去。東京都品川区南品川の海晏寺に葬られる。 |
(出典:『国史大辞典 第14巻』由利公正項 / 『世界大百科事典 改訂新版』由利公正項)
由利公正の藩政改革 – 福井藩での実績が維新へ繋がる
由利公正(旧名:三岡八郎)は、明治維新期に参与・会計官知事などを歴任した実務官僚であり、その力量の基盤には、福井藩政における実践経験があった。とくに財政運営や殖産興業における具体的な実績は、明治政府においても高く評価されている。
師・横井小楠との出会いと「実学」「公議」思想
三岡八郎は福井藩士として活動する中で、藩に招聘された思想家・横井小楠の教えを受けた。横井は現実に即した「実学」を重視し、また、政治は一部の特権層による専断ではなく、「公議」に基づいて行うべきと主張した人物である。
三岡はこの思想を強く受け継ぎ、藩政の中でも軍制改革や経済振興に取り組みつつ、議論を重視する政治姿勢を貫いた。こうした政治理念は、明治新政府における制度設計でも一貫して現れた。
(出典:『国史大辞典 第14巻』由利公正項、『世界大百科事典』由利公正項)
松平慶永(春嶽)のもとでの財政再建 – 藩札整理と物産振興
福井藩が深刻な財政難に直面する中、三岡八郎は藩主・松平慶永(春嶽)の信任を得て藩政改革に携わった。とくに藩札の信用維持に努め、発行額に見合う準備金の確保などを通じて、藩札の乱発を防ぐ体制を構築したことは注目すべき点である。
また、「物産総会所」を設置して、生糸などの主要産品を一括集荷・販売する仕組みを整備し、流通の安定化と財政の立て直しを図った。これにより歳入は回復し、他藩からも注目される成功例となった。
(出典:『国史大辞典 第14巻』由利公正項、『世界大百科事典』由利公正項)
由利公正(三岡八郎)と明治維新 – 新国家の設計に関わる
藩政での実務能力を発揮した三岡八郎は、幕末政局の中で福井藩を代表する人物として登場し、王政復古後の明治新政府においても参与などの要職に任命された。財政・行政面での知見を活かし、国家制度の設計に重要な役割を果たした。
五箇条の御誓文 – 「万機公論」の理念を起草
慶応4年(1868年)3月14日に発布された五箇条の御誓文に先立ち、由利(三岡)はその草案とされる「議事之体大意」を起草したと伝えられている。この草案には「諸侯会議」や「公論尊重」などの理念が盛り込まれていた。
実際の御誓文は福岡孝弟や木戸孝允らの手によって修正され、第一条に「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ」として結実した。由利は公式の起草者とはされていないが、複数の記録がその思想的影響を認めている。
(出典:『国史大辞典 第14巻』由利公正項、『日本人名大辞典』由利公正項)
明治新政府の財政運営と太政官札発行 – その功罪と歴史的意義
明治政府発足直後の国家財政は極めて不安定で、徴税制度も未整備であった。この状況下で由利は参与・徴士を経て、財務を管轄する会計官知事に就任。財政再建の中核人物として活動した。
彼は大阪の豪商からの御用金を「会計基立金」として徴募し、さらに太政官札を発行することで資金調達を図った。太政官札は短期的には財政安定に寄与したが、不換紙幣であったため信用不安を招き、物価の高騰や流通不安定の原因ともなった。
この経験は、後の国立銀行制度創設において反面教師的な教訓として位置づけられ、近代的な貨幣制度の整備につながっていく。
(出典:『国史大辞典 第14巻』由利公正項、『世界大百科事典』由利公正項)
会計官知事の辞任とその背景
明治2年(1869年)5月、由利は参与および会計官知事を辞任した。辞任の背景には、太政官札発行に伴う責任や政府内での意見対立があったとされる。
その後、政界から一時身を引いたが、元老院議官や貴族院議員として復帰し、法制整備や議会制度の確立に関与した。由利の実務能力と「公議」を重視する姿勢は、明治国家の制度形成において長く影響を与え続けた。
(出典:『国史大辞典 第14巻』由利公正項、『日本人名大辞典』由利公正項、『世界大百科事典』由利公正項)
関連人物とのつながり
由利公正(三岡八郎)の生涯は、幕末から明治初期にかけての政治的変革期において、多くの重要人物との関係の中で形づくられました。ここでは、特に深い関わりを持った人物たちとのつながりを整理します。
松平春嶽 – 藩主であり、共に改革を目指した盟主
福井藩主の松平春嶽(慶永、1828-1890)は、幕末四賢候の一人として知られる政治家で、由利(三岡八郎)を藩政改革の実務担当として抜擢しました。財政再建や制度改革に尽力する由利の実務能力は高く評価され、藩政の中枢に登用されました。
明治維新後も、両者はそれぞれ中央政界で活動を続けました。由利は参与や会計官知事などを歴任し、財政制度構築に関わり、春嶽も議定や大蔵卿を務めました。藩政期から明治政府に至るまで、二人は協調関係のもとで重要な役割を果たしたとされます。
(出典:『国史大辞典 第14巻』由利公正項)
横井小楠 – 思想的支柱、改革理念の根源
熊本藩出身の儒学者である横井小楠(1809–1869)は、由利に強い思想的影響を与えた人物です。小楠が唱えた「公議政治」「経世済民」などの理念は、福井藩の改革方針にも取り入れられ、由利もその理念に共鳴しました。
この影響は、維新政府によって発布された五箇条の御誓文にも及んだとされます。由利が福井藩時代に記した「議事之体大意」は、御誓文の原案に採用されたと伝わっており、小楠の思想を政策として実現する形で由利が架け橋の役を担いました。
(出典:『国史大辞典 第14巻』由利公正項)
維新の同志と政策上の関係者たち
明治政府では、由利は参与に就任し、大久保利通・木戸孝允・福岡孝弟(1835–1919、土佐藩出身)らと共に新政の骨格作りに関わりました。五箇条の御誓文起草においては、福岡らと協議しながら原案の作成に携わったとされ、その背景には福井藩政時代に由利が記した草案があったとされます。
また、紙幣発行(太政官札)をめぐる議論では、大久保らと政策上の意見を異にすることもありましたが、いずれも国の近代的制度構築を目的とした前向きな議論でした。
なお、坂本龍馬との接触を裏付ける明確な史料は存在しませんが、由利の実務能力は広く知られており、龍馬をはじめとする志士層からも高く評価されていたと伝わります。
(出典:『国史大辞典 第14巻』由利公正項)
明治期の由利公正 – 首都の長から元老院へ
由利は、明治新政府の制度整備の中核を担い、首都の行政から立法機構に至るまで、幅広く貢献しました。その足跡は、近代日本の行政制度形成史の一頁として重要な意味を持ちます。
東京府知事としての足跡
明治4年(1871年)、由利は東京府知事に任命されました。これは、由利が旧幕政権の残滓を整理し、近代的な行政制度へと移行させる責務を担ったことを意味します。福井藩での行政経験を活かし、東京の都市機能の整備や行政制度の刷新に尽力しました。
住民と協調しつつ行政を進める姿勢は、近代東京行政の基礎となり、由利の官僚としての実直な気質が発揮された分野でもあります。
(出典:『国史大辞典 第14巻』由利公正項)
元老院議官・貴族院議員としての活動
明治8年(1875年)、由利は元老院議官に就任し、制度整備に関する意見提出や法案審議に参加しました。続く明治23年(1890年)には、第一回帝国議会において勅選の貴族院議員に任命され、国政の一端を担いました。
立法制度の確立が進む中、由利はその黎明期に関与し、議会制度の制度化に貢献した政治家の一人に数えられます。
(出典:『国史大辞典 第14巻』由利公正項)
子爵叙爵と晩年
明治20年(1887年)、華族令の施行にともない、由利はその功績をもって子爵に叙されました。これは、彼の長年にわたる行政と制度構築への貢献が政府により公式に評価された結果です。
晩年には政界の表舞台から退き、後進の指導や私人としての活動に移りました。明治42年(1909年)4月28日に死去し、墓所は東京都品川区南品川の海晏寺にあります。
(出典:『国史大辞典 第14巻』由利公正項)
歴史に刻まれた由利公正 – 維新の理念と財政を支えた実務家の実像
五箇条の御誓文と明治初期の財政──日本の近代国家が幕を開けたその瞬間、理念と実務の両面で足跡を残したのが由利公正(ゆり きみまさ)/三岡八郎です。政治的理想と制度設計を兼ね備えた人物として、近年その再評価が進んでいます。ここでは彼の生涯と歴史的意義を振り返ります。
歴史的インパクト – 御誓文と初期財政への貢献
由利は、新政府発足に際し、「議事之体大意」という意見書を提出しました。これは、のちに発布された五箇条の御誓文の草案の一つとみなされ、特に第一条の「広く会議を興し、万機公論に決すべし」は、彼が重視した公議の理念を反映したものとされています。
また、新政府の財政難を受けて、由利は会計官知事に任命され、紙幣である太政官札(たいせいかんさつ)を発行しました。これは福井藩政時代に藩札での財政改革を実施した経験に基づくもので、短期的には資金供給に寄与しましたが、結果としてインフレーション(物価高騰)を招いたことが指摘されています。こうした試みは、制度創設期における苦闘の一例といえるでしょう。
(出典:『国史大辞典 第14巻』由利公正項、『世界大百科事典』由利公正項、『日本人名大辞典』由利公正項)
評価の分かれる点 – 功績と批判
由利の功績としては、財政制度の整備、会計機構の創設などが挙げられます。とりわけ新政府の立ち上げ時に財政基盤を構築した点は大きく評価されています。
一方で、前述の太政官札の発行が引き起こした物価高騰については批判があり、またこれが要因となって辞職に至ったともされます。こうした側面から、後世においては必ずしも一様な高評価ばかりではなく、試行錯誤の結果としての限界もあわせて指摘されることがあります。
さらに、五箇条の御誓文への貢献についても、由利が草案の一人であったことは史実として認められつつも、その影響度や最終案との関係については明確な定説はなく、慎重な見解が求められています。
(出典:『国史大辞典 第14巻』由利公正項、『世界大百科事典』由利公正項)
なぜ大久保利通ほど知られていないのか?
由利公正と同時代に活躍した大久保利通と比べると、由利の活動は主に財政制度や政策設計などの分野に集中しており、政治的リーダーシップや実行力という面では目立ちにくい立場にありました。
また、福井藩出身で中央政界に強固な藩閥的後ろ盾がなかったことも、長期的な影響力の制約要因となったと考えられます。そのため、後世における知名度の差として現れた可能性があるでしょう。
由利公正の子孫について
由利公正の子孫に関する情報は、主要な辞典類では確認されておらず、現時点では明確な史料が乏しいのが実情です。業績や思想に関しては多くの記録が残されているものの、家系や後裔についての確実な情報は確認されていません。
(出典:『国史大辞典 第14巻』由利公正項)
由利公正ゆかりの地(出典未記載・補足情報)
- 福井市立郷土歴史博物館(福井県福井市):三岡八郎(由利公正)に関する常設展示あり。
- 由利公正旧邸跡(福井市宝永):邸宅跡に案内板が整備され、史跡として親しまれている。
- 横井小楠記念館(熊本市):師とされる横井小楠に関する展示がある。
- 海晏寺(東京都品川区):由利の墓所。石碑と案内板が整備されており、一般の見学も可能。
※このセクションは自治体・施設の公開情報に基づく補足的な紹介です。学術辞典による出典記載はありません。
参考文献
- 『国史大辞典 第14巻』国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館、1993年
- 『日本人名大辞典』講談社、2001年
- 『世界大百科事典』改訂新版、平凡社、2007年