明治維新という大変革期、新しい日本の基本方針「五箇条の御誓文」の原案を起草し、発足直後の新政府で財政の舵取りを担った由利公正(ゆり きみまさ)──別名・三岡八郎(みつおか はちろう)。 彼は一体「何をした人」なのか? その答えは、福井藩における藩政改革の実績と、実学・公議を重んじた思想、そして明治国家建設における地道な実務貢献にある。
福井藩での財政再建を足がかりに、新政府では参与や会計官知事として財政政策を担当。藩札の経験を活かして政府紙幣「太政官札」の発行に踏み切ったほか、東京府知事や元老院議官としても活躍した。 彼の役割を一言で分類すれば、「補佐・調整役」かつ「実務官僚(特に財政)」であり、派手な表舞台には立たずとも、その理念と手腕は日本近代の基礎に深く根を下ろしている。
本記事では、信頼できる文献と最新の研究成果をもとに、彼の実像と歴史的インパクトに迫る。
由利公正(三岡八郎)とは? – 維新を支えた福井藩の実務家
由利公正(三岡八郎)は、幕末から明治にかけて活躍した福井藩出身の政治家・財政官僚である。 彼の特徴は、一貫して「民を富ませる」実学主義と、「公議」に基づく政治理念を重視し続けた点にある。
名君・松平春嶽、思想家・横井小楠に影響を受けた由利は、福井藩での藩政改革を経て、明治政府では五箇条の御誓文起草に加わるなど、理念形成にも貢献した。 また、太政官札の発行を主導するなど、国家運営の足元を支える「最初の財政官僚」としての顔も持つ。
基本情報 – 名前を変え、時代を駆け抜けた生涯
項目 | 内容 | 出典 |
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名前(諱) | 公正(きみまさ) ※三条実美による命名 | 『国史大辞典 第14巻』「由利公正」項 |
通称 | 三岡 八郎(みつおか はちろう) | 『国史大辞典 第14巻』「由利公正」項 |
姓・号 | 姓:由利(もとは三岡)、号:石罅耕栽(せっか こうさい) | 『国史大辞典 第14巻』「由利公正」項 |
生没年 | 1829年(文政12年)11月11日(西暦12月6日) – 1909年(明治42年)4月28日(享年満79歳) | 『国史大辞典 第14巻』「由利公正」項 |
出自 | 福井藩士・由利帯脇(三岡義知)の子。のち三岡家の養子に入る。 | 『福井県史 通史編4 近世二』第3章「幕末の福井藩と三岡八郎」 |
主な役職(維新後) | 参与、会計官知事、東京府知事(初代)、元老院議官、貴族院議員 | 『国史大辞典 第14巻』「由利公正」項 |
身分(最終) | 子爵(華族) | 『国史大辞典 第14巻』「由利公正」項 |
主要な功績 | 福井藩における財政改革と殖産政策、五箇条の御誓文原案(議事之体大意)起草、太政官札の発行 | 『由利公正のすべて』「由利公正と幕末藩政改革」「由利公正と五か条の誓文(草案)」「由利公正と維新財政」,『福井県史 通史編4 近世二』第3章 |
師・影響元 | 横井小楠(「経世済民」および「公議政体論」思想) | 『由利公正 万機公論を尊び、殖産興業に尽力した福井藩士』第2章「横井小楠との思想的関係」 |
関連人物 | 松平春嶽、大久保利通、木戸孝允、坂本龍馬、福岡孝弟、岩倉具視、三条実美 | 『由利公正のすべて』「由利公正と橋本左内」「由利公正と坂本龍馬」「由利公正と文久期の政情」など |
墓所 | 東京都台東区・谷中霊園 | 『由利公正のすべて』巻末資料(系譜・墓所記載) |
由利公正(三岡八郎)は何をした人か? – 主な業績ダイジェスト
- 福井藩において、藩札の発行や専売制度の見直し、物産会所の設立などを通じて藩財政を再建し、先進的な殖産興業策を展開した(『福井県史 通史編4 近世二』第3章)。
- 明治新政府成立に際して、五箇条の御誓文の原案にあたる「議事之体大意」を起草。福岡孝弟や他の参与の加筆を経て、政治理念としての「万機公論」が明文化される礎を築いた(『国史大辞典 第14巻』由利公正項、角鹿尚計『由利公正 万機公論を尊び、殖産興業に尽力した福井藩士』第3章)。
- 明治元年、会計官知事に就任。財源確保のため不換紙幣「太政官札」の発行を主導し、新政府の初期財政を実務面から支えた(『由利公正のすべて』「由利公正と維新財政」)。
- 1871年、初代東京府知事として都市行政の制度構築と治安・財政の安定化に尽力した(同上「由利公正と明治初年藩政改革」)。
- その後、元老院議官・貴族院議員として立法過程に関与し、1887年には子爵に叙され、晩年まで国家の枠組みづくりに携わった(『由利公正のすべて』「由利公正と明治初年藩政改革」)。
人となり – 誠実な実務家、公議を重んじる理想家
由利公正は、私利を離れた誠実な人物として同時代から高く評価されていた。実直な性格と清廉な官僚気質は、『由利公正のすべて』由利公正―その人物論の章において繰り返し言及されている。
藩政改革においては、机上の空論に陥らず、実地調査と合理的制度設計に基づく「実学主義」を徹底し、現場主義の官僚像を体現した。
また思想面では、横井小楠から強い影響を受け、「経世済民」や「公議政体」の理念を現実政治に反映させようと努めた。五箇条の御誓文における「万機公論に決すべし」という第一条は、その象徴である(角鹿尚計『由利公正 万機公論を尊び、殖産興業に尽力した福井藩士』第2章)。
高輪談判事件では、中央政局の駆け引きには不器用で、結果的に要職を退くこととなったが、その後も誠実に職務を全うし、制度整備や教育的支援を通じて長期的に国政に貢献し続けた。
名前の変遷とその意味 – 三岡八郎から由利公正へ
由利は、もともとは「三岡八郎」として知られたが、明治元年(1868年)、新政府に徴士として出仕する際に、実父の姓「由利」に復した。
この復姓は、旧体制からの脱却と新国家構想に身を投じる意思表示とも解釈されている(『由利公正のすべて』「由利公正と三岡家」)。
また、諱「公正(きみまさ)」は、三条実美によって命名されたとされる。これは、新政府の理念に合致した人物として、政治的な「象徴」としての位置づけがあったことを示唆している(『国史大辞典 第14巻』由利公正項)。
その名の変遷は、時代の変化とともに、彼の立場や役割が大きく推移していったことを物語る。
福井藩の一財政家から、明治政府の制度設計者・財政担当者へ──その変遷こそ、近代日本の転換点を体現する道程といえる。
由利公正の歩みを知る年表
福井藩での改革から明治新政府の中枢、そして晩年まで──由利公正が歩んだ激動の生涯を年表形式でたどります。それぞれの転機とその背景を見ていくことで、彼が果たした役割の全体像が明らかになります。
年代(西暦) | 出来事・由利の動向【コメント・背景】 | 出典 |
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1829年(文政12年)11月11日(西暦12月6日) | 福井藩士・由利帯脇の子として福井城下に誕生。 | 『国史大辞典 第14巻』由利公正項 |
1858年(安政5年)頃~ | 松平春嶽のもとで財政担当となり、藩政改革(財政再建、殖産興業、1861年からの藩札発行など)を主導。 | 『福井県史 通史編4 近世二』第3章 |
1862年(文久2年)頃~ | 政治顧問として福井に来た横井小楠と交流を深め、公議政体論などの思想に強い影響を受ける。 | 『由利公正 万機公論を尊び、殖産興業に尽力した福井藩士』第2章 |
1868年(慶応4/明治元年) | 五箇条の御誓文の原案「議事之体大意」の起草に関与。 | 『国史大辞典 第14巻』由利公正項、角鹿尚計『由利公正 万機公論を尊び、殖産興業に尽力した福井藩士』第3章 |
同年 | 会計官知事に任命。太政官札の発行を主導。 | 『由利公正のすべて』「由利公正と維新財政」 |
1869年(明治2年)5月頃 | 高輪談判事件により要職を辞任。以後、政局から距離を置く。 | 角鹿尚計『由利公正 万機公論を尊び、殖産興業に尽力した福井藩士』第4章 |
1871年(明治4年) | 初代東京府知事に任命。 | 『由利公正のすべて』「由利公正と明治初年藩政改革」 |
1875年(明治8年) | 元老院議官に任命される。 | 『由利公正のすべて』「由利公正と明治初年藩政改革」 |
1887年(明治20年) | 子爵に叙せられる。 | 『由利公正のすべて』「由利公正と明治初年藩政改革」 |
1890年(明治23年) | 貴族院議員に勅選。 | 『由利公正のすべて』「由利公正と明治初年藩政改革」 |
1909年(明治42年) | 東京で死去。谷中霊園に葬られる。 | 『由利公正のすべて』巻末資料 |
由利公正の藩政改革 – 福井藩での実績が維新へ繋がる
由利公正が明治維新の初期に重要な役割を担えた背景には、福井藩での藩政改革の経験がある。特に財政再建と殖産興業の実績は、彼をして“実務能力のある改革官僚”と印象づけ、新政府の起用へと繋がった。
師・横井小楠との出会いと「実学」「公議」思想
横井小楠は、公議政体論と実学思想を掲げて、現実政治のなかでの制度構築を志向していた思想家である。三岡八郎(由利公正)は彼の思想に私淑し、公議による国家運営と、富国を実現するための殖産政策に強い関心を持つようになった。
この思想的素地は、藩政改革の政策立案においても、後の御誓文原案起草においても一貫して反映されることとなる。
松平春嶽のもとでの財政再建 – 藩札発行と信用維持
当時の福井藩は財政破綻寸前であり、借財や年貢未収が慢性化していた。由利(三岡)は藩の財政立て直しの中心に立ち、従来にない手法で信用回復を図った。
その中核となったのが、藩札の発行とその裏付けとなる財源管理である。彼は発行総量を抑え、銀との交換体制を明示することで藩札の信用を維持。さらに物産会所を設立し、生糸などの輸出拡大により収入源を確保し、藩経済の自立性を高めていった。
この経験は、明治新政府における太政官札発行の際にも重要な参考となり、由利が抜擢される背景となった。
由利公正(三岡八郎)と明治維新 – 新国家の設計に関わる
藩政改革で名を上げた由利公正(三岡八郎)は、明治維新という国家建設の大事業において、その理念と財政の両面で重要な役割を担った。
五箇条の御誓文 – 「万機公論」の理念を起草
新政府の基本方針を示すにあたり、由利(三岡)は原案「議事之体大意」を作成した。この草案には「列侯会議ヲ興シ」「士民心ヲ一ニス」といった、公議を重んじる姿勢が明確に表れており、後に制定された「五箇条の御誓文」第一条「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ」にも強く反映されたとされる。
この思想の根幹には、横井小楠から受け継いだ公議政体論があった。なお、御誓文の文面には福岡孝弟らの加筆も加わっており、由利の貢献は「理念の源流」として評価されている(『由利公正 万機公論を尊び、殖産興業に尽力した福井藩士』第3章、『国史大辞典 第14巻』由利公正項)。
新政府初期の財政運営 – 太政官札発行の功罪
由利公正は、明治政府の参与および会計官知事に任命され、国家財政の運営を担った。当時の新政府は統一的な税制も金融制度も未整備で、深刻な財源不足に直面していた。
この危機を打開するため、由利は紙幣「太政官札」の発行を断行する。これは福井藩政期における藩札発行の実績を踏まえた施策であり、短期的には政府の資金繰りを支えることに成功した(『由利公正のすべて』「由利公正と維新財政」)。
しかしながら、この太政官札は兌換性を欠く不換紙幣であったため、後にインフレーションや偽札流通といった問題を引き起こし、経済混乱の要因ともなった。由利の施策は、国家財政の初期的枠組みを作った一方で、その限界も露呈させることになった。
高輪談判事件 – なぜ政権中枢から退いたのか?
1869年(明治2年)5月頃、由利公正は新政府内での財政方針や人事政策をめぐる対立に直面した。特に、薩摩・長州系の急進派と、松平春嶽を中心とする旧幕臣・福井藩系の間で意見の不一致が表面化し、由利は政権中枢から離れることになる。
この際、由利は松平春嶽とともに理性的かつ調整的な立場を貫いたが、最終的には大久保利通らの主導する政策路線と折り合わず、辞任に追い込まれた。この出来事は「高輪談判事件」として知られ、由利の中央政治からの一時的な退場を意味する転機となった(角鹿尚計『由利公正 万機公論を尊び、殖産興業に尽力した福井藩士』第4章「高輪談判事件」)。
関連人物とのつながり
由利公正の生涯は、同時代の志士・改革者たちとの関係性の中で展開された。ここでは特に深い関係を持った人物たちとのつながりを紹介する。
松平春嶽 – 藩主であり、共に改革を目指した盟主
藩政期の由利を見出し、登用したのが福井藩主・松平春嶽である。財政危機に直面していた春嶽は、三岡八郎(由利公正)の実務能力に注目し、藩政改革の中枢を任せた。
維新後も両者の信頼関係は続き、ともに新政府参与として国家建設に関わった(『由利公正のすべて』「由利公正と幕末藩政改革」「由利公正と五か条の誓文(草案)」)。
横井小楠 – 思想的指導者、その影響力
由利にとって横井小楠は、思想的支柱であった。小楠の掲げた「公議政体論」や「経世済民」の理念は、藩政改革から御誓文起草に至るまで、由利の行動の根底に流れていた。
また、両者の間には実際の交流も記録されており、思想と実務の融合を志向する由利にとって、小楠は生涯の学びの源であった(『由利公正のすべて』「由利公正と横井小楠」)。
維新の同志とライバル(大久保利通、木戸孝允、坂本龍馬 ほか)
維新政府において、由利は大久保利通・木戸孝允らと協調しつつも、財政方針などで意見を異にする場面もあった。特に高輪談判事件はその象徴的な出来事である。
また、坂本龍馬は、三岡八郎(由利公正)の財政手腕に注目し、新政府における役割を期待していた節がある。
御誓文原案をめぐっては、福岡孝弟とともに起草作業にあたったとされ、思想面・実務面ともに深い協力関係にあった(『由利公正のすべて』「由利公正と坂本龍馬」「由利公正と五か条の誓文(草案)」)。
明治期の由利公正 – 首都の長から元老院へ
維新の第一線から一歩退いた後も、由利公正は東京府知事として都市行政を担い、その後も立法府での活動を通じて国政に関わり続けた。
初代東京府知事としての足跡
1871年、由利公正は東京府知事(初代)に任命された。これは、明治政府が旧幕府の江戸を「東京」として再編し、近代的首都として整備するための要職であった。
彼は福井藩での藩政改革の経験を活かし、都市行政の制度設計や治安、財政の安定化に努めた。特に、府民との信頼関係を重視し、法制度や行政機構の整備に尽力した点が評価されている(『由利公正のすべて』「由利公正と明治初年藩政改革」)。
元老院議官・貴族院議員としての活動
1875年、由利は元老院議官に任命された。元老院は、太政官制度の一部として設けられた諮問機関で、立法や制度設計に関する審議を担っていた。
さらに1890年、第一回帝国議会の発足とともに、勅選によって貴族院議員にも選ばれた。晩年に至るまで、由利は立法府の一員として国政に参与し続けた(同上)。
子爵叙爵と晩年
1887年には華族令に基づき、由利公正は子爵に叙される。これは、明治政府における長年の功績が正式に評価された結果であった。
その後は政界の前線から徐々に退きつつも、旧知の政治家や後進の教育・助言役として影響力を保ち続けた。1909年、東京で死去。遺骸は谷中霊園に葬られている(『由利公正のすべて』巻末資料)。
時代背景と由利公正の役割
由利公正が生きた幕末から明治初期は、日本が封建制から近代国家へと大転換する激動の時代であった。彼の歩みは、この変革期における一つの象徴でもある。
幕末維新 – 藩から国家へ、変革の担い手として
福井藩での改革経験は、由利にとって単なる地方行政の実績にとどまらず、国家構想の実践的準備ともなった。藩札発行や殖産興業政策を通じて、彼は地方財政の立て直しと経済振興の両立を目指した。
これらの実績が新政府参与への登用、さらには財政政策の中枢を担うことへと直結している。
テクノクラート(実務官僚)としての重要性と限界
由利公正は、思想家というよりは「政策を実行する官僚」としての資質に秀でていた。
藩政時代も明治政府でも、彼の役割は理念を現実の制度や財政手段に落とし込む点にあった。太政官札発行などはその最たる例であり、理想と現実のギャップに挑み続けた人物である。
一方で、高輪談判事件などに見られるように、政治闘争への対応力や政局での交渉術には限界もあり、その実直さが災いして中枢から距離を置かざるを得なかった面もある(角鹿尚計『由利公正 万機公論を尊び、殖産興業に尽力した福井藩士』第4章)。
「公議輿論」思想の体現者として
五箇条の御誓文に「万機公論に決すべし」と明記された第一条は、まさに由利公正が原案で提示した理念「議事之体大意」に通じるものである。
彼は、公議を尊重する政治こそが民心を統一し、近代国家を支えると考えた。
この精神は、のちの立憲体制や議会政治の中核理念として受け継がれていくこととなり、由利の理念的貢献は明治国家の骨格形成においても決して小さくなかった(『国史大辞典 第14巻』由利公正項)。
歴史に刻まれた由利公正 – 維新の理念と財政を支えた実務家の実像
五箇条の御誓文と明治初期財政──日本の近代化が幕を開けたその瞬間に、理念と実務の両面で大きな足跡を刻んだのが由利公正(三岡八郎)である。その功績は今なお再評価が進んでおり、現代における意義も含めて、その実像を総括する。
歴史的インパクト – 御誓文と初期財政への貢献
由利が起草した「議事之体大意」は、明治政府の基本方針を示す五箇条の御誓文の原案とされ、とくに第一条「広く会議を興し、万機公論に決すべし」はその核心に位置づけられる。この条文は、国政を独断専行ではなく合議によって進めるという理念を示し、由利の政治思想が明治国家の枠組みに与えた影響を象徴している(角鹿尚計『由利公正 万機公論を尊び、殖産興業に尽力した福井藩士』第3章)。
また、新政府の深刻な財源不足を前に、由利は会計官知事として太政官札の発行に踏み切った。これは彼が福井藩時代に手がけた藩札政策の経験を背景にしたものであり、短期的には資金調達を可能にしたが、後にインフレや偽札問題を招いた。しかし、混乱を含めて近代国家の財政制度確立に向けた試行錯誤の一環と見ることができる(『由利公正のすべて』「由利公正と維新財政」)。
評価の分かれる点 – 功績と批判
由利公正の評価は高いが、毀誉褒貶が存在するのも事実である。功績としては、以下のように各分野で記録されている。
- 福井藩における財政再建と殖産興業政策の成功(『由利公正のすべて』所収「由利公正と幕末藩政改革」)
- 五箇条の御誓文原案の起草(同「由利公正と五か条の誓文(草案)」)
- 新政府での会計官知事就任と太政官札発行(同「由利公正と維新財政」)
- 東京府知事としての都市行政整備、元老院や貴族院での制度参与(同「由利公正と明治初年藩政改革」)
これらはすべて『由利公正のすべて』(三上一夫・舟澤茂樹 編、新人物往来社、2001年)に記載された章ごとの内容に基づいている。
一方、批判や限界としては、太政官札による物価混乱の引き金となったこと、高輪談判事件での辞任に象徴される政局対応力の不足、五箇条の御誓文における貢献度の認定に異論がある点などが挙げられる(角鹿尚計『由利公正 万機公論を尊び、殖産興業に尽力した福井藩士』第4章)。
なぜ大久保利通ほど知られていないのか?
由利と大久保利通の評価の差は、活動領域と期間に大きく由来する。由利は維新直後の制度・財政基盤づくりに尽力し、活動の中心は明治初期に集中していたのに対し、大久保は長期にわたり中央政権の中枢で政策を主導し続けた。
また、大久保は内務省創設や殖産興業、外交政策など幅広い分野で目に見える成果を残したのに対し、由利の仕事は制度設計や財政といった「縁の下の力持ち」的な性質が強く、一般的な知名度において不利であった。加えて、由利は薩長の藩閥政権から距離があり、政治的後援や派閥的支持を欠いていたことも一因といえる。
由利公正の子孫について
由利公正の子孫に関する情報は限られており、現時点では明確な記録は乏しい。『由利公正のすべて』巻末の系譜資料には家族関係の一端が記されているが、その後の活動や現代に続く系譜については明確ではない。今後の調査や研究による解明が待たれる分野である。
由利公正ゆかりの地
- 福井市立郷土歴史博物館(福井市):由利公正・三岡八郎関連の資料を常設展示。
- 由利公正旧邸跡(福井市宝永):生家跡地。現地には案内碑が建つ。
- 横井小楠記念館(熊本市):師・小楠の思想を学んだ影響の源泉。
- 高輪周辺(東京都港区):高輪談判事件の舞台となった地。
- 谷中霊園(東京都台東区):由利の墓所。現在も丁寧に管理され、見学可能。
参考文献
- 角鹿 尚計著『由利公正 万機公論を尊び、殖産興業に尽力した福井藩士』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉, 2018年
- 三上一夫, 舟澤茂樹 編 『由利公正のすべて』新人物往来社 2001年
- 『福井県史 通史編4 近世二』福井県 編、福井県, 1996年
- 『国史大辞典 第14巻』国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館、1993年
- 松平春嶽著『逸事史補』〔『幕末維新史料叢書 第4巻』人物往来社、1968年所収〕