関ヶ原で敗れ、大坂の陣で豊臣方として奮戦し、その後の消息に諸説が残る武将・明石掃部(全登)。熱心なキリシタンとしても知られ、その生涯は忠義と信仰、そして戦いに彩られています。彼は一体「何をした人」で、なぜ「全登」と呼ばれるのか? その名前の由来、宇喜多家重臣としての歩み、大坂での奮戦、そして謎に包まれた最期までを、確実な史料に基づき分かりやすく解説します。
明石全登(掃部)とは? – 謎多きキリシタン武将の肖像
まず、明石掃部がどのような人物だったのか、その基本情報と、名前を巡る複雑な事情、伝わる人物像を見ていきましょう。
基本情報 – プロフィールに潜む「謎」
項目 | 内容 |
---|---|
通称 | 明石 掃部(あかし かもん) |
諱(実名) | 守重(もりしげ) |
号 | 全登(ぜんとう/他読み諸説)、全薑(ぜんきょう) |
洗礼名 | ジョアン |
生年 | 不詳 |
没年 | 元和四年(1618年)病死説を国史大辞典は採る。なお、大坂落城時戦死説も他辞典に見られる |
出自 | 備前国出身で、宇喜多秀家・黒田如水の親戚。父は景親。宇喜多秀家の姉を妻とし、家臣中最大の領地を有した。 |
所属・役職 | 宇喜多家家臣 → 浪人 → 豊臣方(大坂の陣) |
信仰 | カトリック(キリシタン) |
関連人物 | 宇喜多秀家、黒田如水、黒田直之、豊臣秀頼、真田幸村、毛利勝永、長宗我部盛親 |
明石全登・掃部・ぜんとう? – なぜ名前がこれほど複雑なのか
「明石掃部」は、掃部介という官名に基づく通称であり、史料上もっとも信頼できる呼称です。「全登」という号は、後世の系譜資料で広まり、同時代一次史料での確認はされていません。読み方も「ぜんとう」「じゅすと」など諸説あります。洗礼名ジョアンが伝わり、キリスト教信仰と深い関わりがあったことが示されています。
人となり – 伝わる武勇と篤き信仰
明石掃部は、大坂の陣での勇猛な戦いぶりや、宇喜多家・豊臣家への忠誠心、キリスト教への篤い信仰心で知られています。浪人生活中も信仰を守り抜いた姿勢が後世まで語り継がれています。
(出典:『国史大辞典 第1巻』明石掃部項、『世界大百科事典』明石掃部項、『日本人名大辞典』明石掃部項)
明石全登(掃部)の歩みを知る年表
宇喜多家の重臣から浪人、そして大坂の陣で奮戦。明石掃部(全登)の生涯を年表でたどります。
年代(西暦) | 出来事・掃部(全登)の動向 |
---|---|
不詳(1569年頃との説あり) | 備前国に生まれる。父は明石景親とされ、宇喜多秀家・黒田如水の親戚にあたる。宇喜多秀家の姉を妻とした。 |
(時期不明) | 宇喜多家に仕え、のちにキリシタンに改宗した。洗礼名はジョアン。 |
1600年(慶長5年) | 関ヶ原の戦いで西軍に属し、宇喜多家の武将として参戦。西軍敗北により宇喜多家は没落し、浪人となる。 |
1600年以降 | 黒田直之の庇護を受け筑前秋月に潜伏、のちに長崎へ移ったとされる。 |
1614年(慶長19年) | 豊臣秀頼の招請を受け大坂城に入城。冬の陣で三の丸の守備にあたった。 |
1615年(慶長20年) | 夏の陣でキリシタン部隊を率いて戦ったとされる。道明寺・天王寺岡山の戦いで奮戦後、消息不明となる。 |
1618年(元和4年) | 落城後潜伏し、元和四年に病死したと国史大辞典は記す。大坂落城時戦死説も伝わる。 |
(出典:『国史大辞典 第1巻』明石掃部項、『世界大百科事典』明石掃部項、『日本人名大辞典』明石掃部項)
明石全登(掃部)の主家・宇喜多氏と関ヶ原
明石掃部(全登)は、備前岡山の戦国大名・宇喜多氏の重臣として知られ、関ヶ原の戦いを転機に浪人となりながらも、再び歴史の表舞台へと立った人物です。その生涯前半をたどります。
宇喜多秀家の重臣として – 宇喜多騒動を乗り越えて
掃部は宇喜多秀家の姉を妻に迎えたとされ、縁戚関係によっても主君との結びつきが強かったといいます。家中でも有力な地位を占め、宇喜多騒動(1599年)では、家宰に就任したと伝わります。
騒動時には対立する重臣が出奔し、掃部は家中の調整や軍政の再構成に関与したとされます。騒動後は筆頭家臣のような立場にあったとも言われており、宇喜多政権を支える中核の一人として行動していたと考えられます。
関ヶ原の戦い – 西軍主力としての奮戦と敗走
1600年、掃部は宇喜多家中の有力武将として西軍に加わり、関ヶ原の戦いに参戦しました。伏見城攻めや杭瀬川の前哨戦、本戦では福島正則隊と激戦を繰り広げたとされます。
敗戦後は、秀家の退却を支援するために殿軍(しんがり)を務めたとも伝わり、自身は播磨方面へ退いたとされています。一時は岡山城での籠城戦も検討したようですが、主君の所在が不明であったことから断念し、浪人生活へと移りました。
浪人時代 – キリシタン・ネットワークと黒田氏の庇護
掃部はその後、筑前国の黒田直之の庇護を受けて秋月に潜伏したとされます。キリスト教徒(カトリック信者/キリシタン)であった掃部は、隠修士のような生活を送りながら信仰を守っていたと伝わります。
さらに、後年には長崎へ移ったともいわれており、当時のキリシタン信徒ネットワークの中でも一角を占めていた可能性があります。信仰と縁戚のつながりが彼の行動基盤を支えていたと考えられます。
明石全登(掃部)と大坂の陣 – キリシタン武将、最後の戦い
十数年にわたる潜伏生活ののち、明石掃部は再び武装して歴史の前線に姿を現します。それが豊臣家最後の戦い、大坂の陣でした。信仰と忠義が、彼を戦場へと再び導いたとされます。
なぜ大坂城へ? – 信仰の自由と豊臣家への忠義
1614年、豊臣秀頼の招請を受けた掃部は、大坂城に入城しました。徳川政権下でキリシタン弾圧が進行していた中、豊臣方では信仰の自由が一定程度認められていたとされ、これは掃部にとって重要な動機となった可能性があります。
さらに、宇喜多家と豊臣家の旧縁や、徳川家に対する反感も彼の再起を後押ししたと考えられます。
冬の陣・夏の陣での活躍 – 真田幸村・毛利勝永らと共に
冬の陣では、掃部は大坂城の三の丸に布陣して守備に就いたとされます。翌年の夏の陣では、道明寺の戦いに出陣し、後藤又兵衛の戦死後も戦列を維持して伊達軍と交戦したと伝わります。
最終局面となる天王寺・岡山の戦いでは、真田幸村・毛利勝永らと共に徳川家康の本陣に突撃。掃部は敵陣を突破したものの、以後の消息は不明とされます。
その勇戦は、後世「大坂五人衆」の一人に数えられることもあり、豊臣方における重要な軍事指揮官の一人であったことを物語っています。
キリシタン部隊の指揮官として
掃部のもとには、信仰を同じくする浪人たちが集まっていたとされ、事実上のキリシタン部隊を編成していたという伝承もあります。これは、彼の信仰が個人的な信念にとどまらず、戦闘集団を動かす力となっていたことを示しています。
忠義と信仰を貫く姿勢は、豊臣家の終焉を飾る象徴のひとつとして、今も記憶されています。
(出典:『国史大辞典 第1巻』明石掃部項、『日本人名大辞典』明石掃部項、『世界大百科事典』明石掃部項、小川博毅『新版 史伝 明石掃部』)
明石全登(掃部)の最期 – 消えた猛将、深まる謎
天王寺・岡山の戦いの後、明石掃部(全登)の足跡は歴史の記録から消えます。彼は果たして戦死したのか、それとも逃亡して生き延びたのか。後世の伝承や記録がその謎をさらに深めています。
戦死説とその根拠
掃部が天王寺・岡山の戦場で討死したとする説は、『徳川実紀』などに記録が見られます。掃部の首は水野勝成や石川忠総の家臣によって討ち取られたとも伝わっています。激戦の中での敵中突破を試みた状況からも、戦死は自然な帰結だったとする見方があります。
ただし、これらの記録は勝者側の史料に基づくもので、混乱の中での誤認の可能性も指摘されています。
逃亡・生存説 – 各地に残る伝承
一方で、掃部が生き延びたとする伝承は各地に残っています。
- 九州方面では息子とともに落ち延びたとする話
- 四国・土佐の山中に隠棲したという伝承
- 東北の仙台・秋田に移り住んだという話、秋田扇田には子孫を称する家も存在します
- 備前に帰郷したとする説もあります
これらはいずれも地域の伝承に基づくもので、確実な史料的裏付けはありません。しかし、掃部が後世に強い印象を残したことを示しています。
学術的見解と結論
国史大辞典は、掃部が大坂落城後に逃亡し、元和四年(1618年)に病死したと記しています。これが現在、学術的に有力視される説のひとつです。とはいえ、各地に残る生存伝説もまた、彼の存在感と物語性を今に伝えています。
掃部の最期は、今なお日本史に残る大きな謎のひとつであり、その不確かさが時代の波に翻弄された忠義と信仰の武将像を際立たせています。
(出典:『国史大辞典 第1巻』明石掃部項、『日本人名大辞典』明石掃部項、『世界大百科事典』明石掃部項)
明石全登(掃部)の関連人物とのつながり
明石掃部(全登)の生涯は、主君、恩人、戦友との関係を通じて形作られていった。彼を語る上で欠かせない人物との関わりを見ていく。
主君・宇喜多秀家への忠誠
掃部は宇喜多秀家の姉を妻とし、家中で有力な立場にありました。関ヶ原の戦いでも秀家と運命を共にしたとされ、主君への忠誠を貫いたと伝わります。
黒田如水・直之との縁
掃部は関ヶ原の敗戦後、黒田直之の庇護を受け筑前に潜伏したとされます。黒田家と縁戚関係にあった可能性や、同じキリシタンであったことが救済の理由と考えられています。
大坂の陣の戦友たち
掃部は真田信繁(幸村)、毛利勝永、後藤又兵衛らとともに、徳川家康本陣への突撃戦に加わったとされます。その奮戦は、後世「大坂五人衆」(後藤又兵衛、真田信繁、長宗我部盛親、毛利勝永と掃部)の一人に数えられる根拠ともなっています。
(出典:『国史大辞典 第1巻』明石掃部項、『日本人名大辞典』明石掃部項、『世界大百科事典』明石掃部項)
歴史に刻まれた明石全登(掃部) – 謎多き忠臣、その歴史的評価
大坂の陣での奮戦、そして消息不明の最期。明石掃部(全登)は、戦国から近世への転換期において、忠義と信仰を貫いた象徴的な武将といえるでしょう。
歴史的インパクト – 大坂の陣での奮戦と信仰の象徴
掃部は大坂の陣で豊臣方の一員として徳川軍と交戦し、その奮戦ぶりが記録に残されています。その行動は、豊臣方にとって最後の抵抗の象徴とされ、味方の士気を鼓舞したと伝わります。
また、キリシタン(カトリック信者)であった掃部の生き様は、弾圧の時代にあって信仰を貫いた武将として後世に影響を与えたと考えられています。
武将としての評価 – 勇猛さと忠誠心
掃部は、関ヶ原の戦いや大坂の陣で前線に立ち戦った勇将と評されています。特に宇喜多秀家への忠誠心は際立っており、関ヶ原敗戦後も主家と行動を共にしたとされています。江戸時代を通じて顕彰の機会は限られましたが、近代以降、再評価の動きが見られる武将の一人です。
なぜ真田幸村ほど語られないのか?
掃部は真田幸村と同様、徳川家康本陣への突撃を試みたと伝わる猛将ですが、知名度には大きな差があります。その理由として、主に以下の点が考えられます。
- キリシタンであったため、江戸時代の顕彰が難しかったこと
- 宇喜多家が改易され、掃部を顕彰する藩や組織が存在しなかったこと
- 最期が不明で、顕彰の核となる墓所が定まらなかったこと
未解決の謎がもたらす魅力
掃部の最期には戦死説と逃亡後の病死説が併存しており、国史大辞典は1618年病死説を採用しています。この不確かさこそが、掃部を歴史ミステリーの対象とし、忠義と信仰に生きた武将像に一層の神秘性を与えています。
明石全登の子孫について
秋田県大館市扇田地域には、掃部の子孫を称する家系があると伝わります。また、九州、四国、備前などにも末裔を名乗る伝承が残っていますが、これらは史料的裏付けに乏しい伝承に基づくものです。
明石全登(掃部)ゆかりの地
- 備前(岡山県):掃部の出身地。宇喜多家家臣として活動した地。
- 筑前秋月(福岡県朝倉市):関ヶ原後に潜伏したと伝わる地。
- 大坂城跡(大阪府):最後の戦場とされる場所。天王寺・岡山の戦場跡も含まれます。
- 秋田県扇田地域:子孫伝承が残る地域として知られています。
(出典:『国史大辞典 第1巻』明石掃部項、『日本人名大辞典』明石掃部項、『世界大百科事典』明石掃部項)
参考文献
- 『国史大辞典 第1巻』1979年:明石掃部項
- 『日本人名大辞典』講談社、2001年:明石掃部項
- 『世界大百科事典』改訂新版、平凡社、2007年
- 小川博毅『新版 史伝 明石掃部』吉備人出版、2023年