関ヶ原の戦い、西軍最大の兵力を率いながら南宮山に釘付けとなり、「宰相殿の空弁当」と揶揄された毛利秀元。彼は本当に戦意なく弁当を食べていただけだったのでしょうか? それとも、動けなかったのでしょうか?
毛利秀元は、毛利輝元の養嗣子という複雑な立場にあり、叔父・吉川広家が徳川家康と内通するという事態の中で、西軍名代として難しい決断を迫られた人物です。この記事では、「関ヶ原で何があったのか?」という最大の疑問を中心に、その生涯と人物像、そして逸話の真相に、信頼できる出典に基づいて迫ります。
毛利秀元とは? – 関ヶ原のキーマン、そのプロフィール
まずは毛利秀元がどのような人物だったのか、その基本的な情報、毛利家における立場、そして伝わる人となりを見ていきましょう。
基本情報 – 毛利輝元の養嗣子から長府藩の祖へ

項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 毛利 秀元(もうり ひでもと) |
幼名・通称 | 宮松丸、宰相殿 |
生没年 | 天正7年11月7日(1579年11月25日) – 慶安3年閏10月3日(1650年11月26日) |
出自 | 毛利元就の四男・穂井田元清の息子。毛利輝元の従弟で、一時その養嗣子となる。 |
役職・身分 | 豊臣政権下の大名、関ヶ原西軍総大将の名代、長府藩初代藩主(3万6200石)、右京大夫、甲斐守、正三位参議、侍従 |
主要関連人物 | 毛利輝元、吉川広家、穂井田元清(父)、毛利秀就、徳川家康、石田三成、安国寺恵瓊 |
主な出来事 | 文禄・慶長の役(朝鮮出兵)、関ヶ原の戦い(南宮山不戦)、長府藩立藩 |
墓所 | 山口県下関市・功山寺 |
出典:『国史大辞典 第13巻』毛利秀元項、『寛政重修諸家譜 第17 新訂』、『山口県史 史料編 近世1 下』
毛利秀元は何した人か? – 生涯のポイント
毛利秀元は、毛利元就の孫として生まれ、若くして毛利輝元の養嗣子となり、豊臣政権下の有力大名として軍事行動にも従軍しました。関ヶ原の戦いでは、西軍総大将・輝元の名代として南宮山に主力軍を率いて布陣するも、戦闘には参加しませんでした。
この行動は後世まで語り草となり、「宰相殿の空弁当」として揶揄されます。しかし、戦後に毛利家が改易を免れた背景には、吉川広家の内通工作や秀元の抑制的対応があったともいわれています。
その後、長府藩3万6200石の藩主として独立し、藩政の基礎を固めながら、江戸初期を通して堅実な政治を行いました。
出典:『国史大辞典 第13巻』毛利秀元項/『山口県史 史料編 近世1 下』
人となりと能力 – 温厚実直?それとも平凡な将?
毛利秀元は、その人柄について「温厚にして実直」と評されることが多く、家臣団の掌握にも慎重であったと伝えられています。関ヶ原での不戦という判断は、単なる決断力不足とは言い切れず、毛利家存続という政治的判断が背景にあったとも考えられています。
一方、軍事的な評価においては、名代としての決断を下しきれなかった点から、「凡将」と評されることもあります。ただし、長府藩主としての統治は堅実であり、検地・城下整備・寺社政策などに力を入れた記録も残されていることから、藩政面では一定の実務能力を発揮したと評価されています。
また、茶の湯を嗜んだ文化人としての一面も持ち合わせていました。
出典:光成準治『毛利輝元』第六章、山口県史 史料編 近世1 下
毛利秀元 家系図で見る複雑な立場
毛利秀元は、毛利元就の四男・穂井田元清の息子として生まれ、名門毛利家の血筋に連なります。従兄である毛利輝元に男子がいなかった時期にはその養嗣子となり、毛利本家の後継者候補となりますが、後に輝元の実子・秀就が誕生したことで立場が変化し、本家から支藩・長府藩への分立を果たしました。
また、関ヶ原では叔父・吉川広家の行動に強く影響され、自身の軍を動かせなかった事情にも、この家系的・立場的な制約が関係していたと考えられます。家督を継ぐ者ではなく、また総大将・輝元の名代として軍を率いてはいたものの、一門の重鎮である吉川広家の意向に強く制約されるなど、その指揮権には限界があった
出典:『国史大辞典 第13巻』毛利秀元項/『寛政重修諸家譜 第17 新訂』
毛利秀元の歩みを知る年表
毛利本家の後継者候補として注目されながらも、家中の事情や時勢の変化に翻弄され、関ヶ原の戦いでは西軍の主力を率いながらも戦闘に参加できなかった毛利秀元。その後は長府藩の初代藩主として藩政を築いた彼の生涯を、年表でたどります。
年代(西暦) | 出来事・秀元の動向 |
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天正7年11月7日(1579年11月25日) | 穂井田元清の息子として誕生。 |
1584年(天正12年) | 毛利輝元に実子が無かったため、その養嗣子となる。毛利本家の後継者候補となる。 |
1592年(文禄元年) | 輝元の名代として朝鮮に出兵(文禄の役)。 |
1595年(文禄4年) | 輝元に実子・松寿丸(後の毛利秀就)が誕生し、秀元は後継の座を退く。 |
1600年(慶長5年) | 関ヶ原の戦いで輝元の名代として西軍主力を率い南宮山に布陣するも、戦闘に参加せず。 |
同年 | 吉川広家の内通工作により、毛利家は改易を免れるも、防長二国36万石に大減封。 |
同年 | 秀元は輝元から長門国3万6200石を分与され、長府藩を立藩。初代藩主となる。 |
慶安3年閏10月3日(1650年11月26日) | 江戸藩邸にて死去。享年72。 |
出典:『国史大辞典 第13巻』毛利秀元項、『寛政重修諸家譜 第17 新訂』、光成準治『毛利輝元』第六章、『山口県史 史料編 近世1 下』
関ヶ原の戦い – なぜ毛利秀元は動かなかったのか?
毛利秀元の名が歴史上もっとも注目される場面、それが関ヶ原の戦いです。西軍最大規模の軍勢を率いながら、なぜ彼は南宮山から動かなかったのか。その背景には、家中の複雑な事情と慎重すぎる判断が絡み合っていました。
西軍総大将代理の重責 – 南宮山1万5千の兵力
毛利秀元は、名目上の総大将・毛利輝元の名代として西軍主力約1万5千を率い、南宮山に布陣しました。秀元にとって、これほどの大規模な国内決戦における総大将名代という立場は初めての経験でした。しかし、彼は最後まで戦闘に加わることなく、南宮山に留まりました。
南宮山は戦場の背後に位置する戦略的拠点であり、毛利軍が動けば徳川軍の背後を突くことも可能でした。ゆえに、秀元の行動は西軍の命運を握るものであったといえます。
出典:光成準治『毛利輝元』第六章/『国史大辞典 第13巻』毛利秀元項
叔父・吉川広家の壁 – 家康内通と巧妙な進軍妨害
毛利軍が動けなかった最大の要因は、毛利家の外交実権を握っていた叔父・吉川広家の内通にありました。広家は家康と密かに交渉を行い、
「毛利家が戦に参加しなければ、領地は安堵する」という条件を取りつけていました。
さらに広家は自軍を秀元軍の前面に配置し、「兵が疲れている」「食事をしている」などと理由をつけて、あらゆる口実で進軍を妨害しました。名代である秀元も、この布陣上の妨害と政治的圧力によって、実質的に指揮権を行使できない状態に置かれていたのです。
出典:光成準治『毛利輝元』第六章
「宰相殿の空弁当」の真相 – 弁当と鮭の逸話は史実か?
関ヶ原で動かなかった秀元を揶揄する逸話として有名なのが、「宰相殿の空弁当」です。
「秀元が戦闘を傍観し、山上で弁当を広げていたが中身は空だった」という話や、「鮭を食べていた」という類似の話もあります。
しかし、これらは信頼できる同時代史料には登場せず、光成準治は「後世の脚色」として位置づけています。
実際には、広家の進軍妨害のために動けなかった事実が、風刺・皮肉として逸話化された可能性が高いとされます。
出典:光成準治『毛利輝元』第六章
輝元の意向は?秀元自身の判断は? – 動けなかった複合的な要因
関ヶ原以前、輝元が秀元に対してどの程度の戦闘命令を与えていたかは不明確です。
秀元に判断を委ねたのか、曖昧な指示しか出さなかったのか、史料からは明確に断定できません。
また、広家による布陣妨害という外的要因があったにせよ、秀元自身が強い決断力を発揮できなかったという面も否定できません。
宗家の後継から外され、家中での実権に乏しかった立場、軍事経験の乏しさなども影響した可能性があります。
こうした政治的・軍事的・家中序列的な要因が複雑に絡み合い、毛利軍は「動かなかった」のではなく、「動けなかった」と理解すべきであり、その象徴こそが「空弁当」の逸話となって後世に残されたのです。
出典:光成準治『毛利輝元』第六章
関ヶ原後 – 毛利家存続と長府藩創設
関ヶ原での不戦という結果は、毛利家にとって大きな代償を伴いました。西軍の名将として戦場に立ちながら戦果を挙げなかった秀元は、家中でも微妙な立場に置かれることになります。一方で、毛利本家は改易こそ免れ、縮小された領地のもとで再出発を図ることになります。秀元が長府藩主として再起するまでの経緯を追います。
毛利家はなぜ許されたのか? – 輝元の責任と広家の工作
関ヶ原の戦いにおいて、毛利輝元は西軍総大将の地位にありました。通常であれば、その責任から死罪や所領没収は避けられなかったはずです。ところが、実際には輝元は隠居という処分にとどまり、毛利家は防長二国(周防・長門)36万石への減封で済みました。
この背景には、吉川広家による徳川家康への内通と、戦後交渉の存在があります。広家は戦前から家康と密約を結び、「毛利家が実際に戦闘に参加しなければ、本家は改易を免れる」という条件を得ていました。輝元は敗戦の責任を取って政務から退きましたが、広家の対応によって家名の存続が許されたのです。
出典:光成準治『毛利輝元』第六章/『国史大辞典 第13巻』毛利輝元項
長府藩初代藩主としての毛利秀元
関ヶ原後、毛利本家は本拠地を広島から山口に移し、周防・長門に再定住しました。そのなかで、毛利輝元は従兄・秀元に対し、長門国豊浦郡のうち3万6200石を分与します。これが長府藩の起こりです。
秀元はこの地で藩主として独立し、本家とは別の支藩を築くことになりました。かつて本家の後継候補だった秀元が、宗家とは一線を画した支藩の主となったことは、家中の力関係や当時の政治的事情を象徴する出来事といえるでしょう。
出典:『山口県史 史料編 近世1 下』/『寛政重修諸家譜 第17 新訂』
堅実な藩政 – 長府藩の基礎を築く
長府藩を拝領した毛利秀元は、城下町の整備、検地の実施、石高の確定、家臣団の編制などに着手しました。この藩政の骨格は、のちの長府藩が幕末まで安定して存続する基盤となりました。
出典:『山口県史 史料編 近世1 下』/『国史大辞典 第13巻』毛利秀元項
関連人物とのつながり
毛利秀元の人生は、毛利一族という巨大な家の中で翻弄され続けたものでした。宗家、支藩、家中、それぞれの立場から彼を支え、あるいは制約した人物たちとの関係は、彼の行動や評価を語る上で欠かせません。
毛利輝元 – 従兄であり養父、そして宗家当主
輝元と秀元の関係は非常に複雑です。もともとは従兄弟でありながら、後継者不在だった輝元の養嗣子として迎えられ、宗家の将来を託されました。しかし、後に輝元に実子(秀就)が誕生すると、秀元は養子縁組を解かれ、家督から外されます。
それでも関ヶ原の戦いでは、輝元に代わって軍を率いる名代に任じられました。戦後は本家から領地を分け与えられ、長府藩主として独立の道を歩むことになります。このように、輝元との関係は、昇進・挫折・再出発のすべてに関わるものでした。
出典:『国史大辞典 第13巻』毛利輝元・毛利秀元項/『寛政重修諸家譜 第17 新訂』
吉川広家 – 毛利家を救い、秀元の道を阻んだ叔父
広家は毛利元就の三男・吉川元春の子であり、秀元から見れば叔父にあたります。彼は毛利家の外交方針を担い、家康との内通によって家名の存続を図りました。その一方で、関ヶ原では進軍を阻止し、秀元の軍事行動を制限しました。
戦後、広家の立場は「家を守った忠臣」として正当化されましたが、秀元にとっては戦場での行動機会を奪われた苦い相手であったことは間違いありません。その後の両者の関係について記録は乏しいものの、家中の微妙な緊張は続いていたと考えられます。
出典:光成準治『毛利輝元』第六章
父・穂井田元清と祖父・毛利元就
秀元の父・穂井田元清は、毛利元就の四男として勇将の誉れ高く、実戦でも活躍しました。元清の系統である穂井田家は、支流でありながらも宗家に近い位置にありました。
祖父・元就は言わずと知れた毛利家中興の祖であり、戦国有数の智将です。その孫として生まれた秀元は、軍略・政略の才を期待された存在でもありました。しかし、彼の運命は一族内の序列や家中の力学により、大きく制約されることとなったのです。
出典:『国史大辞典 第13巻』毛利秀元項/『寛政重修諸家譜 第17 新訂』
時代背景と毛利秀元の役割
毛利秀元が生きたのは、戦国の終焉と江戸幕府の成立という、日本史における大転換期でした。彼はそのなかで毛利家の命運を左右する重要な局面に立ち会い、軍事と政治の両面で役割を果たしました。
関ヶ原の戦い – 天下分け目の大舞台
1600年、徳川家康と石田三成を中心とする勢力が激突した関ヶ原の戦いは、単なる一戦にとどまらず、事実上の政権交代を意味する歴史的分岐点でした。
この戦いにおいて、毛利秀元は西軍最大規模の兵力(約1万5千)を率いて南宮山に布陣しました。毛利軍が動いていれば、徳川軍の背後を突く形となり、戦局を覆す可能性もあったとされます。したがって、毛利軍の不戦という選択は、西軍敗北の直接的要因の一つと見なされることもあります。
出典:光成準治『毛利輝元』第六章/『国史大辞典 第13巻』毛利秀元項
江戸時代初期 – 幕藩体制下の支藩藩主として
関ヶ原後、毛利家は安芸・備後120万石から防長36万石に減封されました。この中で宗家を支える形で支藩・長府藩が成立し、秀元がその初代藩主となりました。
長府藩は、幕藩体制下での典型的な支藩として、宗家と協調しながら領内の統治と経済基盤の安定化に努めることになります。秀元はその藩政の骨格を整えた人物としての責任を果たしました。
出典:『山口県史 史料編 近世1 下』/『寛政重修諸家譜 第17 新訂』
歴史に刻まれた毛利秀元 – 関ヶ原のキーパーソン、その評価と実像
関ヶ原の戦いでの「動かなかった」将として語られる毛利秀元。しかし、その背後には単なる臆病や凡庸では済まされない、複雑な事情が絡んでいます。
歴史的インパクト – 毛利家存続への関与と長府藩の創設
関ヶ原で秀元が戦闘に参加しなかったことは、結果的に毛利家の改易回避につながりました。これは広家の内通に加え、秀元自身が挑発に乗らなかった慎重な態度を貫いた結果とされ、毛利本家の存続に一定の貢献をなしたと評価されます。
さらに、長府藩を創設し支藩の礎を築いたことは、後の地域社会や幕末維新の政治構造にも影響を与えました。奇兵隊や功山寺挙兵の舞台となった長府藩の存在は、秀元の選択と藩政整備の延長線上にあります。
出典:『山口県史 史料編 近世1 下』/『国史大辞典 第13巻』毛利秀元項
「宰相殿の空弁当」- 不名誉な逸話の再検討
「宰相殿の空弁当」は、関ヶ原で戦わなかった秀元が山上で空の弁当を広げていたという皮肉な逸話として伝わっています。また、「鮭を食べていた」という類似の俗説も存在します。
しかし、これらは信頼性の高い同時代史料には見られず、講談や軍記物を通じて後世に脚色されたものです。光成準治も、これらの逸話を「象徴的な揶揄表現」とし、実際には秀元が行動できなかった複雑な背景があると論じています。
出典:光成準治『毛利輝元』第六章
武将としての能力評価 – 凡将か、悲運の将か?
関ヶ原での対応から、秀元は「決断力に欠けた凡将」と評されることがあります。しかし、朝鮮出兵での大軍指揮経験はあったものの、当時の彼の年齢や、宗家内での立場の不安定さなどを考慮すれば、そう単純には評価できません。
むしろ、藩主としては、検地の実施、城下整備、幕府への忠勤などにより、堅実な統治能力を発揮しています。「凡庸」という一面的評価には再検討の余地があると言えるでしょう。
出典:『山口県史 史料編 近世1 下』/『国史大辞典 第13巻』毛利秀元項
毛利秀元の子孫と長府毛利家
毛利秀元の子孫が継いだ長府毛利家は、幕末まで支藩として存続し、藩政改革や勤王運動に関与しました。特に幕末には功山寺挙兵などに関わり、歴史の転換点でも再び脚光を浴びました。
明治維新後も華族として存続し、昭和期まで家系は続きます。現在も旧毛利邸や墓所が保存されており、秀元の系譜とその歴史的意義は現代にも受け継がれています。
出典:『国史大辞典 第13巻』毛利秀元項/『山口県史 史料編 近世1 下』
毛利秀元ゆかりの地
- 南宮山(岐阜県不破郡関ケ原町) 関ヶ原合戦において秀元が布陣したとされる山。現在は南宮山古戦場として整備され、一部に石碑が建てられている。
- 功山寺(山口県下関市) 秀元の菩提寺であり、墓所が現存。幕末には高杉晋作が挙兵した地としても著名。長府藩ゆかりの史跡として史跡公園化されている。
- 長府毛利邸(山口県下関市) 長府藩の藩庁跡。現在は一般公開され、庭園や資料館で藩政時代の文化に触れられる。
- 覚苑寺(山口県下関市) 秀元が創建したとされる寺院。長府毛利家の帰依を受け、文化活動の拠点でもあった。
参考文献
- 『国史大辞典 第13巻』、国史大辞典編集委員会 編、吉川弘文館、1992年
- 光成準治『毛利輝元』ミネルヴァ書房、2016年
- 『寛政重修諸家譜 第17 新訂』高柳 光寿等編(続群書類従完成会)、1966年
- 『山口県史 史料編 近世1 下』山口県史編纂委員会、1999年