元正天皇は何をした?日本書紀完成と三世一身法で知る女帝の功績

奈良時代前期、母・元明天皇から皇位を継承した元正天皇(氷高内親王)は、律令国家の基礎整備と皇統の安定化に大きな役割を果たした女帝です。治世では『日本書紀』の完成三世一身法の発布養老律令の編纂など画期的な国家事業が進められ、聖武天皇への平穏な譲位も実現しました。

この記事では、国史大辞典をはじめとする主要学術辞典に基づき、歴史的事実に即して元正天皇の人物像と治世を解説します。

  1. 元正天皇とは? – 奈良時代前期の女帝と律令国家の発展
    1. 基本情報 – 草壁皇子と元明天皇の娘、氷高内親王
    2. 元正天皇は何をした人か? – 主な業績ダイジェスト
    3. 治世の特徴 – 重要政策の推進と皇位継承の安定化
    4. なぜ独身を貫いたのか? ー 女性天皇の立場と皇位継承
  2. 元正天皇の歩みを知る年表
  3. 即位への道 – なぜ氷高内親王は天皇となったのか?
    1. 天武・持統朝からの皇統 – 父・草壁皇子と母・元明天皇
    2. 弟・文武天皇の早世と幼い甥・聖武天皇という危機
    3. 「中継ぎ」の女帝 – その役割と期待
  4. 元正天皇の治世 – 律令国家の整備と文化の振興
    1. 藤原不比等との協調と養老律令編纂
    2. 長屋王政権と政局の安定
    3. 『日本書紀』の完成(養老4年/720年) – 国家プロジェクトの結実
    4. 三世一身法の発布(養老7年/723年) – 土地制度の転換点
    5. 地方行政の整備と美濃国多度山の美泉による養老改元
  5. 聖武天皇への譲位と晩年 – 太上天皇としての役割
    1. 円滑な皇位継承 – 甥・聖武天皇へ
    2. 太上天皇としての影響力と後見
    3. 崩御とその後
  6. 元正天皇の関連人物とのつながり
    1. 母・元明天皇 ― 連続する女帝の系譜
    2. 弟・文武天皇と甥・聖武天皇 ― 皇統維持の要
    3. 藤原不比等 ― 治世前半の最大の協力者
    4. 長屋王 ― 不比等没後の政権を担った皇親
  7. 歴史に刻まれた元正天皇 – 平城の世を支えた女帝の功績
    1. 女性天皇としての評価 ― 安定した治世を導いた手腕
    2. 元正天皇が現代に伝えるもの
    3. 元正天皇ゆかりの地
  8. 参考文献

元正天皇とは? – 奈良時代前期の女帝と律令国家の発展

元正天皇(げんしょうてんのう、680-748年)は、奈良時代前期に即位した日本で5番目の女性天皇です。母・元明天皇から皇位を継承し、『日本書紀』の完成(720年)、三世一身法の発布(723年)など、律令国家の基盤整備に大きく貢献しました。また、甥の聖武天皇への円滑な皇位継承を実現し、天武系皇統の安定化にも重要な役割を果たしています。

基本情報 – 草壁皇子と元明天皇の娘、氷高内親王

項目内容
諱(いみな)氷高(ひだか)/新家(にいのみ)皇女
諡号(しごう)元正天皇(和風諡号:日本根子高瑞浄足姫天皇)
生没年680年(天武9年)-748年(天平20年4月21日)、69歳
父母父:草壁皇子、母:元明天皇
兄弟姉妹文武天皇(同母弟)
配偶者・子なし(生涯独身)
在位期間715年(霊亀元年)9月2日〜724年(神亀元年)2月4日、約8年5ヶ月
主な功績養老律令編纂(718年)日本書紀完成(720年)百万町歩開墾計画(722年)三世一身法発布(723年)聖武天皇への譲位(724年)
陵墓奈保山西陵(奈良市奈良阪町、天平勝宝2年に改葬)

(出典:『国史大辞典』元正天皇項、『世界大百科事典』元正天皇項、『日本人名大辞典』元正天皇項、『日本大百科全書』元正天皇項)

元正天皇は何をした人か? – 主な業績ダイジェスト

母・元明天皇の譲位により女帝として即位し、律令体制の整備や国史編纂を主導しました。皇太子首皇子(聖武天皇)が若年だったため、「中継ぎ」の即位とされています。

在位中には、『養老律令』の編纂(718年)『日本書紀』の完成(720年)百万町歩開墾計画(722年)三世一身法の発布(723年)など、奈良時代の律令国家形成を象徴する施策を次々と推進しました。

724年に聖武天皇へ譲位し、その後も太上天皇として一定の影響力を保持。748年に崩御、750年に奈保山西陵へ改葬されました。

また、『万葉集』には元正天皇の和歌が7首収録されています。代表歌には「橘のとをの橘弥つ代にも吾は忘れじこの橘を」などがあります。

(出典:『国史大辞典』元正天皇項、『世界大百科事典』元正天皇項、『日本人名大辞典』元正天皇項、『日本大百科全書』元正天皇項)

治世の特徴 – 重要政策の推進と皇位継承の安定化

元正天皇の治世では、律令編纂や国史事業、開墾政策など国家制度の根幹強化が際立ちます。『養老律令』の整備、百万町歩開墾計画(722年)、三世一身法の制定(723年)などは、社会・経済の発展と皇統の安定化を両立させるための積極的施策でした。

また、生涯独身だったことも大きな特徴です。これは「中継ぎ女帝」として皇統維持を重視し、甥・首皇子(聖武天皇)への円滑な継承を最優先したためと考えられています(諸辞典でも同旨、表現に若干の違いあり)。女性天皇が婚姻・出産することで皇統が複雑化する懸念への配慮が背景とされます。

(出典:『国史大辞典』元正天皇項、『日本人名大辞典』元正天皇項、『日本大百科全書』元正天皇項)

なぜ独身を貫いたのか? ー 女性天皇の立場と皇位継承

元正天皇の独身は、皇位継承の安定を最優先した結果とされます。甥・首皇子(聖武天皇)への「中継ぎ即位」であり、婚姻や男子出産は政治的に望まれなかったとみなされています。

このように女性天皇が婚姻・出産することが皇統分岐や継承争いの火種になる懸念が、背景にあったと各辞典でも説明されています。

(出典:『国史大辞典』元正天皇項、『日本大百科全書』元正天皇項)

元正天皇の歩みを知る年表

父の早世、母・弟の即位、そして自身の即位と譲位――元正天皇の生涯は、奈良時代前期の皇位継承の大きな転機と深く結びついています。その主な出来事を年表で振り返ります。

年代(和暦)出来事・元正天皇(氷高内親王)の動向
天武9年(680年)草壁皇子と阿閇皇女(のちの元明天皇)の皇女として誕生。父は当時の皇太子であり、天武系皇統の内親王として育つ。
持統3年(689年)父・草壁皇子が早世(28歳)。皇位継承体制に不安が生じ、「中継ぎ即位」への伏線となる。
持統11年(697年)弟・珂瑠皇子が即位し、文武天皇となる。氷高内親王は宮廷にとどまる。
慶雲4年(707年)文武天皇が崩御。皇太子・首皇子(のちの聖武天皇)はまだ幼年で、母・阿閇皇女が元明天皇として即位
霊亀元年(715年)9月、元明天皇の譲位を受け、氷高内親王が即位して元正天皇となる
霊亀3年(717年)/養老元年11月、美濃国多度山の美泉の効験によって「養老」と改元。元正天皇が多度山へ行幸。
養老2年(718年)養老律令の編纂が進められる(藤原不比等らによる)。
養老4年(720年)5月、舎人親王らによる国家事業の『日本書紀』が完成・奏上される。8月には藤原不比等が没する
養老5年(721年)正月、長屋王が右大臣に昇進し、政権の中枢を担う。10月には藤原房前が内臣となる。
養老6年(722年)閏4月、良田百万町歩の開墾計画を立てる。
養老7年(723年)三世一身法を発布。開墾奨励政策により、土地制度改革の一画期となる。
神亀元年(724年)2月、首皇子(聖武天皇)に譲位。元正天皇は太上天皇となる。
(在位中)『万葉集』に和歌7首が収録される(『世界大百科事典』による)。代表歌「橘のとをの橘弥つ代にも吾は忘れじこの橘を」など。
(譲位後)太上天皇として、なお一定の影響力を保ったと推測される。難波京や和泉監離宮へたびたび行幸した(『日本大百科全書』による)。
天平20年(748年)4月21日、69歳で崩御。佐保山陵にて火葬、天平勝宝2年(750年)10月、奈保山西陵に改葬

(出典:『国史大辞典』元正天皇項・長屋王項・藤原不比等項・養老律令項、『世界大百科事典』元正天皇項、『日本人名大辞典』元正天皇項、『日本大百科全書』元正天皇項)

即位への道 – なぜ氷高内親王は天皇となったのか?

元正天皇の即位は、奈良時代前期における皇位継承の不安定さと、皇統の安定をめぐる政治判断が交錯するなかで選ばれたものでした。血統、政治的立場、当時の情勢が、その「中継ぎ即位」に深く関わっています。

天武・持統朝からの皇統 – 父・草壁皇子と母・元明天皇

父の草壁皇子は天武天皇と持統天皇の子として皇太子となりましたが、即位前に早世し、皇位継承が不安定になりました。母の阿閇皇女(元明天皇)は天智天皇の皇女であり、天武系と天智系の両皇統をつなぐ存在でもありました。元明天皇は文武天皇崩御後、自ら即位し国家運営や平城京遷都などの政策を実行した有能な女帝です。こうした家系的背景から、氷高内親王は血統的にも政治的にも重要な立場にありました。

(出典:『国史大辞典』草壁皇子項・元明天皇項・元正天皇項、『世界大百科事典』元明天皇項、『日本人名大辞典』元正天皇項)

弟・文武天皇の早世と幼い甥・聖武天皇という危機

文武天皇(珂瑠皇子)は在位約10年で崩御し、その皇子首皇子(聖武天皇)はまだ幼かったため、皇位継承には困難が伴いました。皇統断絶や政局の混乱を避けるため、母・元明天皇が「中継ぎ女帝」となりましたが、首皇子の成長にはさらに時間が必要であり、最終的に娘の氷高内親王が即位します。氷高内親王への譲位は、皇統の維持を優先した政治的判断であったと考えられます。

(出典:『国史大辞典』文武天皇項・聖武天皇項・元正天皇項、『世界大百科事典』元正天皇項、『日本人名大辞典』元正天皇項)

「中継ぎ」の女帝 – その役割と期待

氷高内親王が即位した背景には、皇統の安定を守る「中継ぎ女帝」としての重要な使命がありました。血統的な正統性と、朝廷内部での信任がその基盤です。在位中は政務を安定させ、次代の天皇となる聖武天皇が成長するまでの約8年5ヶ月(在位:715年9月〜724年2月)、国家運営にあたりました。この間、律令体制の整備や国史編纂など、日本古代国家の基盤強化に関与し、「女性天皇」という立場が皇位継承の安定に不可欠な役割を果たしたといえます。

(出典:『国史大辞典』元正天皇項、『世界大百科事典』元正天皇項、『日本人名大辞典』元正天皇項、『日本大百科全書』元正天皇項)

元正天皇の治世 – 律令国家の整備と文化の振興

元正天皇の治世は、律令国家の基盤形成が進んだ時期です。藤原不比等や長屋王といった有力な臣下に支えられ、法制度の整備や歴史書の編纂など国家的事業が推進されました。

藤原不比等との協調と養老律令編纂

元正天皇即位当初、政権の中心には右大臣の藤原不比等がいました。不比等は大宝律令の制定にも深く関与し、元正天皇のもとで養老律令の編纂を主導しました。不比等の死(養老4年・720年)によって一時的に律令編纂は停滞しますが、その成果は律令政治の基礎となり、藤原仲麻呂の時代(天平宝字元年・757年)に施行されます。また、養老5年(721年)10月には、不比等の子・藤原房前が内臣として帝業を輔佐しました

(出典:『国史大辞典』元正天皇項・藤原不比等項・養老律令項、『世界大百科事典』養老律令項)

長屋王政権と政局の安定

養老4年(720年)に藤原不比等が没した後、政権を主導したのは皇親の長屋王です。養老5年(721年)に右大臣に就任し、藤原氏亡き後の朝廷を担いました。なお、左大臣に昇進したのは聖武天皇即位後(神亀元年/724年)です。元正天皇の治世後半は長屋王政権による安定的な統治が続き、天皇と長屋王の協調関係も比較的良好で、大きな政変のない安定した時期が続きました

(出典:『国史大辞典』元正天皇項・長屋王項、『日本人名大辞典』長屋王項)

『日本書紀』の完成(養老4年/720年) – 国家プロジェクトの結実

養老4年(720年)、日本初の正史である『日本書紀』が完成し、朝廷に奏上されました。編纂の中心は舎人親王であり、国家的事業として進められてきたこの大プロジェクトの完成により、天皇制の正統性や日本国家の起源が体系化されました。元正天皇の治世は、日本の歴史意識形成において大きな画期となる時代です。

(出典:『国史大辞典』元正天皇項・日本書紀項、『世界大百科事典』日本書紀項)

三世一身法の発布(養老7年/723年) – 土地制度の転換点

養老7年(723年)、元正天皇のもとで発布された三世一身法は、土地政策の大きな転換点です。この法令は、新たに開墾した田地について三代にわたり私有を認めるもので、班田収受制の運用に柔軟性をもたらしました。三世一身法は、民間の墾田開発を促進し、後の墾田永年私財法や荘園制発展の契機ともなりました。

(出典:『国史大辞典』元正天皇項・三世一身法項、『世界大百科事典』三世一身法項)

地方行政の整備と美濃国多度山の美泉による養老改元

元正天皇は中央政権の安定だけでなく、地方統治の強化にも注力しました。特に按察使の設置や地方官の監察体制強化、度量衡の統一などの行政改革を進めたことは注目されます。また、霊亀3年(717年)11月、美濃国多度山の美泉の効験によって「養老」と改元しました。こうした行幸や改元は、中央からの統治意思を象徴的に示すものとなりました。

(出典:『国史大辞典』元正天皇項・養老律令項、『日本人名大辞典』元正天皇項)

聖武天皇への譲位と晩年 – 太上天皇としての役割

甥の首皇子(のちの聖武天皇)が成長したことで、元正天皇は皇位を譲りましたが、その後も太上天皇として存在感を保ちました。

円滑な皇位継承 – 甥・聖武天皇へ

神亀元年(724年)2月4日、元正天皇は首皇子に譲位し、聖武天皇が即位しました。この継承は、天武系皇統でも特に平穏かつ計画的に進められた事例であり、元正天皇は太上天皇として宮中にとどまり後見的役割を果たしたとみられます。

(出典:『国史大辞典』元正天皇項、『日本人名大辞典』元正天皇項)

太上天皇としての影響力と後見

譲位後の元正天皇は、政治の第一線からは退いたものの、聖武天皇即位初期において一定の影響力を持っていた可能性があります。特に神亀元年(724年)から長屋王の変(729年)までは、太上天皇として政権の安定を支えていたと推測されます。ただし、具体的な政治関与については史料が限られており、慎重な評価が必要です。

(出典:『国史大辞典』元正天皇項、『日本大百科全書』元正天皇項)

崩御とその後

晩年の元正天皇については、天平20年(748年)4月21日、数え年69歳で崩御したことが記録されています。遺体は佐保山陵で火葬され、天平勝宝2年(750年)10月に奈保山西陵へ改葬されました。

(出典:『国史大辞典』元正天皇項、『日本大百科全書』元正天皇項)

元正天皇の関連人物とのつながり

元正天皇の治世は、家族や有力な臣下との関係によって支えられていました。ここでは、元正天皇と深く関わった主要人物について整理します。

母・元明天皇 ― 連続する女帝の系譜

元明天皇は天智天皇の皇女で、草壁皇子の妃として文武・元正両天皇を生みました。文武天皇の崩御後には自ら即位し、平城京遷都和同開珎の鋳造、『古事記』編纂などの政策を主導しました。元明天皇からの譲位により、母娘二代にわたる女帝即位が実現したことは、皇統の安定と女性統治の象徴的事例といえます。

(出典:『国史大辞典』元明天皇項、『世界大百科事典』元明天皇項、『日本人名大辞典』元正天皇項、『日本大百科全書』元正天皇項)

弟・文武天皇と甥・聖武天皇 ― 皇統維持の要

文武天皇は元正天皇の同母弟で、若くして即位しましたが、在位約10年で崩御しています。その皇子である首皇子(のちの聖武天皇)は幼少だったため、元明天皇・元正天皇が皇位を継承し、天武系皇統の連続性が維持されました。元正天皇は「中継ぎ女帝」として即位し、聖武天皇への円滑な皇位継承を実現しています。

(出典:『国史大辞典』文武天皇項・聖武天皇項・元正天皇項、『世界大百科事典』元正天皇項、『日本人名大辞典』元正天皇項、『日本大百科全書』元正天皇項)

藤原不比等 ― 治世前半の最大の協力者

治世前半の支えとなったのが、右大臣藤原不比等です。不比等は『養老律令』の編纂や国家制度の設計を主導し、藤原氏と皇室の結びつきを強化しました。養老4年(720年)の不比等の死は政界の大きな転換点となり、以後も元正天皇は律令国家の基礎固めを進めました

(出典:『国史大辞典』藤原不比等項・元正天皇項、『世界大百科事典』元正天皇項、『日本人名大辞典』元正天皇項、『日本大百科全書』元正天皇項)

長屋王 ― 不比等没後の政権を担った皇親

藤原不比等没後、政権運営の中心となったのが長屋王です。養老5年(721年)に右大臣となり律令体制の維持や三世一身法の施行を主導しました。長屋王が左大臣に昇進するのは聖武天皇即位後であり、元正天皇の治世下では右大臣の地位にとどまっています。

(出典:『国史大辞典』長屋王項・元正天皇項、『世界大百科事典』元正天皇項、『日本人名大辞典』元正天皇項、『日本大百科全書』元正天皇項)

歴史に刻まれた元正天皇 – 平城の世を支えた女帝の功績

『日本書紀』の完成、三世一身法の発布、聖武天皇への譲位など、元正天皇の事績は奈良時代初期の国家体制や皇統の安定に直結しました

女性天皇としての評価 ― 安定した治世を導いた手腕

元正天皇は在位約9年(715年9月〜724年2月)、大きな政変なく律令国家の制度整備と政治の安定に努めました。「中継ぎ女帝」とされつつも、重要な時代の秩序維持と国政運営を果たした点が評価されています。

(出典:『国史大辞典』元正天皇項、『世界大百科事典』元正天皇項、『日本人名大辞典』元正天皇項、『日本大百科全書』元正天皇項)

元正天皇が現代に伝えるもの

元正天皇は生涯独身で子がなく、皇位は甥の首皇子(聖武天皇)に継承されました。現代では、女性リーダーの先駆的存在として、また律令国家の制度改革や『日本書紀』の完成を主導した統治者として評価されています。

(出典:『国史大辞典』元正天皇項、『世界大百科事典』元正天皇項、『日本人名大辞典』元正天皇項、『日本大百科全書』元正天皇項)

元正天皇ゆかりの地

  • 平城宮跡(奈良市):治世の中心地
  • 奈保山西陵(奈良市奈良阪町):天平勝宝2年(750年)改葬の陵墓
  • 多度山(美濃国、現在の岐阜県養老町):養老改元の由来地美泉の効験により改元が行われたとされます

(出典:『国史大辞典』元正天皇項、『世界大百科事典』元正天皇項、『日本人名大辞典』元正天皇項、『日本大百科全書』元正天皇項)

参考文献

  • 『国史大辞典』、国史大辞典編集委員会 編、吉川弘文館、1979-1997年(全15巻)
  • 『世界大百科事典 第2版』、平凡社、2005年
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』、小学館、1984-1994年
  • 『日本人名大辞典』、講談社、2001年

私は普段、IT企業でエンジニアとして働いており、大学では化学を専攻していました。

歴史に深く興味を持つようになったきっかけは、NHK大河ドラマ『真田丸』でした。戦国の武将たちの信念や葛藤、時代のうねりに惹かれ、それ以来、特に戦国時代を中心に歴史の世界を探求しています。

理系出身ということもあり、気になるテーマに出会うと、書籍・論文・学術系ウェブサイトなどを徹底的に調べてしまう癖があります。最近では『戦国人名辞典』(吉川弘文館)などを読み込み、また縁の地も訪問しながら理解を深めています。

記事を執筆する際は、Wikipediaなどの便利な情報源も参考にはしますが、できる限り信頼性の高い文献や公的機関の資料を優先し、複数の情報を照合するように努めています。また、諸説ある場合はその旨も明記し、読者に判断を委ねる姿勢を大切にしています。

本業のエンジニアとして培ってきた「情報の構造化」や「素早いインプット」のスキルを活かして、複雑な歴史的出来事も整理して伝えることを心がけています。初心者ならではの視点で、「かつての自分と同じように、歴史に興味を持ち始めた方」の一助となる記事を目指しています。

まだまだ歴史学の専門家ではありませんが、誠実に歴史と向き合いながら、自分の言葉で丁寧にまとめていきたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。

日本史飛鳥
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