藤原宇合は何をした人?式家の祖、武勇と才略で藤原四子政権を支えた奈良時代の政治家

奈良時代前期、父・藤原不比等の遺志を継ぎ、兄弟たちと共に藤原氏の権力基盤を築いた「藤原四子」。その一人、藤原宇合(うまかい)は、のちの藤原式家の祖となり、軍事・外交・文芸の各分野で活躍した実力者です。この記事では、宇合がどのような役割を果たしたのか、どのようにして藤原氏の台頭を支えたのかを、信頼性の高い出典に基づいて解説します。

  1. 藤原宇合とは? – 藤原四子の一翼、式家を開いた実力派官人
    1. 基本情報 – 藤原不比等の子、行動力ある文武の官人
  2. 宇合の業績と生涯 – 武略と制度構築に長けた式家の礎
    1. 宇合の人柄と教養 – 詩歌や文筆にも才能
  3. 藤原宇合の歩みを知る年表
  4. 藤原氏の御曹司・藤原宇合 – 父・不比等と「四兄弟」
    1. 父・藤原不比等 – 巨大な政治的遺産
    2. 藤原四兄弟とは誰ですか? – 武智麻呂・房前・宇合・麻呂の結束と役割
    3. なぜ「式家」の祖と呼ばれるのか? – 宇合と藤原式家の始まり
  5. 藤原宇合の奈良時代の政争と軍事 – 長屋王の変と宇合の武断的側面
    1. 長屋王の変(729年) – 藤原氏による政敵排除
    2. 武人としての宇合 – 大宰帥としての九州統治と対外政策
  6. 藤原四子政権と藤原宇合の役割
    1. 兄弟間の連携と政権運営
    2. 宇合の政治的手腕と評価
  7. 突然の終焉 – 天然痘の猛威と藤原宇合の死因
    1. 天平の疫病大流行(737年) – 国家を揺るがしたパンデミック
    2. 藤原四兄弟、相次いで斃れる – 宇合の死因と藤原氏の危機
  8. 藤原宇合と関連人物とのつながり
    1. 父・藤原不比等 – 偉大な政治家の息子として
    2. 兄弟(藤原武智麻呂、房前、麻呂) – 「藤原四子」としての結束と各家の祖
    3. 政敵・長屋王 – 奈良時代前期の最大のライバル
    4. 天皇たち(元正天皇、聖武天皇)との関係
  9. 時代背景と藤原宇合の役割
    1. 奈良時代前期 – 律令国家の確立と藤原氏の台頭
    2. 藤原氏の権力基盤構築期における宇合の貢献
  10. 歴史に刻まれた藤原宇合 – 式家隆盛の礎と奈良朝の武断派官僚
    1. 歴史的インパクト – 藤原式家の創設と藤原四子政権による権力確立
    2. 藤原宇合の評価 – 武断的側面と政治的手腕
    3. なぜ藤原式家は北家ほどには…? その後の式家の運命
    4. 藤原宇合の子孫たち – 歴史を彩った式家の人々
    5. 藤原宇合の墓とゆかりの地
  11. 参考文献

藤原宇合とは? – 藤原四子の一翼、式家を開いた実力派官人

宇合は藤原不比等の三男として生まれ、兄弟たちとともに政権の中枢で活躍しました。とりわけ軍事や辺境統治に長けた行動派として知られ、藤原式家の繁栄の礎を築きました。

基本情報 – 藤原不比等の子、行動力ある文武の官人

項目内容
名前藤原宇合(ふじわらのうまかい)
生没年持統天皇8年(694年)頃 – 天平9年8月5日(737年9月3日)
出自父:藤原不比等、母:蘇我娼子(蘇我連子の娘とされる)
家系藤原式家の祖
兄弟武智麻呂(南家)、房前(北家)、麻呂(京家)
官職歴式部卿、参議、大宰帥、西海道節度使など
主要な活動遣唐副使(717年)、陸奥出兵(724年)、長屋王邸包囲(729年)、西海道軍制整備(732年)
死因天然痘(737年、藤原四子全員が同年没)
子孫藤原広嗣(広嗣の乱)、藤原良継、藤原百川など
墓所不明(伝承地あり)

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原宇合項、『続日本紀(二)』巻第七〜第十三、『長屋王』第6章)

宇合の業績と生涯 – 武略と制度構築に長けた式家の礎

宇合の政歴は、文官としての実務能力に加え、武官としての胆力が際立っています。

  • 遣唐副使として唐に渡航(養老元年〜2年)し、外交経験を積む
  • 陸奥反乱鎮圧の大将軍として派遣され(724年)、朝廷の権威を示す
  • 長屋王の変(729年)では兵を率いて邸宅を包囲し、藤原政権確立に大きく寄与
  • 西海道節度使に任命され、軍制整備の「警固式」を定めた(732年)
  • 天平九年(737年)八月五日、疫病(天然痘)で兄弟と共に死去、享年44

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原宇合項、『続日本紀(二)』巻第七〜第十二、『長屋王』第6章)

宇合の人柄と教養 – 詩歌や文筆にも才能

藤原宇合は、武官としての実績だけでなく、文化的な素養も備えていました。『懐風藻』には宇合の作とされる漢詩が6首収録されており、また『経国集』には宇合の作と伝えられる賦文「棗賦」が収められています。これらの作品は、宇合が文筆にも才能を発揮していたことを示しています。

宇合の文武両道の姿勢は、藤原式家の精神的遺産としても重要であり、後の子孫たちにも影響を与えたと考えられます。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原宇合項)

藤原宇合の歩みを知る年表

藤原不比等の子として生まれ、兄弟たちと共に奈良時代の政界を駆け上がり、そして天然痘により短い生涯を閉じた藤原宇合。その政治的軌跡を、信頼できる文献に基づいた年表でたどります。

年代(西暦)出来事
694年(持統天皇8年)頃藤原不比等の三男として誕生したとされる。
716年(霊亀2年)遣唐副使に任命される。
717年(養老元年)遣唐副使として入唐。
718年(養老2年)~721年(養老5年)唐より帰国後、常陸守を経て、養老5年6月に式部卿に就任。
720年(養老4年)父・不比等が死去。宇合ら四兄弟が政権の中核を担い始める。
721年(養老5年)式部卿に就任。
724年(神亀元年)持節大将軍として陸奥の蝦夷の反乱を平定。
729年(神亀6年/天平元年)長屋王の変に際し、兵を率いて長屋王邸を包囲。
731年(天平3年)参議に昇進。
732年(天平4年)西海道節度使に任命される(『国史大辞典』)。同年、大宰帥を兼任。
737年(天平9年)天然痘により8月5日に死去(享年44)。同年、兄弟たちも相次いで死去。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原宇合項、『続日本紀(二)』巻第七〜第十三、『日本の歴史 3 奈良の都』第10章、寺崎保広『長屋王』第6章)

藤原氏の御曹司・藤原宇合 – 父・不比等と「四兄弟」

藤原宇合の生涯を理解するためには、偉大な父・不比等の存在と、「藤原四子」と呼ばれる兄弟たちとの関係性が不可欠です。彼がどのようにして藤原氏の権力の中枢へと進んだのかを見ていきます。

父・藤原不比等 – 巨大な政治的遺産

藤原不比等は、持統・文武・元明・元正の四代にわたり政権を支え、律令制度の整備や『養老律令』の編纂を主導した人物です。また、天皇家との婚姻政策を通じて外戚としての地位を確固たるものとし、政界に絶大な影響力を持つに至りました。

このような体制を築いた不比等は、自身の子どもたちに多くを託しました。宇合もその一人として、若くして要職に就き、不比等の政治的遺産を引き継ぐ立場に置かれていました。宇合が遣唐副使や大宰帥などを歴任したのも、父の遺産によって与えられた信頼の現れともいえるでしょう。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原不比等項・藤原宇合項、『日本の歴史 3 奈良の都』第10章)

藤原四兄弟とは誰ですか? – 武智麻呂・房前・宇合・麻呂の結束と役割

藤原不比等の死後、彼の四人の息子たちはそれぞれ異なる家系の祖となり、藤原氏の勢力を分立的に支える存在となります。これが「藤原四子」と呼ばれる兄弟たちです。

  • 長兄:武智麻呂(むちまろ)藤原南家の祖。兄弟のリーダー格で、長屋王の変においても中心的な役割を果たした。
  • 次兄:房前(ふささき)藤原北家の祖。行政能力に優れ、元明上皇の信任厚く内臣として重用された。その子孫は藤原氏の中でも特に繁栄し、後の摂関家の源流となる。
  • 三兄:宇合(うまかい)藤原式家の祖。武人としての側面が強く、大宰帥や持節大将軍など軍事的な職務も多く担った。
  • 末弟:麻呂(まろ)藤原京家の祖。参議として政策決定に加わり、持節大使として東北地方の統治にも重要な役割を果たした。詩歌にも通じていた。

四兄弟は父・不比等の遺産を背景に連携して朝廷内の主導権を握り、藤原四子政権を築き上げます。とりわけ長屋王の変(729年)では、四兄弟が連携して政敵である長屋王を失脚させ、藤原氏の権力を一層強固なものとしました。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原四兄弟各項、『長屋王』第6章)

なぜ「式家」の祖と呼ばれるのか? – 宇合と藤原式家の始まり

藤原宇合は、官人登用や学問を司る要職である式部卿を長く務めたことから、彼の系統は「藤原式家」と称されるようになりました。この名称は、宇合の官歴に由来する通称です。

宇合の死後、その子孫たちは式家として活躍を続け、特に広嗣の乱(740年)を起こした長男・藤原広嗣や、のちに政権中枢に上った藤原良継・百川などが著名です。彼らは、式家を単なる一族の呼称から政治勢力として確立させ、奈良時代中期以降の政局でも存在感を示しました。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原宇合項、『日本の歴史 3 奈良の都』第10章)

藤原宇合の奈良時代の政争と軍事 – 長屋王の変と宇合の武断的側面

藤原四兄弟が政権の中枢に台頭する過程において、最大の障害となったのが、皇親勢力の中心であった長屋王です。この政争において、藤原宇合は武人としての側面を発揮し、藤原氏の権力確立に大きな役割を果たしました。

長屋王の変(729年) – 藤原氏による政敵排除

8世紀初頭、皇親である長屋王は、天武系皇統の血統と高い官位を背景に、政界における強大な影響力を保持していました。一方、藤原不比等の死後に台頭した藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟は、天智系の出自を背景とした貴族政治体制の確立を目指しており、両者の対立は次第に先鋭化していきました。

当時、藤原氏が推進していた光明子(不比等の娘)の立后構想にとって、皇親の長屋王は大きな障害と見なされていたとされます。こうした政治的緊張が高まる中、天平元年(729年)2月、長屋王に謀反の疑いがかけられる事件が発生します。

この「長屋王の変」に際し、宇合は兄・武智麻呂ら藤原四兄弟の中心メンバーとして深く関与し、実際に兵を率いて長屋王邸を包囲したとされます。『国史大辞典』にも「兵を率いて王の宅を囲み」と記されており、宇合の行動が事実として裏付けられています。その後、長屋王は邸宅内で自害。これにより、藤原氏は皇親勢力という最大の政敵を排除し、政権掌握への大きな足がかりを得ました。

宇合の軍事行動は、藤原氏の政治基盤を確固たるものとする過程において重要な局面であり、彼の武断的資質が最も色濃く現れた出来事の一つと言えるでしょう。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原宇合項、『長屋王』第6章)

武人としての宇合 – 大宰帥としての九州統治と対外政策

藤原宇合は、政務だけでなく軍事・外交面でも重要な役職を歴任しました。天平4年(732年)には西海道節度使に任命され、同年中には大宰帥も兼任します。九州においては、新羅・唐との外交的緊張、そして隼人・熊襲ら在地勢力への対応が求められる中、宇合は防衛体制の再構築と国境警備の強化にあたりました。

『国史大辞典』には、宇合が「西海道諸国の防衛のための警固式を作る」などと記されており、彼が軍団制に基づく警備制度の再整備に尽力したことがうかがえます。また、唐・新羅との国交に備えるという観点でも、九州防衛の司令官として重要な役割を果たしました。

さらに神亀元年(724年)には、持節大将軍として陸奥の蝦夷の反乱に出征した記録があり、宇合が中央政界にとどまらず、現地での軍事指揮にも従事していたことがわかります。これは、朝廷が蝦夷地への武力行使を強化し始めた時期の重要な軍事行動の一つであり、宇合の武断的な政治姿勢が如実に表れた例といえます。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原宇合項、『続日本紀(二)』巻第九・巻第十二)

藤原四子政権と藤原宇合の役割

長屋王の変を契機に、藤原四兄弟は政権の実権を掌握しました。この「藤原四子政権」において、宇合はどのような役割を担ったのでしょうか。

兄弟間の連携と政権運営

藤原四兄弟は、それぞれが異なる家系を率いながら、協調して朝廷の政務を担いました。長兄・武智麻呂は左大臣として朝政の最高責任者となり、房前は元明上皇の信任を受けて内臣を務めるなど、朝廷内の調整役として活躍しました。宇合はこれらと補完的な関係にあり、実務と軍事・外交を担う実践派としての立場を担ったと考えられます。

とくに宇合は式部卿として官人登用や教育制度を司る一方で、大宰帥・西海道節度使として九州地方の統治と防衛に関与し、中央と地方の橋渡し役を果たしていたと評価されます。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原宇合項、『続日本紀(二)』巻第十一〜十三、『日本の歴史 3 奈良の都』第10章)

宇合の政治的手腕と評価

宇合は、藤原四兄弟のなかでも現場型の実務官僚として重視された人物です。中央においては人事・教育、地方では防衛や外交の実務に従事し、蝦夷・隼人・新羅といった周辺勢力との関係にも一定の影響を与えたとされます。

とくに長屋王の変での軍事行動や、九州における施政の実行力は、彼の決断力と行動力を示すものとされ、そのような特質はのちの藤原式家にも継承されました。たとえば、後の藤原広嗣・藤原百川らに見られる現実主義的な政治姿勢には、宇合の影響があると見る向きもあります。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原宇合項、『日本の歴史 3 奈良の都』第10章)

突然の終焉 – 天然痘の猛威と藤原宇合の死因

順調に政権基盤を築いていた藤原四子でしたが、その栄光はあまりに突然の終焉を迎えました。天平9年(737年)、奈良時代を襲った疫病の大流行は、国家中枢を直撃し、日本の政治構造に大きな転機をもたらします。

天平の疫病大流行(737年) – 国家を揺るがしたパンデミック

天平9年、当時の日本では疫病(通説では天然痘)が猛威を振るい、『続日本紀』によれば、多数の高官が次々と病没し、政務機構が一時的に機能不全に陥ったとされています。海外との交流が活発化する中、大陸から伝来したとされるこの病は、特に都市部や貴族社会に深刻な被害を及ぼしました。

この社会的危機に対応するため、聖武天皇は仏教による鎮護国家政策に傾倒し、のちに東大寺大仏造立へとつながる思想的基盤が形成されていきます。疫病の流行は、単なる公衆衛生の問題にとどまらず、国家の信仰と政策にも大きな影響を与えました。

(出典:『続日本紀(二)』巻第十三、『日本の歴史 3 奈良の都』第10章)

藤原四兄弟、相次いで斃れる – 宇合の死因と藤原氏の危機

この疫病の影響を最も大きく受けたのが、当時政権を担っていた藤原四兄弟でした。天平9年(737年)、宇合・武智麻呂・房前・麻呂は、わずか数ヶ月の間に相次いで病没し、藤原四子による政権は事実上崩壊します。

『続日本紀』には、宇合が8月5日に「流行した疫病のため」死去したと記されており、肩書は参議・式部卿・大宰帥・正三位でした。『国史大辞典』も同様に、「流行した疫病により没」と記述しており、直接的に「天然痘」とは断定していませんが、通説としてこの疫病は天然痘であったとされます

このような疫病による政権中枢の壊滅は、橘諸兄政権の成立へとつながり、奈良時代の政治構造に大きな変化をもたらしました。四兄弟の同時代的な死は、疫病が単なる健康被害にとどまらず、政治体制そのものを揺るがす重大な歴史的事件であったことを示しています。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原宇合項、『続日本紀(二)』巻第十三、『日本の歴史 3 奈良の都』第10章)

藤原宇合と関連人物とのつながり

藤原宇合の生涯は、強力な父・不比等、共に時代を築いた兄弟たち、そして政敵との激しい駆け引きの中で展開されました。彼の人生と政治的立場を理解するうえで、こうした人物たちとの関係は欠かせません。

父・藤原不比等 – 偉大な政治家の息子として

藤原宇合の父・不比等は、律令体制の整備とともに、天皇家の外戚としての地位を活用し、藤原氏の政治的基盤を築いた巨人です。彼の死後、四人の息子たちはその遺産を引き継ぎ、集団として政界に進出しました。宇合にとって不比等の存在は、常に越えるべき大きな影であり、同時に権力の源泉でもありました。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原不比等項、藤原宇合項、『日本の歴史 3 奈良の都』第10章)

兄弟(藤原武智麻呂、房前、麻呂) – 「藤原四子」としての結束と各家の祖

宇合は三男として兄たちに従いながらも、独自の役割を果たしていました。四兄弟は、互いに連携を取りつつもそれぞれ異なる家系(南家・北家・式家・京家)を立て、藤原氏の家格分立の原型を形成しました。宇合の家系である藤原式家は、のちに広嗣や百川といった有力人物を輩出し、奈良から平安初期にかけて重要な政治的役割を担うことになります。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原宇合項、藤原武智麻呂項、藤原房前項、藤原麻呂項)

政敵・長屋王 – 奈良時代前期の最大のライバル

宇合にとって最大の政敵は、天武系の皇親であった長屋王です。皇位継承問題や立后問題を巡って対立が激化し、宇合は兄たちとともに「長屋王の変」を計画・実行。自ら兵を率いて邸宅を包囲するという直接行動にも出たことからも、単なる貴族ではなく実行力ある政治家・武人であったことがうかがえます。

(出典:『長屋王』第6章、『国史大辞典 第12巻』藤原宇合項)

天皇たち(元正天皇、聖武天皇)との関係

宇合は元正天皇・聖武天皇の両代に仕え、特に聖武天皇期には要職に就いて政務を担いました。聖武天皇からは、九州の重要職である大宰帥への任命などを見るに、信頼を置かれた官人であったとみられます。ただし、天皇との直接的な関係性が明記された一次記録は多くないため、評価には慎重な姿勢が求められます。

(出典:『続日本紀(二)』巻第七〜十三、『日本の歴史 3 奈良の都』第10章)

時代背景と藤原宇合の役割

奈良時代前期は、律令国家体制が整備され、中央集権的な政治が本格化する一方で、貴族層内部の権力闘争も激化した時代です。藤原宇合は、そうした変革の渦中で政権中枢に位置し、藤原氏の勢力拡大と制度確立に貢献しました。

奈良時代前期 – 律令国家の確立と藤原氏の台頭

藤原宇合が活躍した奈良時代前期(8世紀前半)は、平城京への遷都(710年)を契機に、律令制度に基づく政治体制が本格化した時期です。朝廷では、大宝律令(701年)に基づいた官僚制と地方支配が整備され、貴族たちはその中で勢力を競いました。

その中でも藤原氏は、藤原不比等の遺産を継承した四兄弟によって、政治の中枢に進出しつつありました。不比等の死後、宇合や兄弟たちは協力して藤原四子政権を樹立し、皇親勢力を抑えて政治主導権を掌握する過程に入ります。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原宇合項、『日本の歴史 3 奈良の都』第10章)

藤原氏の権力基盤構築期における宇合の貢献

藤原宇合は、藤原四兄弟の一人として、特に軍事・地方統治を中心に活躍しました。729年の「長屋王の変」では、兄たちとともに事件に深く関与し、実際に兵を率いて長屋王邸を包囲したとされます。

その後も宇合は、式部卿として人事・教育を担当し、さらに大宰帥・西海道節度使として九州の防衛・統治を担いました。こうした役職は、中央・地方の連携を重視した宇合の実務派としての能力を示しています。

(出典:『続日本紀(二)』巻第十一・十三、『国史大辞典 第12巻』藤原宇合項)

歴史に刻まれた藤原宇合 – 式家隆盛の礎と奈良朝の武断派官僚

藤原宇合は、律令国家が本格的に始動する時代において、政治・軍事の両面で実務を担い、藤原式家の祖としてその後の歴史に大きな影響を残しました。

歴史的インパクト – 藤原式家の創設と藤原四子政権による権力確立

宇合は、のちの藤原式家の祖として位置づけられ、その子孫である藤原広嗣・良継・百川・緒嗣らは奈良〜平安初期にかけて重要な役割を果たします。特に百川は桓武天皇の側近としても知られ、式家の影響力は一時的ながらも顕著でした。

また、宇合が主導した長屋王の変は、藤原氏が皇親勢力を抑え、政権中枢に定着する契機となりました。この事件を通じて、藤原四子政権は短期間ながら政治主導権を握ることになります。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原宇合項、『日本の歴史 3 奈良の都』第10章)

藤原宇合の評価 – 武断的側面と政治的手腕

宇合は、兄弟の中でも特に軍事・外交に明るい実務官僚として評価されます。中央では式部卿として文官業務にあたりながら、地方では大宰帥として現地統治を指揮し、二面性ある行政能力を発揮しました。

一方で、「長屋王の変」において武力行使の一翼を担った点などから、強硬的な側面を持つ人物としても語られます。そうした手法は、政治の現実主義を体現したものと見ることもできますが、後世の視点からは評価が分かれるところです。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原宇合項)

なぜ藤原式家は北家ほどには…? その後の式家の運命

宇合の死後、式家は一時的に大きな勢力を誇りましたが、長男・広嗣の乱(740年)によって朝廷との関係が悪化。その後、百川や良継によって巻き返しが図られるも、藤原北家のような長期的な繁栄には至りませんでした。

式家の系譜は、武断的で実務に強い人物を多く輩出した一方で、政局との距離感や調整能力に課題を抱えていたと見る研究者もいます。

(出典:『日本の歴史 3 奈良の都』第10章)

藤原宇合の子孫たち – 歴史を彩った式家の人々

藤原宇合の子孫には、奈良〜平安初期にかけて多数の重要人物が登場します。

  • 藤原広嗣:長男。740年、太宰府での反乱(広嗣の乱)を起こす。
  • 藤原良継:孝謙・称徳天皇期に要職を歴任。百川とともに式家再興の柱に。
  • 藤原百川:桓武天皇の政権下で活躍し、式家の最大勢力を築く。
  • 藤原緒嗣:徳政論争で有名な知識人・官僚。

宇合の子孫には、このように奈良時代から平安初期にかけて、実務能力に長け、政治の現実に対応しようとした人物が多く見られました。

(出典:『国史大辞典』各人名項)

藤原宇合の墓とゆかりの地

藤原宇合の墓所は現在のところ不明ですが、伝承地としては京都・宇治周辺が挙げられることがあります(確証はなし)。また、大宰府政庁跡(福岡県太宰府市)は、宇合が大宰帥として赴任した地として知られ、現地には資料館や歴史公園が整備されています。

  • 宇合の足跡を訪ねるには、太宰府政庁跡の現地案内板や復元模型が有用です。
  • 他に、奈良・平城宮跡の式部省関連遺構も、宇合の中央官僚時代を想起させるゆかりの地といえます。

参考文献

  • 『国史大辞典 第12巻』国史大辞典編集委員会 編、吉川弘文館、1991年
  • 『続日本紀(二)』新日本古典文学大系、岩波書店、1990年
  • 『日本の歴史 3 奈良の都』青木和夫、中央公論新社、2004年
  • 『長屋王』寺崎 保広【著】/日本歴史学会【編】、吉川弘文館、1999年

私は普段、IT企業でエンジニアとして働いており、大学では化学を専攻していました。

歴史に深く興味を持つようになったきっかけは、NHK大河ドラマ『真田丸』でした。戦国の武将たちの信念や葛藤、時代のうねりに惹かれ、それ以来、特に戦国時代を中心に歴史の世界を探求しています。

理系出身ということもあり、気になるテーマに出会うと、書籍・論文・学術系ウェブサイトなどを徹底的に調べてしまう癖があります。最近では『戦国人名辞典』(吉川弘文館)などを読み込み、また縁の地も訪問しながら理解を深めています。

記事を執筆する際は、Wikipediaなどの便利な情報源も参考にはしますが、できる限り信頼性の高い文献や公的機関の資料を優先し、複数の情報を照合するように努めています。また、諸説ある場合はその旨も明記し、読者に判断を委ねる姿勢を大切にしています。

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まだまだ歴史学の専門家ではありませんが、誠実に歴史と向き合いながら、自分の言葉で丁寧にまとめていきたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。

日本史飛鳥
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