藤原基経は何をした人?実質的な初代関白、阿衡事件で権勢を示した摂関政治の確立者

平安時代前期、叔父であり養父でもある藤原良房の事業を受け継ぎ、藤原氏の権力基盤を盤石なものとしたのが藤原基経(ふじわらのもとつね)です。天皇が成人後も政務を主導できる「関白」という職を実質的に確立し、天皇の勅命にさえ異を唱えた阿衡事件(あこうじけん)を通じて、摂関家の権威を日本史に不動のものとしました。この記事では、基経の実像と摂関政治の礎を築いた経緯を、信頼できる出典に基づき、歴史初心者にも分かりやすく解説します。

  1. 藤原基経とは? – 「関白」として君臨し、藤原氏の権力を盤石にした政治家
    1. 基本情報 – 藤原良房の後継者、平安前期の最高権力者
    2. 藤原基経は何をした人か? – 主な業績ダイジェスト
    3. 人となり – 養父の路線を継承・発展させた辣腕政治家
  2. 藤原基経の歩みを知る年表
  3. 藤原北家の継承者・藤原基経 – 叔父・良房からの権力継承
    1. 実父・藤原長良と養父・藤原良房という二人の父
    2. 摂政・太政大臣の地位継承 – 良房が遺したもの
  4. 実質的な初代「関白」の誕生 – 藤原基経と新たな政治のかたち
    1. 関白職成立の経緯 – 陽成天皇から光孝・宇多天皇へ
    2. 関白とは何か? – 「天皇の政務を総理する最高執政者」
  5. 阿衡事件(887年) – 天皇 対 関白、前代未聞の政務ボイコット
    1. 事件の背景 – 宇多天皇の即位と橘広相の登用
    2. なぜ基経は怒ったのか? – 「阿衡に職掌なし」の論理
    3. 事件の結末と歴史的意義 – 関白の権威、ここに確立
  6. 天皇の擁立と廃位 – 藤原基経に見る平安の宮廷掌握術
    1. 陽成天皇の廃位(884年) – 素行不良か、それとも政治的判断か
    2. 光孝天皇・宇多天皇の擁立 – 藤原氏にとって都合の良い天皇
  7. 藤原基経の関連人物とのつながり
    1. 養父・藤原良房 – 偉大な権力者の後継者として
    2. 天皇たち(陽成・光孝・宇多) – 擁立し、時に圧力をかけた関係
    3. 橘広相・菅原道真 – 阿衡事件の当事者たち
    4. 子・藤原時平らへの継承
  8. 歴史に刻まれた藤原基経 – 摂関政治の礎を築いた平安の権力者
    1. 歴史的インパクト – 関白制度の創始と摂関政治体制の確立
    2. 藤原基経の評価 – 優れた政治家か、傲慢な権力者か
    3. 阿衡事件の再評価 – 基経の真意はどこにあったのか?
    4. 藤原基経の子孫と藤原北家のさらなる繁栄
    5. 藤原基経ゆかりの地
  9. 藤原基経に関するよくある質問(Q&A)
  10. 参考文献

藤原基経とは? – 「関白」として君臨し、藤原氏の権力を盤石にした政治家

ここでは藤原基経の基本的なプロフィール、藤原良房の後継者としての資質、そしてその人となりについて紹介します。本文は『国史大辞典』を中心に、他の権威ある事典で補足します。

基本情報 – 藤原良房の後継者、平安前期の最高権力者

項目内容
名前藤原 基経(ふじわら の もとつね)
諡号(しごう)昭宣公(しょうせんこう)、通称:堀河大臣(堀川太政大臣)
生没年承和3年(836年) – 寛平3年1月13日(891年)
出自藤原北家。父は中納言・藤原長良、母は藤原乙春。叔父である太政大臣・藤原良房の養子となる。同母妹・高子は清和天皇の女御、陽成天皇の母となったため、基経は天皇の伯父(外戚)という重要な立場にあった。
主な役職摂政、関白(実質初代)、太政大臣
主要な出来事陽成天皇の廃位、光孝天皇・宇多天皇の擁立、阿衡事件(887年)
関連人物藤原良房(養父)、藤原長良(実父)、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇、橘広相、菅原道真、藤原時平(長男・後の左大臣)
墓所『延喜式』に定められた次宇治墓(つぎのうじのはか)。現在は京都府宇治市木幡の宇治陵内「狐塚」が治定されている。『古今和歌集』には深草山に葬ったとする和歌があり、『西宮記』には小野墓所の記述があるが、これらは火葬の地を示すものとする説もある。

(出典:『国史大辞典』藤原基経項・次宇治墓項、『世界大百科事典』藤原基経項、『日本人名大辞典』藤原基経項、『日本大百科全書(ニッポニカ)』藤原基経項)

藤原基経は何をした人か? – 主な業績ダイジェスト

藤原基経は、養父・藤原良房の路線を継承し、平安前期の政界の中心で摂政太政大臣として実権を握りました。

  • 光孝天皇の擁立後、「万機を執るべし」との詔によって全政務を委任され、実質的な関白として国政を主導。さらに、宇多天皇の即位時(887年)には「関白」という語が詔に登場し、のちの摂関政治の基礎を築きました。
  • 887年の阿衡事件では、勅命の表現を巡って出仕を停止し、天皇に対して職権の明確化を迫る前例のない対応を実施。最終的に関白の権威を天皇から公式に認められ、摂関家の地位を不動のものとしました。
  • 宮中での事件を契機に、天皇としての資質に問題のあった陽成天皇を事実上廃位。年長の時康親王(光孝天皇)を推戴することで、天皇選定の主導権を握る巧みな政治手腕を示しました。
  • 光孝天皇・宇多天皇の両代にわたり政権の中心となり、藤原氏の政治的地位と摂関政治の体制を制度として確立。これは後の藤原道長の時代にもつながる礎となりました。
  • 陽成天皇期には、校班田(こうはんでん)の実施や元慶官田(げんけいかんでん)の設置など、国家財政や田制改革にも積極的に取り組み、実務面でも多くの成果を残しました。
  • 元慶3年(879年)には『日本文徳天皇実録』を撰進し、歴史編纂事業にも貢献。また、元慶年間には日本紀講書にも積極的に関与しました。

(出典:『国史大辞典』藤原基経項)

人となり – 養父の路線を継承・発展させた辣腕政治家

藤原基経は、叔父・良房の政治手法を受け継ぎつつ、さらに権力基盤を強固にした人物です。政務では儀礼や法制の先例を重んじながら、必要とあれば強硬な手段も辞さない辣腕さが際立ちます。

とくに阿衡事件では、関白の職掌や自身の権威を守るため、天皇の勅命に疑義を呈し出仕を停止するという異例の行動に出ており、この一件を通じて摂関家の立場をさらに強化しました。

また、中国殷代の賢臣・伊尹(いいん)にたとえられる(阿衡は伊尹の官職名)など、その政治手腕は高く評価されています。一方で阿衡事件を通じ、反対派や学者層との対立もありました。好学で文化・儀礼にも通じ、『文徳実録』の編纂や日本紀講書への関与など、歴史事業・学問にも積極的に取り組みました。政務について学者に諮問することもしばしばで、笙の祖とも伝えられるなど、文化面での貢献も多岐にわたりました。

(出典:『国史大辞典』藤原基経項、『世界大百科事典』藤原基経項)

藤原基経の歩みを知る年表

藤原基経は、平安時代前期の藤原北家の後継者として生まれ、養父・藤原良房のもとで昇進を重ね、やがて摂政・実質的な初代関白として権力の頂点に立ちました。その生涯を、天皇の交代や重要な政治事件を中心に、時系列で整理します。

年代(西暦)出来事・基経の動向
836年(承和3年)藤原長良の三男として誕生。
(時期不詳)叔父・藤原良房の養子となる。
864年(貞観6年)参議に任命される(29歳)。
866年(貞観8年)応天門の変が起こる。この後、7人もの上位者を飛び越え、従三位中納言に昇進する。
870年(貞観12年)大納言に昇進。
872年(貞観14年)8月に右大臣に任命される。9月に養父・良房が死去。基経が藤原氏の氏長者となる。
876年(貞観18年)清和天皇が譲位し、幼い陽成天皇が即位。基経は摂政となる。
879年(元慶3年)『日本文徳天皇実録』を撰進。
880年(元慶4年)12月、清和上皇崩御。その遺志により太政大臣に任じられる。
881年(元慶5年)正月、従一位に昇叙。
882年(元慶6年)陽成天皇が元服。基経は摂政辞任を繰り返し申し出て、政務から距離を置く。
884年(元慶8年)陽成天皇の資質が問題視され、基経が主導して天皇を廃し、時康親王(光孝天皇)を擁立。新天皇から「万機を執るべし」と詔を受け、事実上の関白として全政務を委ねられる。
887年(仁和3年)光孝天皇が崩御し、基経は定省親王(宇多天皇)を擁立。宇多天皇の即位直後に発せられた勅書の表現を巡って「阿衡事件」が発生し、基経は出仕を停止して抗議。
888年(仁和4年)天皇側が詔の訂正に応じ、阿衡事件が収束。基経の娘・温子の入内により、天皇と基経は和解する。
890年(寛平2年)准三宮となる。
891年(寛平3年)死去。享年56。基経の死後、摂関の地位は藤原氏によって継承され、後の藤原道長の時代に摂関政治は最盛期を迎えることとなる。

(出典:『国史大辞典』藤原基経項、『阿衡の紛議』項)

藤原北家の継承者・藤原基経 – 叔父・良房からの権力継承

藤原基経の権力の源泉は、叔父であり養父でもある藤原良房から受け継いだものでした。なぜ基経が後継者となり、どのようにその巨大な権力を引き継いだのか、その背景に迫ります。

実父・藤原長良と養父・藤原良房という二人の父

基経は藤原長良の三男として生まれ、男子に恵まれなかった叔父・良房の養子となり、藤原北家の本流を継ぎました。これは藤原氏の血統維持と外戚関係の強化という一族戦略によるもので、基経は良房の養子として、藤原北家の後継者となりました。

(出典:『国史大辞典』藤原基経項)

摂政・太政大臣の地位継承 – 良房が遺したもの

基経は養父・良房の晩年から右大臣として執政を支え、良房の死後、陽成天皇の即位に伴って摂政に就任しました。その後、880年(元慶4年)12月、清和上皇の没日に、その遺志により太政大臣に任じられましたが、基経はこれを固辞するなど慎重な姿勢も見せつつ、最終的に藤原氏の氏長者・外戚として確固たる権力を握りました。この権力構造は摂関家の先例として、後の藤原道長へと継承されていきます。

(出典:『国史大辞典』藤原基経項)

実質的な初代「関白」の誕生 – 藤原基経と新たな政治のかたち

藤原基経の最大の功績のひとつは、天皇が成人した後も政務を後見する「関白」という制度を実質的に確立したことです。この新たな最高執政者の職掌は、摂政からの連続性を保ちながらも、宮廷政治に画期的な変化をもたらしました。

関白職成立の経緯 – 陽成天皇から光孝・宇多天皇へ

基経は、陽成天皇の元服(成人)後、その資質に疑問を持ち、摂政辞任を度々申し出て政務から距離を置きました。その後、陽成天皇が宮中の事件をきっかけに廃されると、基経は年長の時康親王(光孝天皇)を新天皇として擁立します。光孝天皇は「万機(国家の政務)を執るべし」と詔を発し、基経に全政務を委任しました。これが実質的な関白職の成立とされています。さらに、次代の宇多天皇の即位時(887年11月)の詔において「関白」の呼称が初めて明記され、「万機巨細みな太政大臣に関白し」という文言で正式に定められ、以降その職掌と権威が確立しました。

(出典:『国史大辞典』藤原基経項、『阿衡の紛議』項)

関白とは何か? – 「天皇の政務を総理する最高執政者」

「摂政」は本来、天皇が幼少・病弱の際に設置される職ですが、「関白」は天皇が成人後も政務を補佐・主導する最高執政者です。関白の呼称は宇多天皇の即位時(887年11月)の詔に初めて明記され、「万機巨細みな太政大臣に関白し」とされたことにより、藤原氏の氏長者が独占し、長く続く摂関政治の柱となりました。

(出典:『国史大辞典』藤原基経項、『阿衡の紛議』項)

阿衡事件(887年) – 天皇 対 関白、前代未聞の政務ボイコット

実質的な初代関白となった藤原基経の権威を決定づけたのが、平安時代宮廷で勃発した「阿衡事件(阿衡の紛議)」です。これは天皇からの命令書の表現をめぐり、基経が政務を一切放棄するという、かつてない事態へと発展しました。関白という新たな地位の成立と、その権限の範囲をめぐる緊迫した政治ドラマは、摂関政治の骨格を形づくった事件として知られます。

事件の背景 – 宇多天皇の即位と橘広相の登用

光孝天皇の崩御にともない、基経は定省親王(のちの宇多天皇)を新天皇として擁立します。即位後、宇多天皇は基経に引き続き政務を主導してほしいと考え、当時文人官僚として知られた橘広相に、基経の新たな役職を定める勅書の起草を命じました。こうして宇多天皇が発したのが「万機巨細皆太政大臣に関白し然る後に奏下すること旧事のごとくせよ」という詔であり、ここで「関白」の語が日本史上初めて公式文書に現れました。なお、元慶8年(884年)の詔勅でも基経は阿衡と呼ばれており、当時この語は『千字文』にも見える一般的な表現でした。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原基経項・阿衡の紛議項)

なぜ基経は怒ったのか? – 「阿衡に職掌なし」の論理

問題となったのは、勅答の中の「よろしく阿衡の任を以て卿が任となすべし」という一文です。阿衡(あこう)は中国の故事に登場する名誉職で、「実際には職掌=実権がない」と解釈されていました。基経はこれを「自分を権力の外に置こうとする意図だ」と受け止めて激しく反発。この背景には、勅答起草者の橘広相が次代の外戚となる可能性があったことへの警戒や、新帝に対し自身の政治的立場を再確認する狙いがあったとも指摘されています。ついにすべての政務を放棄し、朝廷の機能が停止する危機を招きます。学者・官僚層を巻き込んだ論争となり、政治は膠着状態に陥りました。

(出典:『国史大辞典 第12巻』阿衡の紛議項)

事件の結末と歴史的意義 – 関白の権威、ここに確立

紛議は翌年まで続き、最終的に888年(仁和4年)6月、宇多天皇は訂正の詔を下し、同年10月には基経の娘・温子が入内して両者は和解しました。橘広相はその責任を問われる立場に追い込まれ、これによって関白という地位が、天皇の意思さえも左右するほど強大な権威を持つことが、内外に明確に示されました。この事件には讃岐守として任国にいた菅原道真も仲裁に奔走したと伝えられています。以降、関白は天皇成人後も政務の中心となり、藤原氏による摂関体制が制度として確立される転機となりました

(出典:『国史大辞典 第12巻』阿衡の紛議項)

天皇の擁立と廃位 – 藤原基経に見る平安の宮廷掌握術

藤原基経は、関白としての絶大な権威を背景に、天皇の擁立廃位にまで積極的に関与しました。これは、平安時代の貴族政治において藤原氏の影響力が頂点に達したことを象徴する出来事でもあります。

陽成天皇の廃位(884年) – 素行不良か、それとも政治的判断か

陽成天皇は即位当初からその素行に問題があるとされ、特に宮中での格殺事件が起きるなど、政界の信頼を失っていました。基経は、公卿たちと協議のうえで天皇の資質を疑問視し、事実上の廃位を主導します。天皇の廃位が臣下の意向によって決まるという、極めて異例の先例をつくった点で、この決断は日本の宮廷史上大きな意味を持ちました。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原基経項)

光孝天皇・宇多天皇の擁立 – 藤原氏にとって都合の良い天皇

陽成天皇廃位後、基経は皇統から離れていた時康親王(光孝天皇)を55歳で即位させます。さらに、光孝天皇の死後はその皇子・定省親王(宇多天皇)を新たな天皇に推戴し、自身の権力基盤を維持しました。これらの人事はいずれも、藤原氏の政権運営に有利な天皇を擁立し、実権を掌握するという、摂関政治の基本パターンを確立したものです。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原基経項)

藤原基経の関連人物とのつながり

藤原基経の生涯と業績は、養父・良房や彼が擁立・対峙した天皇たちとの関係性によって形作られました。ここでは、それぞれのキーパーソンとの結びつきを整理します。

養父・藤原良房 – 偉大な権力者の後継者として

藤原良房は、基経の叔父にして養父であり、摂政として藤原北家の権力を飛躍的に高めた人物です。基経は良房から外戚としての権力基盤や政務運営のノウハウを受け継ぎ、さらなる体制の強化を進めました。藤原家の「氏長者」としての自覚と責任も、この継承関係によって確立されました。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原基経項)

天皇たち(陽成・光孝・宇多) – 擁立し、時に圧力をかけた関係

基経は陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の3代にわたって、天皇の即位や政治運営に深く関与しました。とくに陽成天皇を廃位し、光孝・宇多両天皇を擁立したことで、天皇家と藤原氏の関係性に大きな影響を与え、摂関政治の枠組みを形づくりました。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原基経項)

橘広相・菅原道真 – 阿衡事件の当事者たち

橘広相は阿衡事件で勅答を起草した学者官僚で、事件後はその責任を問われる立場に追い込まれました。一方、菅原道真は当時讃岐守として任国にありながらも、この政争の収拾に尽力したと伝えられます。両者の行動は、学者・官僚層と摂関家との間の権力構造の変化を象徴しています。

(出典:『国史大辞典 第12巻』阿衡の紛議項)

子・藤原時平らへの継承

基経の死後は、長男・藤原時平らがその権力を引き継ぎ、藤原氏の摂関体制はさらに拡大・発展していきます。基経が築いた政治体制と家格は、平安時代の藤原北家の繁栄の原動力となりました。

(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原基経項)

歴史に刻まれた藤原基経 – 摂関政治の礎を築いた平安の権力者

日本で実質的に最初の関白となった藤原基経は、阿衡事件を経てその地位と権威を歴史上初めて「不動のもの」とし、後世に大きな影響を及ぼしました。彼が切り拓いた摂関政治の枠組みは、藤原氏の繁栄と日本古代国家の変質を象徴しています。

歴史的インパクト – 関白制度の創始と摂関政治体制の確立

関白制度の創始: 基経は、天皇が成人した後も政務を後見する「関白」という役職を初めて制度化し、以降の日本政治に決定的な影響を与えました。

摂関政治の体制確立: 良房が築いた摂政制の基礎を受け継ぎつつ、天皇の擁立・廃位・阿衡事件を通して、藤原氏が恒常的に政権を主導する体制を「実質的に確立」させたと評価できます。これにより、平安時代中期以降の藤原氏全盛の道筋が確立されました。

(出典:『国史大辞典』藤原基経項、『阿衡の紛議』項)

藤原基経の評価 – 優れた政治家か、傲慢な権力者か

藤原基経は、養父・良房の政治手法を発展させ、安定した政権運営を成し遂げた人物として評価されます。また、好学な側面を持ち、『文徳実録』の編纂や日本紀講書への参加など、文化的貢献も大きかったことが知られます。一方で、阿衡事件に見られるような強引な権力行使や、摂関家の利益を最優先する姿勢には批判的評価もあり、その実像には賛否両論が残ります

(出典:『国史大辞典』藤原基経項、『日本大百科全書』藤原基経項)

阿衡事件の再評価 – 基経の真意はどこにあったのか?

阿衡事件は、単なる権力誇示ではなく、「関白」という新しい役職の実質的権限を明確にするための政治行動であったとも考えられます。基経は自らの地位と摂関家の権威を守るため、慎重かつ大胆な行動を選択したとも言えるでしょう。なお、阿衡事件の解釈については、基経の権力誇示が主眼とする説や、関白職の職掌明確化が目的だったとする説など、研究者により見解が分かれています。

藤原基経の子孫と藤原北家のさらなる繁栄

基経の死後、長男・藤原時平が朝廷の実権を継ぎ、弟の忠平や、後の藤原道長・頼通へと続くことで、藤原北家の全盛期が築かれました。基経の時代に確立した「摂関政治の枠組み」は、藤原一族の繁栄をさらに推し進める基盤となりました。

(出典:『国史大辞典』藤原基経項、『日本人名大辞典』藤原基経項)

藤原基経ゆかりの地

  • 平安京(現・京都市):基経が活躍した宮廷政治の中心地。平安宮跡は京都御所周辺。
  • 京都市上京区付近:基経は「堀河大臣」と呼ばれており、この付近に邸宅があったと推定されています。
  • 墓所:宇治市木幡(次宇治墓)が有力視されるが、深草山・小野墓所の伝承もあり、詳細は不明。
  • 興福寺(奈良市):藤原氏の氏寺として一族と深い関わりを持つ寺院。現地の史跡を訪ねて藤原北家の栄華を体感できる。

藤原基経に関するよくある質問(Q&A)

藤原基経について、特に多くの人が疑問に思う点をQ&A形式で解説します。

Q
藤原基経は何をした人ですか?
A

藤原基経は、平安時代前期の有力貴族であり、日本で実質的に初めて「関白」の職務に就いた人物です。阿衡事件を経て摂関家の権威を不動のものとし、天皇の廃立や新天皇の擁立にも深く関与して、藤原氏政権(摂関政治)の体制を確立しました。(出典:『国史大辞典』藤原基経項)

Q
阿衡事件はなぜ起こったのですか?
A

宇多天皇が基経を関白に任命する際、勅書(天皇の命令書)で「阿衡(あこう)」という名誉職を使ったため、基経は「阿衡には具体的な権限がない」と抗議し、出仕を停止(政務ボイコット)しました。最終的に勅書が訂正され、関白の職掌が明確になったことで、関白の地位が確立されました。(出典:『国史大辞典』阿衡の紛議項)

Q
藤原良房と基経の関係は?
A

藤原良房は基経の叔父であり、実子に恵まれなかったため甥の基経を養子に迎えました。基経は良房から藤原北家の後継者・氏長者として育てられ、その権力と政治基盤を引き継いで発展させました。(出典:『国史大辞典』藤原基経項)

Q
藤原基経は誰の関白ですか?
A

藤原基経は、光孝天皇・宇多天皇のもとで実質的・公式に「関白」として政務を主導した人物です。宇多天皇の即位時に、初めて「関白」の語が勅書に登場しました。(出典:『国史大辞典』藤原基経項)

Q
藤原基経の養子は誰ですか?
A

提供された文献には基経の養子に関する記載は見当たりません。後継者としては実子の藤原時平が知られています。(出典:『国史大辞典』藤原基経項)

Q
藤原基経の女とは誰ですか?
A

藤原基経の娘として有名なのは藤原温子(おんし)です。彼女は宇多天皇の女御として入内し、両者の和解の象徴となりました。なお、後の醍醐天皇の母は、藤原高藤の娘である藤原胤子(いんし/たねこ)です。(出典:『国史大辞典』藤原基経項・藤原温子項)

参考文献

  • 『国史大辞典』、国史大辞典編集委員会 編、吉川弘文館、1979-1997年(全15巻)
  • 『世界大百科事典 第2版』、平凡社、2005年
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』、小学館、1984-1994年
  • 『日本人名大辞典』、講談社、2001年

私は普段、IT企業でエンジニアとして働いており、大学では化学を専攻していました。

歴史に深く興味を持つようになったきっかけは、NHK大河ドラマ『真田丸』でした。戦国の武将たちの信念や葛藤、時代のうねりに惹かれ、それ以来、特に戦国時代を中心に歴史の世界を探求しています。

理系出身ということもあり、気になるテーマに出会うと、書籍・論文・学術系ウェブサイトなどを徹底的に調べてしまう癖があります。最近では『戦国人名辞典』(吉川弘文館)などを読み込み、また縁の地も訪問しながら理解を深めています。

記事を執筆する際は、Wikipediaなどの便利な情報源も参考にはしますが、できる限り信頼性の高い文献や公的機関の資料を優先し、複数の情報を照合するように努めています。また、諸説ある場合はその旨も明記し、読者に判断を委ねる姿勢を大切にしています。

本業のエンジニアとして培ってきた「情報の構造化」や「素早いインプット」のスキルを活かして、複雑な歴史的出来事も整理して伝えることを心がけています。初心者ならではの視点で、「かつての自分と同じように、歴史に興味を持ち始めた方」の一助となる記事を目指しています。

まだまだ歴史学の専門家ではありませんが、誠実に歴史と向き合いながら、自分の言葉で丁寧にまとめていきたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。

平安日本史
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