奈良時代後期、朝廷では従兄弟である藤原仲麻呂や、僧でありながら太政大臣禅師、さらに法王という前例のない地位に就いて絶大な権力を握った道鏡らが激しい政争を繰り広げていました。そうした中、かつて藤原四子の死によって一時的に後退した藤原氏北家にあって、その中心人物へと成長し、巧みな政治手腕で一族の再興を決定づけたのが藤原永手(ふじわらのながて)です。光仁天皇の擁立という皇統の大転換を主導した永手の軌跡を、確かな史料に基づいて解説します。
藤原永手とは? – 奈良時代末期、藤原氏の危機を救った辣腕政治家
まず藤原永手の人物像とその生涯の基礎を紹介します。藤原氏の中でも藤原北家を再興したキーパーソンであり、「長岡大臣」とも呼ばれました。激動の奈良時代後期に、北家の中心となった彼の経歴を、『国史大辞典』をはじめとする信頼性の高い文献に基づきまとめます。
基本情報 – 藤原北家の祖・房前の次男
項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 藤原 永手(ふじわら の ながて) |
別称 | 長岡大臣 |
生没年 | 和銅7年(714年) – 宝亀2年2月22日(771年3月16日) |
出自 | 藤原北家の祖・藤原房前の次男。母は牟漏女王。 |
兄弟 | 兄:鳥養、弟:藤原真楯(八束)、藤原魚名(御楯)など |
主な役職 | 大納言、右大臣、左大臣、死後に太政大臣を追贈 |
位階 | 正一位(770年、光仁天皇擁立の功により) |
主要な出来事 | 藤原仲麻呂の乱(764年)鎮圧への貢献、道鏡政権下での藤原氏代表、光仁天皇擁立(770年) |
関連人物 | 藤原房前(父)、藤原仲麻呂(従兄弟/政敵)、孝謙/称徳天皇、淳仁天皇、道鏡、和気清麻呂、光仁天皇、藤原百川、藤原良継 |
墓所 | 京都府京田辺市・大住(おおすみ)周辺と伝わるが不詳 |
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『世界大百科事典』藤原永手項、『日本人名大辞典』藤原永手項、『日本大百科全書』藤原永手項)
藤原永手は何をした人か? – 主な業績ダイジェスト
- 藤原四子亡き後の橘諸兄・藤原仲麻呂政権下で着実に昇進を重ね、やがて藤原北家の中心人物へと成長した。
- 764年の藤原仲麻呂の乱では、いち早く孝謙上皇(後の称徳天皇)側に付き、乱の鎮圧で大きな功績を挙げた。これによって政治的地位を大きく高めた。
- 道鏡が権勢をふるった称徳天皇の治世においても、766年に右大臣、同年10月に左大臣へと昇進し、藤原氏を代表する立場で一族の勢力を維持した。
- 770年、称徳天皇の崩御後は、藤原百川らと協力して天武天皇系から天智天皇系の光仁天皇へ皇統を転換するという、極めて重大な歴史的事業を主導した。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『世界大百科事典』藤原永手項、『日本人名大辞典』藤原永手項)
人となり – 激動の時代を乗り切った現実的な政治家
藤原永手の人物像は、その経歴から、時勢を冷静に読み、現実的な判断を下す政治家であったと考えられています。たとえば、藤原仲麻呂や道鏡といった強大な権力者に対しては、正面からの対立を避け、巧みに立ち回ることで自らの政治的地位と一族の勢力を維持したと考えられています。とくに光仁天皇擁立で示した大胆な決断力と行動力は、北家再興の原動力となりました。また「長岡大臣」とも呼ばれ、その存在感は朝廷内でも際立っていたとされています。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『世界大百科事典』藤原永手項、『日本人名大辞典』藤原永手項、『日本大百科全書』藤原永手項)
藤原永手の歩みを知る年表
藤原氏が大きな危機に直面した奈良時代後期、藤原永手は巧みに政変を乗り越え、最終的に左大臣・正一位にまで昇り詰めました。その波乱に満ちた生涯を年表で振り返ります。
年代(西暦) | 出来事・永手の動向 |
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714年(和銅7年) | 藤原房前の次男として生まれる。 |
737年(天平9年) | 従五位下に叙せられる。同年、父・房前ら藤原四子が天然痘で相次いで死去。藤原氏の勢力が一時後退し、橘諸兄政権が成立。 |
754年(天平勝宝6年) | 従三位に叙せられる。 |
756年(天平勝宝8年) | 参議を経ずして権中納言に任じられる。 |
757年(天平宝字元年) | 中納言に任じられる。 |
764年(天平宝字8年) | 藤原仲麻呂の乱勃発。永手は孝謙上皇側に付き、乱の鎮圧に大きく貢献。乱後、大納言に昇進。 |
766年(天平神護2年) | 称徳天皇(孝謙上皇の重祚)のもとで、道鏡が権勢を振るう。永手は右大臣、ついで左大臣に昇進。 |
769年(神護景雲3年) | 宇佐八幡宮神託事件。道鏡の皇位継承問題が起こるが、和気清麻呂らの活躍により阻止される。永手の具体的な対応は史料上明確ではないが、その後の行動から道鏡の即位には反対の立場であったとみられている。 |
770年(宝亀元年) | 称徳天皇崩御。藤原百川らと協力し光仁天皇を擁立。その功績により正一位に叙せられる。 |
771年(宝亀2年2月22日) | 左大臣正一位のまま死去。天皇は死を深く悼み、宣命(せんみょう)を発してその功績を称え、太政大臣の位を追贈した。 |
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『世界大百科事典』藤原永手項、『日本人名大辞典』藤原永手項、『日本大百科全書』藤原永手項)
藤原氏の危機と藤原永手の台頭 – 四子亡き後の政界
藤原永手の政治家としての出発点は、父・房前や叔父たち「藤原四子」が相次いで世を去った、藤原氏最大の危機の時代でした。その後、北家の中心として再び政界で頭角を現していきます。
父・房前ら四兄弟の死と、橘諸兄政権の成立
天平9年(737年)、天然痘の大流行により藤原四子が相次いで死去しました。これにより、藤原氏は一時的に政権中枢から遠ざかり、橘諸兄が朝廷の実権を握る時代となります。永手は官僚として着実に昇進を重ねながらも、北家の再興を目指し続けました。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『日本人名大辞典』藤原永手項)
従兄弟・藤原仲麻呂の台頭と永手の立場
その後、光明皇太后の信任を得た藤原仲麻呂(恵美押勝)が南家の代表として急速に権勢を拡大しました。仲麻呂政権下で、永手も北家の立場を保ちつつ要職を歴任し、慎重に勢力を蓄えていきました。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『世界大百科事典』藤原永手項)
藤原仲麻呂の乱(764年) – 激動の政変を乗り切った藤原永手
奈良時代後期最大の政変である「藤原仲麻呂の乱」。この内乱で藤原永手は冷静に情勢を見極め、勝利者側に立つことで、自己の政治的地位を確立しました。
事件の背景 – 藤原仲麻呂と孝謙上皇の対立激化
藤原仲麻呂は淳仁天皇を支持し、対立する孝謙上皇(後の称徳天皇)は僧・道鏡と共に権勢を強めていました。両者の権力闘争が激化し、最終的に仲麻呂の乱が勃発することになります。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『世界大百科事典』藤原永手項)
永手の決断 – なぜ従兄弟・仲麻呂を見限り、上皇側に付いたのか?
乱が発生すると、永手はいち早く孝謙上皇側に与し、その鎮圧に大きく貢献しました。これは時勢を見極めた現実的な政治判断とされており、永手の冷静な観察力と判断力を示すものです。世界大百科事典によれば、永手は「恵美押勝の乱中から称徳女帝の治世にかけて」順調に昇進しており、この政治判断が後の栄達につながったことが分かります。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『日本人名大辞典』藤原永手項、『世界大百科事典』藤原永手項)
乱の鎮圧と、政界における地位の確立
仲麻呂の敗死後、永手は論功行賞で大納言に昇進し、朝廷の中心的存在となります。ここから北家は再び台頭を始め、永手の時代が始まったといえるでしょう。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『世界大百科事典』藤原永手項)
道鏡政権と藤原永手 – 権力の中枢での巧みな立ち回り
藤原仲麻呂の乱が終結した後、朝廷では称徳天皇(孝謙天皇が再び即位)と、その寵愛を受けた僧侶道鏡が異例の権力を振るいました。仏教勢力が政権の中心に立つという事態は、藤原氏にとって新たな試練でもありました。
この難局で、藤原永手はいかにして一族を守り、権力構造を生き抜いたのでしょうか。
称徳天皇と道鏡による異例の政治体制
称徳天皇は一度退位したのち重祚し、再び朝廷の実権を握ります。その最大の支えが僧・道鏡でした。天皇の絶大な信任を背景に道鏡は急速に昇進し、やがて太政大臣禅師となり、さらに日本史上唯一となる「法王」という立場に就きます。これは天皇と僧侶が一体化した権力構造であり、古代日本でも他に例のない体制でした。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『世界大百科事典』藤原永手項、『日本人名大辞典』藤原永手項)
左大臣としての永手 – 藤原氏の砦
この時期、藤原永手は右大臣から左大臣に昇進し、藤原氏の代表格として朝廷での存在感を大きくします。永手は道鏡と正面から衝突することなく、必要な場面で藤原氏の利益を守るために動きました。この「一定の距離感を保ちつつ冷静に立ち回る現実主義的手腕」こそが、彼の最大の特徴です。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『世界大百科事典』藤原永手項、『日本人名大辞典』藤原永手項)
宇佐八幡宮神託事件 – 道鏡の野望を阻止
神護景雲3年(769年)、道鏡を天皇にしようとする動きが強まります。朝廷は「宇佐八幡宮の神託」を利用して道鏡の皇位継承を正当化しようとしましたが、和気清麻呂が持ち帰った神託は「道鏡の即位は不可」というものでした。
永手の具体的な関与は史料上明確ではありませんが、その後の人事や朝廷内での立場から見て、道鏡の即位に反対する姿勢を貫いたとみられています。この事件をきっかけに、藤原氏の地位は再び強化されていきました。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『世界大百科事典』藤原永手項、『日本人名大辞典』藤原永手項)
歴史的な皇統転換 – 光仁天皇の擁立劇
称徳天皇の崩御は、日本の皇統にとって決定的な転機となりました。天武天皇系が断絶の危機に瀕した中で、朝廷内では後継をめぐり緊張が高まります。この国家的危機において、藤原永手は歴史を動かす大きな決断を下します。
称徳天皇崩御と後継者不在の危機
称徳天皇には実子がなく、天武天皇系の有力皇族も相次いで没していました。朝廷では「誰を天皇とするか」を巡って、藤原氏や他の有力貴族が水面下で調整を続けます。このとき、永手は「血筋」「政権の安定」「藤原氏の権力維持」の観点から、天智天皇系への皇統転換を強く主導しました。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『世界大百科事典』藤原永手項、『日本人名大辞典』藤原永手項)
永手の主導による光仁天皇の擁立
永手は藤原式家の百川・良継らと連携し、天智天皇の孫である白壁王(後の光仁天皇)を新天皇として推挙します。これにより、天武系から天智系への歴史的な皇統交代が実現しました。この功績によって永手は正一位に叙せられ、皇位継承の立役者として大きな評価を得ます。
なぜ永手が光仁天皇を選んだのか。その背景には、天智系への転換が藤原北家の基盤を強化し、藤原氏の安定支配につながるという、極めて現実的な判断があったと考えられます。この一連の動きは、日本史の流れを決定づけるほど大きなインパクトを持ちました。
永手が確立した北家の政治的基盤は、後に同じ北家の藤原真楯(ふじわらのまたて)の孫である藤原冬嗣(ふゆつぐ)へと受け継がれ、最終的に摂関家として開花することになります。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『世界大百科事典』藤原永手項、『日本人名大辞典』藤原永手項)
藤原永手の関連人物とのつながり
藤原永手の生涯は、一門の結束や、天皇・政敵との複雑な人間関係の中で展開されました。
父・藤原房前と兄弟たち – 藤原北家再興への道
父の藤原房前や、同じ北家の真楯・魚名らとともに、永手は北家の再興に尽力しました。藤原四子の死による北家の危機も、永手の政治的手腕によって徐々に克服され、北家は再び朝廷で存在感を高めていきます。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『日本人名大辞典』藤原永手項)
従兄弟であり政敵 – 藤原仲麻呂(恵美押勝)
南家の代表藤原仲麻呂は、永手にとって従兄弟でありながら最大の権力ライバルでした。仲麻呂政権下では慎重に勢力を温存し、藤原仲麻呂の乱では冷静に勝者側についたことで、出世と北家再興を果たします。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『世界大百科事典』藤原永手項)
天皇たち(孝謙/称徳、淳仁、光仁)との関係
永手は孝謙/称徳天皇のもとで左大臣として重用されましたが、淳仁天皇や自ら擁立した光仁天皇とも、藤原氏の安定と朝廷の秩序維持を意識して行動しました。どの天皇とも一定の距離感を保ちつつ信任を得るバランス感覚が、永手の現実主義的な政治家像を強く印象づけています。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『世界大百科事典』藤原永手項)
道鏡との対峙と協調
強大な僧・道鏡に対しても、永手は正面からの対立を避け、状況を見極めて巧みにバランスを取りつつ生き残りました。最終的には道鏡の野望を阻止し、藤原氏の地位と朝廷の秩序を守った功績はきわめて大きなものと評価されます。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『世界大百科事典』藤原永手項、『日本人名大辞典』藤原永手項)
歴史に刻まれた藤原永手 – 北家再興と新皇統を導いた政治家
藤原仲麻呂、道鏡という二人の巨大な権力者と渡り合い、時勢を見極めた巧みな政治手腕で藤原北家の再興と新たな皇統の樹立を成し遂げた藤原永手。その功績と歴史的意義を改めて振り返ります。
歴史的インパクト – 藤原北家の再興と天智系皇統の確立
藤原仲麻呂の乱による南家の失脚後、永手は北家一族とともに藤原北家を再び朝廷の中心へと押し上げました。永手の手腕があったからこそ、北家は後に摂関家へと発展する礎を築くことができました。また、光仁天皇の擁立という皇統の転換を主導した意義は極めて大きく、その後の桓武天皇による平安京遷都や、平安時代の幕開けにつながる重要な分岐点となりました。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『世界大百科事典』藤原永手項)
藤原永手の評価 – 激動期を乗り切った卓越した政治感覚
藤原永手は、危機的状況でも冷静な判断と時流を見極める力で、常に勝利者側についた人物です。藤原氏全体の利益を守りつつ北家の地位を着実に高める戦略性や、激しい政変の中でも無理な対立に走らず、柔軟な姿勢で現実的な成果を収めた点は、永手の真骨頂といえるでしょう。こうしたバランス感覚が、後の北家の繁栄につながっていきます。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『日本大百科全書』藤原永手項)
なぜ永手は権力闘争を勝ち抜けたのか?
永手は、仲麻呂や道鏡といった強力なライバルと正面から対立するのではなく、状況に応じて協調や牽制を巧みに使い分け、時機を待つという現実的な政治手法を徹底しました。柔軟で慎重な立ち回りが、奈良時代末期の覇者となる最大の理由です。北家再興も新皇統の成立も、永手の状況判断力と組織力の賜物だったといえます。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項)
藤原永手の子孫と、その後の北家の繁栄
永手の子である家依(いえより)は参議まで昇進しましたが、永手の直系は後の摂関家の主流とはなりませんでした。しかし、永手が盤石にした北家の基盤は一族に受け継がれ、特に同じ北家の藤原真楯(ふじわらのまたて)の孫である藤原冬嗣(ふゆつぐ)の代に、北家大発展の基礎が固められます。そして冬嗣の子孫から、最初の摂政・関白となった良房(よしふさ)・基経(もとつね)らが輩出され、北家は摂関家として日本史上最大の貴族権力を握るに至りました。永手が築いた北家の基盤は、やがて摂関政治という日本史上最大の貴族権力へと結実していきます。
(出典:『国史大辞典』藤原永手項、『世界大百科事典』藤原永手項)
藤原永手ゆかりの地
藤原永手の生涯を感じるゆかりの場所は、現代でも実際に訪れることができます。
- 永手の墓所(京都府京田辺市・大住) 永手の墓と伝わる地。静かな住宅街の一角にあり、北家の歴史を今に伝えています。
- 平城宮跡(奈良市) 奈良時代の朝廷中枢であり、永手が実際に活動した場所。広大な史跡公園として整備され、当時の都の雰囲気を体感できます。
- 興福寺(奈良市) 藤原氏の氏寺であり、北家ともゆかりの深い古刹。壮大な伽藍や貴重な仏像が残り、北家の信仰や文化を感じられます。
これらの地を巡れば、藤原永手が生きた奈良時代末期の政治・文化や、藤原北家の繁栄の歴史を肌で感じることができます。
参考文献
- 『国史大辞典』、国史大辞典編集委員会 編、吉川弘文館、1979-1997年(全15巻)
- 『世界大百科事典 第2版』、平凡社、2005年
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』、小学館、1984-1994年
- 『日本人名大辞典』、講談社、2001年