
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、奈良時代に遣唐使の一員として唐に渡り、現地で高位の官職に就いた日本人です。
唐では「朝衡(ちょうこう)」の名で呼ばれ、『旧唐書』や『新唐書』にもその名が記される稀有な存在です。
彼の生涯は、日本と唐の文化交流の象徴として、現代にも強く印象を残しています。
阿倍仲麻呂の基本情報
項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)/唐名:朝衡(ちょうこう) |
生没年 | 698年頃 – 770年頃(没年は史料により差異あり) |
出身 | 大和国(現・奈良県) |
官位 | 左散騎常侍、安南都護(※就任には異説あり)(『新唐書』など) |
主な役職 | 唐の官僚、日本と唐の文化的架け橋 |
関連人物 | 藤原清河、吉備真備、李白、王維 |
文学記録 | 『古今和歌集』『小倉百人一首』に和歌が収録 |
出自と官位 ― 遣唐使としての背景と登用
阿倍仲麻呂は、阿倍船守の子として大和国に生まれました。
717年(養老元年)、第9次遣唐使に留学生として随行。唐では科挙に合格したという説もありますが、試験に合格せずともその才能を評価され登用されたともいわれています。
彼は左拾遺・左補闕・衛尉少卿などを経て、左散騎常侍、さらには安南都護に任命されたとされます(いずれも『旧唐書』『新唐書』に記録あり)。
唐で築いた家庭と子孫の行方
仲麻呂の家族に関する具体的記録は乏しいものの、唐で現地女性と婚姻し、子をもうけたとの伝承が残っています。
ただし、その子孫についての正確な系譜は確認されておらず、歴史の中に埋もれてしまっています。
詩人としての素顔と百人一首への影響
阿倍仲麻呂は、李白・王維ら唐の詩人とも親交を結び、教養深い文化人でもありました。
彼の望郷の和歌「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」は、『古今和歌集』に加えて『小倉百人一首』にも収録されています。
この和歌は、帰国を試みた際に詠んだとされますが、実際には後世の創作という説が有力です。
阿倍仲麻呂の歩みと遣唐使の時代背景
年代 | 出来事 |
---|---|
698年頃 | 大和国に誕生 |
717年 | 第9次遣唐使に随行し唐へ留学 |
725年頃 | 官吏として登用される(左拾遺など) |
753年 | 藤原清河と共に帰国を試みるも遭難 |
755年 | 安禄山の乱が勃発、長安に再赴任 |
760年頃 | 左散騎常侍・安南都護に任じられる(説あり) |
770年頃 | 唐にて客死(没年諸説あり) |
阿倍仲麻呂唐での異例の官職と文化的偉業
阿倍仲麻呂は、日本人として異例の立場で唐の官僚制度に組み込まれました。
以下のような重要な官職に任命されたことが記録されています。
官職名 | 説明 | 備考 |
---|---|---|
左拾遺 | 皇帝の側近として上奏文などを取り扱う文官 | 初期の登用 |
左補闕 | 左拾遺と並ぶ文館の侍従職 | 官吏としての序列が上がる |
衛尉少卿 | 宮中の護衛を司る部署の次官 | 貴族身分の象徴的な官位 |
秘書監 | 書籍・史料の編纂・管理を担う官庁の長官 | 詩文の才能が反映された役職 |
左散騎常侍 | 皇帝の諮問に応じる高級顧問官 | 外国人としては非常に栄誉ある地位 |
安南都護 | 安南(現ベトナム)方面の軍政長官 | 実際の任官には異説あり |
関連人物とのつながり
- 藤原清河:帰国の途上で同行、遭難後別行動。
- 吉備真備:同時代に遣唐使として渡唐し、共に唐の制度を学んだ。
- 李白・王維:詩人仲間として親交があったとされ、文化人としての側面を支えた。
阿倍仲麻呂が歴史上に成し遂げた偉業たち
唐の官僚としての異例の登用
日本人でありながら唐の政界に深く関与した人物として、仲麻呂はきわめて稀有な存在です。
外国人でありながら複数の高位に就任した背景には、政治的柔軟性と詩文への深い造詣があったとされます。
奈良と唐 ― 遣唐使と国際文化交流の要
奈良時代の日本は律令制度を整備する中で、中国・唐の文化を積極的に取り入れていました。
唐では玄宗皇帝の治世から安禄山の乱という激動の時代へと移行しており、仲麻呂のような「国際人材」は両国の架け橋として大きな役割を果たしました。
詩と和歌を通じた文化的貢献
仲麻呂の和歌は、彼が深く学んだ唐詩の教養と、日本の伝統的な歌(和歌)の心が結びついたものとして評価でき、特に望郷という普遍的なテーマを大和言葉で詠んだ点が、後の世代にも感銘を与えました。これは、国際的な知識人が自国の文化と異文化を繋いだ一例とも言えるでしょう。
阿倍仲麻呂が帰国できなかった理由
753年、藤原清河と共に帰国を試みた阿倍仲麻呂は、暴風に遭って船が遭難。漂着先から再び唐へ戻ることになりました。
さらに、その後の安禄山の乱(755年)や政変の影響なども重なり、帰国の機会を得ることはありませんでした。
これが、仲麻呂が帰国できなかった最大の理由とされています。
和百人一首に選ばれた阿倍仲麻呂の望郷の和歌の解釈
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
この和歌は、仲麻呂が唐から望んだ故郷・奈良の景色と、自身の記憶・感情とが融合した名作です。
- 「天の原」:大空、遠い空の意味。異国から見上げた空に故郷を重ねる。
- 「春日なる三笠の山」:故郷・奈良にある山。望郷の象徴。
- 「出でし月かも」:故郷で見た月と、今ここにある月が繋がっているという思い。
この和歌は、百人一首にも選ばれ、望郷の念とともに「帰国できなかった者の美学」を表す名歌として語り継がれています。
歴史に刻まれた阿倍仲麻呂の生涯
阿倍仲麻呂の生涯は、国際交流の重要性と難しさ、そして個人の信念と教養がいかに国家を超えた価値を生み出すかを示しています。
詩人であり、官僚であり、国を超えて生きた一人の人物として、彼の存在は現代においても大きな示唆を与えてくれます。
📚 参考文献
【一次史料】
- 『続日本紀』巻第十三(天平五年遣唐使派遣に関する記録)
※出典:『新日本古典文学大系 続日本紀(一)』岩波書店、1989年 - 『旧唐書』巻一百九十九下・列伝第一百四十九下「東夷列伝・日本国条(朝衡伝)」
※出典:中国二十四史本(中華書局版) - 『新唐書』巻二百二十・列伝第一百四十五「東夷列伝・日本伝(朝衡伝)」
※出典:中国二十四史本(中華書局版) - 『古今和歌集』巻第九・羇旅歌406番歌(天の原 ふりさけ見れば〜)
※阿倍仲麻呂の望郷の和歌、最初の出典 - 『小倉百人一首』第七番歌(撰者:藤原定家)
※『天の原〜』が収録される和歌集として引用