関ヶ原で義を貫いた男──田丸直昌、忠義に殉じた戦国大名

義を貫いた武士がいた──。

田丸直昌(たまる なおまさ)は、戦国から江戸初期にかけて激動の時代を生き抜いた一人の大名です。北畠氏の家臣として伊勢で生まれ、やがて織田・豊臣に仕えて陸奥や信濃を転戦。そして最後は関ヶ原で西軍に与し、改易の末に越後へと流されました。

派手な合戦武将ではないものの、その「忠義」の姿勢は多くの逸話を生み、今なお戦国ファンの心を打ち続けています。本稿では、伊勢田丸城から東北、越後へと続いた直昌の足跡をたどりながら、その人物像と歴史的意義に迫ります。

田丸直昌の基本情報

項目内容
名前田丸 直昌(たまる なおまさ)
時代戦国時代 – 江戸時代初期の武将・大名
生誕天文12年(1543年)(伊勢国田丸城)
死没慶長14年3月7日〈1609年4月11日〉(越後国高田藩領)
主君北畠具房 → 織田信雄 → 豊臣秀吉 → 豊臣秀頼
田丸具忠(たまる ともただ)
正室蒲生賢秀の娘(蒲生氏郷の妹)
田丸直茂(嫡男) 他
氏族田丸氏(北畠氏庶流)
官位正五位上・中務大輔
墓所新潟県上越市寺町 太岩寺

出自と官位

田丸氏は北畠政郷の四男・田丸顕晴を祖とする北畠庶流の家系で、伊勢国度会郡の田丸城に拠点を構えていました。直昌はその家の嫡子として生まれ、北畠具房に仕えて伊勢の情勢に深く関与するようになります。後に織田信雄に仕えたのち、豊臣政権のもとで正五位上・中務大輔の官位を授けられました。

田丸氏は北畠政郷の四男・田丸顕晴を祖とする北畠庶流の家系で、伊勢度会郡に根を張った豪族です。直昌はその家の嫡子として田丸城に生まれ、北畠具房の重臣として仕官し、のちに織田信長の子・信雄に仕えることになります。

家族と子女

父は田丸具忠で、正室は蒲生賢秀の娘、すなわち蒲生氏郷の妹でした。この縁により蒲生家との関係を深め、与力として仕えるきっかけにもなりました。嫡男・田丸直茂は徳川政権下で赦免され、加賀前田家に仕官。後に水戸藩に仕えた子孫もいたとされます。

父は田丸具忠。正室は蒲生賢秀の娘(蒲生氏郷の妹)で、嫡男・田丸直茂は加賀前田家に仕官、子孫は水戸藩士としても続きました。

田丸直昌の人となり

直昌は忠義と義理を重んじた人物として伝えられています。小山評定で豊臣家への恩義を理由に徳川家康への従属を拒んだという逸話は有名ですが、創作の可能性も指摘されています。それでも、その逸話に象徴されるような「筋を通す武士」というイメージは、後世の評価に強く影響を与えています。

義理堅く忠誠心の強い人物とされ、小山評定において「豊臣家への恩義」を理由に徳川家康への従属を拒んだという逸話が残ります。これは後世の創作ともいわれますが、忠臣としての人物像を象徴しています。

田丸直昌の歩みを知る年表

年代出来事
1543年伊勢国田丸城にて誕生
1574年長島一向一揆攻撃に参加(織田信雄配下)
1576年北畠重臣を粛清(三瀬の変)に関与
1584年小牧・長久手の戦い(蒲生氏郷与力)
1590年小田原征伐に従軍、武功を挙げる
1592年頃陸奥須賀川城主に任じられ、その後三春城に加増
1596年海津城主(信濃)となる、豊臣姓を賜る
1600年関ヶ原の戦いにて西軍に与し、敗北後改易・配流
1609年越後にて病没

田丸直昌の歴史

出自と北畠家臣時代

田丸直昌は天文12年(1543年)、伊勢国の国司・北畠家の一門である田丸具忠の子として生まれました。田丸氏は北畠政郷(まささと)の四男・田丸顕晴(あきはる)を祖とする一族で、顕晴が伊勢国度会郡の田丸城(現在の三重県玉城町)に入り田丸氏を名乗ったことに始まります。田丸城は北畠家の支城として機能し、直昌も幼少より北畠具房(ともふさ)に仕える家臣団の一人でした。

しかし永禄・元亀年間、織田信長が伊勢侵攻を進める中で北畠氏は織田氏に服属する道を選びます。天正2年(1574年)に織田軍が長島一向一揆を攻略した際、直昌は織田信雄(信長次男)配下の将として水軍を率い参戦しました。さらに天正4年(1576年)には、織田信雄が形式上継いだ北畠家で内紛が起こります。直昌は信雄の命を受け、長野具藤・北畠親成ら北畠一族の重臣を田丸城に招き寄せて謀殺するという過酷な粛清(三瀬の変)に関与しました。これによって北畠家は実質的に滅び、伊勢国における織田信雄の支配が確立します。

織田信雄・豊臣秀吉家臣時代(小牧・長久手、九州・小田原など)

その後も直昌は伊勢国司となった織田信雄に重臣として仕え、北畠旧臣の取りまとめに尽力しました。しかし天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が倒れ、やがて信雄と羽柴(豊臣)秀吉が対立を始めると、直昌は密かに秀吉方へ接近します。鍵となったのは直昌の正室が蒲生氏郷の妹(蒲生賢秀の娘)であったことです。伊勢国は氏郷の所領である近江国にも近く、蒲生家とは旧来より姻戚関係を通じた交流がありました。その縁もあって直昌は密かに秀吉に接近し、小牧・長久手の戦い(1584年)以降は蒲生氏郷の与力武将として行動したとされています。以後、直昌は事実上豊臣政権側に属し、天正15年(1587年)の九州征伐には参加を見送ったものの(※眼病のためともいわれます)、天正18年(1590年)の小田原征伐では氏郷隊の一員として参陣し、北条方の韮山城攻めで武功を挙げました。これら一連の戦役を経て、直昌は秀吉から武功を認められ、大名の一人として所領を安堵されることになります。

蒲生氏郷の与力となり陸奥へ(岩出山城など)

天正18年の小田原戦後、豊臣秀吉は奥州仕置を行い、直昌の義兄にあたる蒲生氏郷を会津42万石に大幅加増移封しました。直昌も氏郷の与力大名として旧北畠領から陸奥国へ転じ、まず須賀川城3万石の城主に任じられました。同じく氏郷の妹婿で与力大名の関一政と共に、奥州会津への蒲生転封に同行した直昌は、奥州仕置後に発生した葛西大崎一揆の鎮圧など氏郷の北辺経営を支える柱となりました。その功績もあってか文禄元年(1592年)までに所領を5万2千石に加増され、陸奥三春城主へと移されています。一方、同じ奥州仕置で伊達政宗は岩出山城(現宮城県大崎市)を与えられており、直昌は氏郷・政宗らと共に東北地方の統治再編に関わった形となりました。

文禄4年(1595年)に蒲生氏郷が急逝すると、嫡子の蒲生秀行が会津を継ぎます。直昌も引き続き秀行に仕えましたが、秀行が慶長元年(1596年)に会津から下野宇都宮へ減転封となると、直昌はこれに同行せず豊臣政権直属の大名に組み込まれました。同年12月13日、直昌は豊臣姓を下賜されて昇殿を許されるという栄誉に浴し、翌慶長2年(1597年)には信濃国川中島の海津城4万石(現在の長野県長野市松代町)に封じられています。このように直昌は氏郷亡き後も豊臣大名の一人として厚遇され、徳川氏と対立する石田三成とも親しい関係にあったとされます。

関ヶ原の戦いにおける動向と改易

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原合戦が勃発する直前、徳川家康は上方に影響力を持つ大名を自陣営に引き込むため各地で調略を進めました。家康は同年2月、直昌に対して美濃国岩村城4万石への国替を命じます(海津城には代わりに森忠政が入封)。直昌は突如与えられた美濃東部の領地統治に着手し、可児郡の永保寺に寺領安堵の朱印状を発給するなど統治実績を残しました。しかし徳川家康が会津征伐へ向かう途上で開いた小山評定において、直昌は他の諸将と異なり終始豊臣恩顧の立場を崩さず、西軍(石田三成方)に与する意思を示したと伝えられています。実際には直昌は小山評定そのものに参加しておらず、この「空気を読まない発言」逸話は後世の創作とする見解もあります。いずれにせよ直昌は最終的に西軍方に立ち、岩村城には家臣の田丸主水を城代として残し、自らは大坂城で石田三成らと合流しました。

同年9月の関ヶ原本戦で西軍が敗北すると、岩村城の田丸主水は東軍に開城降伏します。開城に際して主水は「敗将とはいえ白昼の退去はあまりに恥、日暮れに城を出たい」と希望し、東軍将に道案内役と退去資金を求めました。東軍方の遠山友政はこれを容れ、黄金50両と道案内を準備したため、主水ら田丸勢は薄暮に岩村城を退去したと伝えられます。主君直昌自身も戦後に捕らえられましたが、家康の命により死一等を免ぜられました。しかし所領は没収(改易)となり、直昌は慶長6年(1601年)に越後国へ配流されました。

改易後と最期

越後に流された田丸直昌は、当初は越後春日山城主・堀秀治の預かりの身となりました。その後間もなく出家して仏門に入り、慶長10年(1605年)には越後福島城下(現・新潟県上越市名立区)の小町川畔に自ら発願して太岩寺という寺院を建立しています。この太岩寺建立には、直昌が帰依した名立寺六世・忠山泉恕という僧の影響があったとされます。慶長14年(1609年)、直昌は越後の地で静かに病没しました。享年67。後年、直昌の建立した太岩寺は高田藩主の命で城下(高田城下)に移転され、その境内に直昌の立派な墓碑が今も残されています。

なお、嫡男の田丸直茂は徳川幕府により赦免され、加賀前田家に仕官して母方の蒲生家から改姓し土岐田氏を名乗りました。直茂の系統は代々加賀藩士として存続し、次男の系統は水戸藩に仕えて幕末まで続いたと伝えられます。直昌自身は大名としての地位を失いましたが、その血筋は各地で命脈を保ちました。

田丸直昌の人物像と逸話

田丸直昌は主家への義理堅さを持った人物として知られています。小山評定における直昌の挙動について、『徳川実紀』など後世の軍記物では次のような逸話が語られます。すなわち、小山で諸将が家康支持を表明する中、直昌一人だけが「西軍が勝つ見込みは薄いと存じますが、先代・太閤殿下への御恩義があるゆえ徳川殿に味方はできませぬ」と家康に進言し、潔く自領へ引き下がったというのです。家康はその場で直昌を成敗せず、「あっぱれ義に厚き者」と賞賛して見逃したとされます。このエピソードは敗者である西軍側につきながらも主君豊臣家への忠義を貫いた直昌の人格を描き出すものとして語り継がれてきました。

もっとも、この話は史実というより徳川政権下で生まれた物語と考えられています。実際の直昌の動向は不明な点も多く、前述のとおり小山評定そのものに出席していなかった可能性も指摘されています。いずれにせよ「家康が敵対者をも寛大に遇した」という構図は、徳川家康の人格を際立たせる宣伝(プロパガンダ)として機能した側面があり、直昌の逸話もその一つといえるでしょう。忠節を尽くしたがゆえに改易に追い込まれた田丸直昌ですが、その義理堅い生き様は物語となって後世に名を残し、戦国ファンの心を今も惹きつけています。

田丸直昌のゆかりの地紹介(田丸城、岩出山城、墓所)

田丸城跡(三重県玉城町) – 田丸直昌の居城であった田丸城は南北朝時代に北畠氏が築いた由緒ある城です。戦国期には北畠家の本拠大河内城を支える支城として機能し、直昌の父・具忠や直昌も在城しました。織田信雄の伊勢入部後は信雄によって近世的な石垣を備えた平山城に改修され、以後稲葉氏・藤堂氏らが城主となりました。明治2年(1869年)に廃城となった現在は石垣や土塁が残る史跡公園として整備され、続日本100名城にも選定されています。

岩出山城跡(宮城県大崎市) – 天正18年の奥州仕置で伊達政宗に与えられた岩出山城は、直昌が蒲生氏郷の与力大名として赴いた陸奥の地にありました。直昌自身の居城は岩出山より南方の須賀川・三春でしたが、岩出山城は会津領主となった蒲生氏郷に服属した伊達政宗が本拠とした城で、同じ奥州仕置による再編の象徴的な存在です。政宗は1591年から1601年まで13年間岩出山に在城し、城下町を整備して東北経営の拠点としました。現在、岩出山城跡は城山公園として整備され、伊達政宗公の騎馬像や御殿跡の碑が置かれるなど、当時を偲ぶ史跡となっています。

太岩寺(新潟県上越市) – 田丸直昌の終焉の地にして菩提寺です。越後に配流された直昌が慶長10年(1605年)に開いた寺で、山号を高陽山と称する曹洞宗の寺院です。元は名立谷(現・上越市名立区)に創建されましたが、後に高田藩主によって城下(現在地)に移転されました。境内には田丸直昌の墓所が残り、地元有志によって供養祭が行われるなど、地域史において直昌の足跡を伝える貴重なゆかりの地となっています。

田丸直昌のまとめ

田丸直昌の生涯は、戦国から江戸初期にかけての激動の時代における武将の栄枯盛衰を物語っています。仕えた主君が次々と移り変わり、勢力図がめまぐるしく再編される中で、直昌は北畠氏の旧臣から織田家臣、豊臣大名へと身分を転じながらも、自らの信義を重んじた武将でした。その義理堅さゆえに関ヶ原の戦い後に改易の憂き目に遭いましたが、一方でその忠誠心が後世には美談として語り継がれています。このことは、武士の「義」とは何かを現代に問いかける教訓ともいえるでしょう。

また、田丸直昌の軌跡は三重県・伊勢地域から東北地方・会津・仙台圏に至るまで広範囲に及びます。田丸城や岩出山城跡など各地のゆかりの史跡は、戦国乱世を生きた直昌の足跡を今に伝える貴重な文化遺産です。そうした史跡を訪ねることで、私たちは歴史の教訓に思いを致し、郷土の先人が果たした役割に改めて敬意を抱くことができます。田丸直昌の生涯から学べるのは、時代の変転に翻弄されつつも信念を貫くことの難しさと大切さです。その姿は戦国時代ファンのみならず、現代を生きる私たちにとっても示唆に富むものといえるでしょう。

参考文献・出典

  • 新潟県寺院名鑑企画編集委員会 編『新潟県寺院名鑑』新潟県寺院名鑑刊行会、1983】
  • 『北畠家記』(『大日本史料』所収、東京大学史料編纂所)
  • 上越市公式観光ガイド「高陽山 太岩寺」
  • 大崎市公式サイト「岩出山城跡」
  • 観光三重(公益財団法人三重県観光開発戦略局)「田丸城跡」

普段はIT企業でエンジニアとして働いています。大学では理系(化学)を専攻していました。

歴史に深く興味を持ったきっかけは、大河ドラマ『真田丸』です。登場人物たちの生き様や物語の面白さにすっかり魅了され、それ以来、特に戦国時代を中心に歴史の世界を探求し始めました。

理系的な気質なのか、一度気になると書籍や論文、信頼できるウェブサイトなどの資料を読み漁って、とことん調べてしまう癖があります。このサイトでは、そうして学んだことや、「なるほど!」と思ったことを、自分なりの解釈も交えつつ、分かりやすくまとめて発信していきたいと考えています。

まだまだ歴史初心者ですので、知識が浅い部分や、もしかしたら誤解している点もあるかもしれません。ですが、できる限り信頼できる情報源にあたり、誠実に歴史と向き合っていきたいと思っています。

同じように歴史に興味を持ち始めた方や、私と同じような疑問を持った方の参考になれば幸いです。どうぞよろしくお願いします。

日本史江戸
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