奈良時代、日本から唐に渡り、異国の宮廷で高官にまで昇進した日本人がいました。彼の名は阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)。唐では晁衡(ちょうこう/朝衡)とも呼ばれ、詩文に優れ、唐朝の皇帝に仕えながら、文化人・国際官僚として異例の成功を遂げた人物です。
一方、祖国日本への帰国を望みながらもその夢は果たせず、異郷の地で生涯を閉じました。彼が残した望郷の和歌は、『古今和歌集』『小倉百人一首』にも収められ、千年を超えて語り継がれています。
本記事では、信頼性の高い百科事典に基づき、阿倍仲麻呂の功績と人物像を分かりやすく紹介します。
阿倍仲麻呂とは?― 唐の朝廷で活躍した国際派エリート
阿倍仲麻呂は奈良時代、国家の命を受けて唐に派遣された遣唐留学生の一人です。渡唐後は唐の太学で学び、官僚として唐朝に仕えました。唐朝では数々の重要な官職を歴任し、儒学や詩文の才能をもって高い評価を受けました。
一方で、帰国の機会を得ながらも暴風によって失敗し、その後も唐に留まり客死します。彼の生涯は、国際的な成功と望郷の念が交差する特異な足跡として、後世に強い印象を残しました。
基本情報(阿倍仲麻呂)
項目 | 内容 |
---|---|
名前(日本) | 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ) ※安倍とも表記 |
唐名・別称 | 晁衡(ちょうこう)/朝衡/仲満(ちゅうまん) |
生年 | 文武天皇2年(698年)または大宝元年(701年) |
没年 | 大暦5年(770年)/宝亀元年。享年70または73 |
出身 | 大和国(現・奈良県)。父は中務大輔・阿倍船守 |
主な官歴(唐) | 左補闕、秘書監、左散騎常侍、安南都護など |
唐朝での称号 | 光禄大夫、右散騎常侍兼御史中丞、北海郡開国公など(『国史大辞典』などによる) |
主な交遊 | 李白、王維、儲光羲、趙驊、包佶など |
和歌 | 「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」 |
(出典:『国史大辞典』阿倍仲麻呂項、『日本大百科全書』阿倍仲麻呂項、『日本人名大辞典』阿倍仲麻呂項、『世界大百科事典』阿倍仲麻呂項)
阿倍仲麻呂の功績と波乱の人生
遣唐留学生として若くして海を渡り、唐の高官として栄達した阿倍仲麻呂。東アジアにおける文化交流の架け橋となった彼の人生は、栄光に満ちた官界での活躍と、幾度もの帰国断念、そして異郷での最期という波乱に富んだ物語でもありました。ここでは、彼の具体的な功績と、その激動の歩みをたどります。
遣唐留学生としての旅立ちと唐での出世
阿倍仲麻呂は霊亀2年(716)、吉備真備らとともに遣唐留学生に任命され、翌霊亀3年・養老元年(717)に渡唐しました。年齢は16歳または19歳とされます。唐の太学で学問を修め、『旧唐書』には「進士に登第」と記されていますが、近年の研究では、科挙ではなく推挙による任官だった可能性も指摘されています。その後、秘書監や左補闕といった要職を歴任しました。
上元年間(760〜762)には、左散騎常侍や安南都護といった高官にも抜擢され、異民族出身者としては異例の栄達を遂げました。その知性と人格は唐朝の知識人層からも高く評価されました。
帰国を夢見たが…果たせなかった願い
天平勝宝5年(753)、仲麻呂は遣唐大使・藤原清河とともに僧鑑真の渡日を要請し、自らも帰国を志しました。しかし、帰途の船が暴風で難破し安南に漂着。やむなく唐に引き返し、その後は生涯を唐土で過ごすことになります。
大暦5年(770)、長安で没。死後、唐朝からは潞州大都督が追贈され、日本ではその功績が称えられ、最終的に正二位が贈られました。
(出典:『国史大辞典』阿倍仲麻呂項、『日本大百科全書』阿倍仲麻呂項、『日本人名大辞典』阿倍仲麻呂項)
阿倍仲麻呂の人物像 ― 唐で認められた才知と望郷の心
阿倍仲麻呂は、唐の正史『旧唐書』において
「倭人にして進士に登第し、文章を以て名を揚ぐ」
と評されています(『旧唐書』列伝第一百四十九下)。これにより、彼が学識と詩才を兼ね備えた人物として唐側から評価されていたことがうかがえます。
彼は李白や王維といった当代一流の詩人と深い交遊を持ち、唐代文壇でも知られた存在でした。
しかしその心には、常に祖国への思慕がありました。彼の代表歌、
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
は、唐を離れた際、あるいは長安での望郷の情を詠んだものとされ、後に『古今和歌集』『小倉百人一首』に収録されました。この一首は、仲麻呂が異郷に生きた日本人として、故郷への想いを託した貴重な文学遺産といえるでしょう。
(出典:『国史大辞典』阿倍仲麻呂項、『日本大百科全書』阿倍仲麻呂項)
阿倍仲麻呂の歩みを知る年表
唐の皇帝に仕え、文化人としても名声を得た阿倍仲麻呂の生涯は、異国での栄達と帰郷の夢に揺れた波乱に満ちた物語です。
奈良時代に遣唐留学生として渡航し、『旧唐書』には進士科に合格したと記されるが推挙説もある中で高官に昇進、さらには鑑真らの渡日交渉にも関わるなど、その活動は国際的でした。唐の詩人たちと交友しながらも、晩年は安史の乱の混乱に巻き込まれ、日本に戻ることなく客死しました。
ここでは、彼の歩みを年表形式でたどりながら、日中の歴史的接点と唐朝での地位を視覚的に整理します。
年代(西暦) | 出来事・仲麻呂の動向 |
---|---|
698〜701年頃 | 大和国に誕生。中務大輔・阿倍船守の子として生まれる。 |
716年(霊亀2年) | 遣唐留学生に任命される。(吉備真備、玄昉らも同時の留学生) |
717年(養老1年) | 唐の都・長安に到着。太学で学業を修め、官人への道を志す。 |
730年代(天平年間) | 唐の官僚となり、司経校書・左拾遺・左補闕などを歴任。(『旧唐書』には進士科に合格したと記されるが、推挙説もある)。この頃、唐名「朝衡」を名乗る。 |
736年(天平8年) | 一度遭難して唐に戻った遣唐判官平群広成が渤海経由で帰国することを、学生仲麻呂が玄宗に奏上して許可された。 |
750年代前半(天平勝宝年間) | 李白・王維・儲光羲ら唐の詩人と親交を結び、文名を高める。 |
753年(天平勝宝5年) | 鑑真に渡日を要請し、自身も藤原清河らと帰国を目指すが、安南(ベトナム)に漂着して帰国失敗。 |
同年 | 明州での送別の宴で詠まれたと伝わる和歌「天の原~」が、『小倉百人一首』にも採られる。 |
755年〜 | 安史の乱の勃発後も唐の朝廷に仕え、粛宗・代宗のもとで秘書監、衛尉卿、左散騎常侍、安南都護などを歴任した。 |
770年(宝亀元年) | 唐の長安で死去(享年70または73)。没後、唐から潞州大都督が追贈され、日本から正二位が贈られた。 |
(出典:『国史大辞典』阿倍仲麻呂項, 『日本大百科全書』阿倍仲麻呂項, 『日本人名大辞典』阿倍仲麻呂項, 『世界大百科事典』阿倍仲麻呂項)
若き日の阿倍仲麻呂 – 遣唐使として目指した大陸
奈良時代、中央集権体制を整えつつあった日本において、阿倍仲麻呂は若くして国家の将来を託された人材の一人でした。当時16歳または19歳で遣唐使の一員に選ばれ、世界屈指の大国・唐へと旅立ちます。
彼が選ばれた背景には、当時の日本が目指していた「律令国家」形成の野望、そして唐の先進的な制度や文化を取り入れようとする強い意志がありました。仲麻呂の留学は、個人的栄達だけでなく、国家的事業の一環でもあったのです。
出典:『国史大辞典』阿倍仲麻呂項、『日本大百科全書』阿倍仲麻呂項、『日本人名大辞典』阿倍仲麻呂項
古代の名門・阿倍(安倍)氏の血筋
阿倍仲麻呂が生まれた阿倍(安倍)氏は、古代大和政権において重要な地位を占めてきた名門氏族です。『古事記』や『日本書紀』にもその名が登場するほど古い家柄で、飛鳥〜奈良時代には多くの官人を輩出しました。
仲麻呂の父とされる阿倍船守(あべ の ふなもり)は、中務大輔として朝廷に仕えた人物であり、その家庭は学問や政治に通じた知的な環境にあったと考えられます。こうした家系的背景は、仲麻呂が若くして遣唐使の留学生として選ばれるに足る素地を持っていたことを示しています。
出典:『国史大辞典』阿倍仲麻呂項、『日本人名大辞典』阿倍仲麻呂項
なぜ遣唐使に? – 律令国家の夢と期待
仲麻呂が派遣された第9次遣唐使(717年・養老元年)は、日本が国家体制を整え、唐の律令制度や文化を積極的に導入しようとしていた時期にあたります。彼は16歳または19歳という若さで、吉備真備や玄昉といった俊才とともに選ばれました(『続日本紀』巻七、霊亀二年条)。
彼らの目的は、単なる語学修得や外交ではなく、唐の学問・制度・文化を吸収し、将来の日本の改革に資することでした。仲麻呂の派遣は、個人的な才能への期待であると同時に、国家的プロジェクトの一翼を担う重要な役割でもあったのです。
出典:『続日本紀』巻七 霊亀二年条、『国史大辞典』阿倍仲麻呂項
唐王朝の官僚・晁衡 – 玄宗皇帝と文人たちとの日々
長安に到着した阿倍仲麻呂は、その抜きん出た学才と人柄で唐王朝に認められ、「晁衡(ちょうこう)」の名を与えられました。『旧唐書』には、外国人としては極めて稀なことに進士科に合格したと記されていますが、近年の研究では科挙ではなく推挙による任官だった可能性も指摘されています。いずれにせよ、仲麻呂が正式な官僚として唐の政界に参画した事実は確かであり、異国人としての彼の評価は非常に高いものでした。
出典:『国史大辞典』阿倍仲麻呂項、『旧唐書』晁衡伝、『日本人名大辞典』阿倍仲麻呂項
科挙合格と異例の出世 – 皇帝の側近へ
仲麻呂は任官後、左拾遺・左補闕といった諫官の役職を歴任します。これらは皇帝に意見を進言する重要な官職であり、高度な教養と忠誠心を備えた人物にのみ与えられるものでした。彼がこのような地位を任されたことは、玄宗皇帝からの信任の厚さと、唐王朝における異例の待遇を物語っています。
出典:『国史大辞典』阿倍仲麻呂項、『日本人名大辞典』阿倍仲麻呂項、『世界大百科事典』阿倍仲麻呂項
国際都市・長安での活躍 – 李白・王維との友情
当時の長安は世界屈指の国際都市であり、文化・学問・芸術の中心地でもありました。仲麻呂はこの都で、詩仙・李白や詩仏・王維、儲光羲、趙驊らと親しく交わり、詩文の応酬を通じて深い友情を築きました。
彼が詩文において高い評価を得ていたことは、こうした文人たちとの交流や詩集に記録された作品からも明らかです。晁衡として、唐文化のサロンにおいても存在感を示した仲麻呂は、まさに文化的架け橋となる存在でした。
出典:『国史大辞典』阿倍仲麻呂項、『世界大百科事典』阿倍仲麻呂項
秘書監、そして地方長官へ – 唐王朝での官僚としての足跡
仲麻呂の官僚としてのキャリアは文官にとどまらず、軍政面にも広がっていきます。図書行政を司る秘書監に就任したのち、近衛兵を統括する衛尉卿、さらには南方の辺境統治を担う安南都護など、重要な官職を歴任しました。
その死後には、潞州大都督の官位が追贈されていますが、これは生前の実績に対する最大級の評価とみなされます。仲麻呂は、単なる文人ではなく、唐王朝の制度と信頼の中枢に深く関与した日本人官僚でした。
出典:『国史大辞典』阿倍仲麻呂項、『日本人名大辞典』阿倍仲麻呂項、『世界大百科事典』阿倍仲麻呂項
望郷の念と挫折 – 帰りたくても帰れない故郷
唐での出世と名声の裏側で、阿倍仲麻呂の心には常に故国・日本への思いがありました。長年の奉仕の末、ついに帰国の許可を得ますが、その願いは波乱に満ちた運命の中で潰えることとなります。
「天の原 ふりさけ見れば…」 – 望郷の歌が生まれた時
『古今和歌集』巻第九・羇旅歌に収められたこの歌は、仲麻呂が帰国直前の753年、明州(現在の浙江省寧波)での送別の宴において詠んだとされますが、近年の研究では蘇州説もあり、議論が続いています。詞書によれば、月を見上げながら詠んだこの和歌には、帰国を前にして故郷・春日への想いが込められていました。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
この歌は、後に藤原定家によって『小倉百人一首』の第七番として選ばれ、現代にまでその望郷の情が伝えられています。唐という大国で地位を築きながらも、仲麻呂の心は常に「日本」にあったことを、この一首が象徴しています。
なぜ帰れなかったのか? – 難破と安史の乱
753年、藤原清河ら第12次遣唐使と共に帰国船に乗り込んだ仲麻呂でしたが、途中で暴風雨に見舞われ、船団は難破。彼の乗る船は南方の安南(現在のベトナム北部)に漂着し、帰国の夢は潰えてしまいます。
その後、755年には唐国内で安史の乱が勃発。大動乱の中、仲麻呂は長安に戻り、ふたたび政務に復帰せざるを得ませんでした。この乱の影響なども相まって、以降日本への遣唐使の往来も困難となり、仲麻呂の帰国の機会は完全に閉ざされました。
日本から派遣された清河らの使節も帰国できず、この時代における「海を渡る」ことの困難さ、そして外交が戦乱の情勢にいかに左右されるかが浮き彫りとなります。仲麻呂はその後も唐の政界に身を置き、心の中では祖国を思い続けながら、異国の地でその生涯を終えたのです。
出典:『国史大辞典』阿倍仲麻呂項、『日本大百科全書』阿倍仲麻呂項、『世界大百科事典』阿倍仲麻呂項
唐での最期 – 異国の土となった万能の才人
帰国を断念し、再び唐の政界に身を置いた阿倍仲麻呂(唐名:晁衡)は、その後も波乱の時代を生き抜きました。唐は安史の乱を経て政情が不安定になりましたが、仲麻呂は信任を失うことなく、粛宗・代宗と続く皇帝のもとで官僚としての職務を全うしました。彼は「異国の中枢に生きた日本人」として、唐における外国人官僚の頂点に立った存在と評価されています。
安史の乱を生き延びて – 粛宗・代宗の時代
安史の乱が唐を揺るがす中でも、仲麻呂は政界に留まり、秘書監・衛尉卿・安南都護といった要職を歴任しました。特に秘書監としては、文書行政の中心を担う重責を任されていたことが、『旧唐書』や『新唐書』の晁衡伝からも確認できます。
なお、「潞州大都督」の官職については、仲麻呂が死後に追贈されたものであり、生前の任官ではありません。 これを生前の官歴に含めるのは誤りであり、正確な評価を行うためには明確に区別する必要があります。
長安での客死 – 故郷の土を踏むことなく
770年(宝亀元年)、阿倍仲麻呂は長安において客死しました。享年は70または73とされ、生年に諸説あることから確定は困難です。彼はついに日本の土を踏むことはありませんでした。
この訃報は日本にも伝えられ、朝廷はその功績を高く評価し、最終的に「正二位」の位を追贈しています(承和3年、仁明天皇期)。この追贈は、仲麻呂の唐における長年の貢献を称えたものであり、日本と唐の友好関係を象徴する外交的配慮とも受け取れます。
彼の人生は、個人の栄光にとどまらず、日本と唐の文化・政治的な交流史の中核をなす重要な存在でした。阿倍仲麻呂の名は、今なお日中両国で記憶され続けています。
出典:『国史大辞典』阿倍仲麻呂項、『日本大百科全書』阿倍仲麻呂項、『日本人名大辞典』阿倍仲麻呂項、『世界大百科事典』阿倍仲麻呂項
関連人物とのつながり
阿倍仲麻呂の歩んだ道は、彼一人の努力だけで築かれたものではありません。遣唐使の仲間たち、唐王朝の皇帝、そして多くの文化人との出会いと交流が、彼の生涯に深い影響を与えました。
同期の遣唐使 – 吉備真備・玄昉との比較
仲麻呂が716年に共に遣唐使として唐に渡ったのが、吉備真備と玄昉です。この三人はいずれも日本の学問と外交を担う俊英であり、唐での修学を終えた後、吉備と玄昉は日本に帰国し、律令制の整備や仏教政策で大きな功績を挙げました。
一方、仲麻呂は帰国の機会を得られず、唐にとどまりその地で官僚となったという点で、全く異なる人生をたどることになります。この三人の比較は、日本の律令国家が育んだ人材がいかに多様な道を歩んだかを物語っています。
唐の皇帝・玄宗からの寵愛
仲麻呂の政治的成功の背景には、玄宗皇帝の特別な寵愛がありました。玄宗は詩や音楽を愛する文化皇帝であり、仲麻呂の才能と人格に深い関心を寄せ、諫官への任命や名誉ある「晁衡」の名の授与など、特別な待遇を与えました。
外国人でありながら、唐の政治文化の中心に立つことができたのは、この皇帝との信頼関係があってこそです。仲麻呂の異能は、玄宗のような開明的な君主によって開花したとも考えられます。
唐の大詩人たち – 李白・王維との友情
仲麻呂の名声は、文人の世界でも高く評価されていました。李白や王維といった唐の詩人たちは、単なる同時代人ではなく、実際に仲麻呂と詩文を通じて親交を結んだ友人たちでした。
これらの詩人との交流は、国境や言語の壁を超えた文化的対話であり、仲麻呂自身がただの官僚にとどまらず、国際的な知識人・文化人であったことを示しています。彼らとの詩の応酬や宴席での交わりは、後世の漢詩や史書にその交流の記録が残されており、それはまさに、唐の文化黄金期に活躍した一人の日本人の証といえるでしょう。
出典:『国史大辞典』阿倍仲麻呂項, 『日本大百科全書』阿倍仲麻呂項, 『日本人名大辞典』阿倍仲麻呂項, 『世界大百科事典』阿倍仲麻呂項
時代背景と阿倍仲麻呂の役割
阿倍仲麻呂の活躍は、律令国家が外交と文化の発展に注力していた奈良時代と、国際的な開放性と文化の爛熟を誇った唐(玄宗期)という二つの歴史的文脈の中でとらえる必要があります。ここではその時代背景を確認し、彼の役割を歴史の中に位置づけてみましょう。
奈良時代 – 律令国家と国際交流への意欲
8世紀初頭、日本では律令体制の整備が進められており、国家は積極的に大陸から制度や文化を導入しようとしていました。こうした国際化政策の中核にあったのが遣唐使の派遣です。仲麻呂が参加した第9次遣唐使(717年派遣)もその一環であり、若くして選ばれた彼は、当時の国家の期待を一身に背負って大陸へ渡ることになります。
唐の先進的な学問・政治制度に触れることで、将来的に日本の行政や文化の近代化に寄与することが期待されていたのです。仲麻呂のような留学生は、まさに国策としての人材育成の一環といえます。
唐(玄宗期) – 繁栄と文化の爛熟、そして動乱へ
仲麻呂が渡った唐は、長安を中心とする世界最大級の国際都市を擁し、多民族・多文化の交流が日常的に行われる時代でした。玄宗皇帝の治世(開元年間)は、政治的にも文化的にも黄金期とされ、李白・杜甫・王維など不世出の詩人が活躍したのもこの時代です。
しかしその後、755年に勃発した安史の乱によって、唐は急激に衰退へと向かいます。仲麻呂はこの転換点を最前線で見届け、乱の渦中にありながらも行政官僚として生き延びました。彼の人生はまさに、繁栄と混乱が交錯する唐の縮図でもあったのです。
日中交流の架け橋としての阿倍仲麻呂
阿倍仲麻呂の生涯は、ただ唐で高位に就いたというだけでは語れません。彼は日本からの留学生という立場から始まり、異文化の中で卓越した才能を認められて出世し、最終的には日中間の知的・文化的交流の象徴となりました。
とりわけ、和歌や漢詩を通じた文人との交流は、彼が一方的に唐に染まった存在ではなく、文化を携えて渡った外交的存在であったことを示しています。直接的な政策伝達はなかったとしても、彼の存在自体が日中相互理解の基盤となりうる「架け橋」であったことは疑いありません(慎重表現ながら、文献上も唐側での評価が高かったことが記録されています)。
出典:『国史大辞典』阿倍仲麻呂項, 『日本大百科全書』阿倍仲麻呂項, 『日本人名大辞典』阿倍仲麻呂項, 『世界大百科事典』阿倍仲麻呂項
歴史に刻まれた阿倍仲麻呂 – 望郷の歌聖、国際人の先駆け
遣唐使として渡航し、異国で高官として生涯を終えた阿倍仲麻呂。彼の生き方と詠んだ一首の和歌は、千年以上を経た現代においても多くの共感を呼び続けています。ここではその功績と現代的意義を整理し、彼が歴史に残した影響を再確認します。
歴史的インパクト – 日中文化交流の象徴と国際人のモデル
阿倍仲麻呂は、唐の朝廷に仕えた日本人として極めて稀な高官という点で、日中交流史上特筆すべき存在です。彼の活躍は文化的交流の象徴であり、和歌や学問、政治制度など、目に見えないかたちで日中間の共鳴を育んだといえます。
また、言語・文化・制度の異なる国家において能力を認められた姿は、現代の観点から見れば「国際人」「グローバル人材」の原型とも見なせるでしょう。阿倍仲麻呂は、日本人が異文化の中でどのように信頼を勝ち得るかという問いに対する古代からの一つの答えを提示しています。
文人・歌人としての不滅の名声
「天の原 ふりさけ見れば…」の一首は、『古今和歌集』および『小倉百人一首』に収録されるなど、日本人の心に深く刻まれた和歌です。この歌を通じて仲麻呂は、単なる外交官にとどまらず、「望郷の歌聖」としての地位を確立しました。
また、李白や王維といった唐代の詩人と詩文を交わした記録は、仲麻呂が唐の文化人にとっても知的対話の相手として認められていたことを示します。彼の存在は、日本文化の高度さと独自性を、唐の知識層に伝える機会ともなっていたのです。
望郷の念 – 時代を超えて共感を呼ぶ心
仲麻呂の和歌が今も多くの人々の心を打つ理由は、その背景にある「望郷の情」にあります。異国で高位に就きながらも、故郷を思い続けた彼の心は、国境を越えた普遍的な感情を表現しています。
この感情は、現代の海外移住者や留学生にも通じるものであり、仲麻呂の歌が持つ普遍的な力は、単なる文学作品を超えた、時代と場所を超える共感の象徴といえるでしょう。
阿倍仲麻呂の子孫について
仲麻呂の子孫に関する記録は明確には残っていません。日本に残された阿倍氏との系譜的つながりも不詳です。一部文献には、唐に残された子孫がいた可能性も示唆されていますが、確定的な史料はなく、慎重に扱う必要があります。
今後の研究や考古学的発見によって、新たな知見が得られる可能性も残されている分野といえるでしょう。
阿倍仲麻呂ゆかりの地
現代において阿倍仲麻呂の生涯を追体験する手がかりとして、各地の史跡・記念碑が挙げられます。訪問することで、彼の人生や時代背景をより身近に感じることができるでしょう。
日本(奈良県)
- 阿倍文殊院(桜井市):阿倍氏の氏寺とされる。智恵の文殊として知られ、仲麻呂のルーツを偲ぶ場。
- 春日大社・三笠山(奈良市):彼の和歌に詠まれた「三笠山」は、今なおその姿を見せる。展望台から月を眺めることで、歌に込められた思いが実感される。
中国(訪問可能地)
- 西安市:「阿倍仲麻呂記念碑」が建てられており、彼の唐での功績を称えている。碑文には晁衡の名が刻まれ、奈良市と西安市の友好都市関係を記念して建立されたもの。
- 寧波市(旧明州):帰国を前に和歌を詠んだとされる地。唐代の港町として日本との交流拠点でもあった。
出典:『国史大辞典』阿倍仲麻呂項, 『日本人名大辞典』阿倍仲麻呂項, 『日本大百科全書』阿倍仲麻呂項, 『世界大百科事典』阿倍仲麻呂項
参考文献
- 『続日本紀』巻第十三(天平五年遣唐使派遣に関する記録) ※出典:『続日本紀 蓬左文庫本 第2冊』吉岡眞之・石上英一、八木書店、1991年
- 『旧唐書』巻一九九下・列伝第一四九下「東夷列伝・日本国条(晁衡伝)」 ※出典:『旧唐書』(全16冊)劉昫ほか撰、中華書局、1975年
- 『国史大辞典 第1巻』国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館、1979年
- 『日本人名大辞典』講談社編集部、2001年
- 『日本大百科全書』小学館、1994年
- 『世界大百科事典』平凡社、2014年