関ヶ原で敗れ、大坂の陣で豊臣方として獅子奮迅の活躍を見せるも、その後の消息が謎に包まれている武将・明石掃部(全登)。熱心なキリシタンとしても知られ、その生涯は信仰と忠義、そして戦いに彩られています。彼は一体「何をした人」で、なぜ「全登」と呼ばれるのか? その名前の謎から、宇喜多重臣としての歩み、大坂での奮戦、そして未だ解明されない最期まで。役割分類としては【補佐・調整役(家宰)】【軍事指揮官】【信仰の指導者】の側面を持つ彼の生涯を、信頼できる情報とE-E-A-Tの観点を重視し、分かりやすく解説します。
明石全登(掃部)とは? – 謎多きキリシタン武将の肖像
まず、明石全登(掃部)がどのような人物だったのか、その基本的な情報と、名前を巡る複雑な事情、そして伝わる人物像を見ていきましょう。史料的制約から不明な点が多いことにも留意が必要です。
基本情報 – プロフィールに潜む「謎」
項目 | 内容(推定・諸説含む) | 出典例 |
---|---|---|
通称 | 明石 掃部(あかし かもん)※最も一般的 | 『国史大辞典 第1巻』明石掃部項 |
諱(実名) | 守重(もりしげ)、 景盛(かげもり)※確定的な諱は不明 | 『日本人名大辞典』明石掃部項 |
号 | 全登(てるずみ/たけのり/ぜんとう/じゅすと)※読み方諸説。同時代史料での使用は疑問視されている | 大西泰正編『宇喜多秀家と明石掃部』第2部論考 |
洗礼名 | ジョアン/ジュスト | 小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第4章 |
生年 | 永禄12年(1569年)頃※推定 | 小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第1章 |
没年 | 慶長20年(1615年)または 元和4年(1618年)が有力 | 『国史大辞典 第1巻』明石掃部項、小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第9章 |
出自 | 備前明石氏。父は明石景親(行雄)。母はモニカ(宇喜多氏縁者か)。先祖は播磨明石氏分流とされる。 | 小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第1章 |
所属・役職 | 宇喜多秀家家臣(家老格、家宰)→浪人→豊臣方(大坂の陣) | 同上 第6章〜第8章 |
信仰 | キリシタン(カトリック) | 小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第4章 |
関連人物 | 宇喜多秀家、黒田如水、黒田直之、真田幸村、毛利勝永、長宗我部盛親、大坂五人衆 | 各人物に関連する章(第6〜9章) |
墓所・伝承地 | 不明。各地に墓所や潜伏地の伝承あり(土佐、秋田、備前など) | 小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第9章 |
明石全登・掃部・てるずみ? – なぜ名前がこれほど複雑なのか
明石掃部という呼称は、「掃部介(かもんのすけ)」という官位に由来する通称であり、もっとも信頼できる呼称といえる(『国史大辞典 第1巻』明石掃部項)。一方、「全登」という名は、同時代の一次史料では確認されておらず、後世の系譜資料などにより知られるようになったものである。
大西泰正氏の研究(大西編『宇喜多秀家と明石掃部』第2部「明石掃部の研究」)では、この「全登」の表記と読み方には複数の説があることが指摘されており、「てるずみ」「たけのり」「ぜんとう」「じゅすと」など、定説はない。これに加え、洗礼名としてジョアンまたはジュストが使われた記録があり、カトリック信仰と関係が深いことが裏付けられる。
本記事では、「明石掃部」を基本呼称としつつ、一般に知られる「全登」という号についても併記する方針を採る。
明石全登は何をした人か? – 主な業績ダイジェスト
- 宇喜多秀家の重臣(家宰)として主家を支えた。 → 宇喜多騒動後の家宰就任、知行の大幅加増などを通じて主君・秀家を支える存在であった(小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第3章・第5章)。
- 関ヶ原の戦いに西軍として参戦。杭瀬川や本戦で福島正則隊と激戦を繰り広げ、敗北後は浪人となった。 → 杭瀬川の戦いで島左近らと共闘、本戦では宇喜多勢の副将格として前線を指揮。戦後は播磨で潜伏し浪人生活へ(同書 第6章)。
- 大坂の陣で豊臣方として参戦。道明寺・天王寺岡山の戦いで徳川軍と交戦し奮戦。 → 豊臣秀頼に招かれ、信仰の自由の保障を期待して入城。夏の陣では真田幸村らと共に徳川本陣へ突撃した(同書 第8章)。
- キリシタンとしての信仰を貫き、浪人中も隠遁生活の中で信仰活動を継続。 → 筑前秋月で黒田直之の庇護を受けつつ、隠修士的な生活を送り、信仰を堅持した(同書 第4章・第7章)。
- 大坂城落城後に消息を絶ち、生死について諸説がある。 → 戦死説、逃亡・潜伏説、1618年病没説などが併存。確定的資料は存在しない(同書 第9章)。
人となり – 伝わる武勇と篤き信仰
明石掃部は、大坂の陣などで見せた果敢な戦いぶりから「猛将」として語られることが多い。また、宇喜多家への忠誠心を貫き、改易後も主家に殉じる姿勢を示した点でも高く評価されている。特にキリシタンとしての強い信仰心と、信仰を行動原理とした点は、彼の人物像を理解する上で欠かせない。
これらの人物像については、小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第7〜9章および『日本人名大辞典』「明石掃部」項を中心に記述した。
明石全登(掃部)の歩みを知る年表
宇喜多家の重臣から浪人、そして大坂の陣で奮戦。明石掃部(全登)の生涯を年表でたどります。
年代(西暦) | 出来事・掃部(全登)の動向 | 出典例 |
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1569年頃(永禄12年) | 備前国に生まれる。父は明石景親(行雄)とされる。 | 小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第1章 |
(時期不明) | 宇喜多直家・秀家に仕える。のちにキリシタンに改宗したとされる。 | 小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第3・4章 |
1599年(慶長4年) | 宇喜多騒動が起こり、掃部は家宰として主導的立場を得る。 | 小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第5章 |
1600年(慶長5年) | 関ヶ原の戦いで宇喜多隊の副将格として参戦。伏見城攻め、杭瀬川、本戦に出陣。敗戦後に浪人となる。 | 同書 第6章 |
1600年〜1614年 | 黒田如水・直之の庇護を受け、筑前秋月に潜伏。信仰生活を送る。 | 同書 第7章 |
1614年(慶長19年) | 大坂冬の陣で豊臣方に加わり、大坂城へ入城。 | 同書 第8章 |
同年(冬の陣) | 大坂城の三の丸を守備。 | 同上 |
1615年5月6日(慶長20年) | 道明寺の戦いに出陣。後藤又兵衛戦死後、伊達軍らと交戦し負傷。 | 同上 |
1615年5月7日 | 天王寺・岡山の戦いで真田幸村らとともに徳川本陣を突撃。戦場を離脱後、消息不明となる。 | 小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第8・9章 |
(没年) | 1615年戦死説、1618年病没説など複数の説がある。 | 同書 第9章、『日本人名大辞典』明石掃部項 |
明石全登(掃部)の主家・宇喜多氏と関ヶ原
明石掃部(全登)は、備前岡山の大名・宇喜多氏の重臣として活躍した。関ヶ原の戦いを転機に浪人となり、再起を遂げた生涯の前半を見ていく。
宇喜多秀家の重臣として – 宇喜多騒動を乗り越えて
掃部は宇喜多秀家の重臣として仕え、家宰として家中の実権を握る地位にあった。秀家の姉妹を妻としたとされ、縁戚関係によっても主君との結びつきが深かった。1599年の宇喜多騒動では、家中が分裂する中で(彼の立場は中立的とも調停役ともされるが)、結果的に対立派の重臣が出奔した後、掃部は家宰に就任し、混乱した家中の収拾と軍政を含む体制の再編に主導的な役割を果たした。騒動後は家中筆頭の立場にあり、秀家を支える屋台骨として機能していた。
出典:小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第3章・第5章
関ヶ原の戦い – 西軍主力としての奮戦と敗走
関ヶ原の戦いでは、宇喜多隊の副将格として出陣し、伏見城攻めや杭瀬川の前哨戦、本戦では福島正則隊と激戦を繰り広げた。敗戦後、掃部は殿軍を務めて秀家の脱出を支援し、自身は播磨方面へ退いた。その後、岡山城での抵抗を企図するも、秀家の所在が不明であったため断念。浪人としての生活に入る。
出典:小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第6章
浪人時代 – キリシタン・ネットワークと黒田氏の庇護
掃部は筑前国に入り、キリシタンでもあった黒田如水および弟の黒田直之の庇護を受けた。秋月郡に潜伏しながら、隠修士のような生活を送り、キリシタンとしての信仰を維持していた。この時期の彼の存在は、キリシタン信徒ネットワークの一端を担うものであり、行動の基盤には信仰と縁戚のつながりがあった。
出典:小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第7章
明石全登(掃部)と大坂の陣 – キリシタン武将、最後の戦い
十数年の潜伏生活を経て、明石掃部は再び歴史の表舞台に立つ。それが豊臣家の命運を懸けた大坂の陣であった。キリシタンとしての信仰と、旧主への忠誠が、彼の再出発を後押しした。
なぜ大坂城へ? – 信仰の自由と豊臣家への忠義
大坂冬の陣が迫る中、明石掃部は豊臣家からの招きを受けて入城した。徳川幕府がキリシタン禁制を強めていた情勢の中、豊臣方は信仰の自由を保障すると伝えられており、これは掃部にとって大きな決断要因となった。加えて、豊臣政権と宇喜多家とのかつての結びつき、そして徳川家への対抗心も、その参戦を後押ししたとみられる。
出典:小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第8章
冬の陣・夏の陣での活躍 – 真田幸村・毛利勝永らと共に
掃部は冬の陣では大坂城三の丸に布陣し、城内の防備に就いた。翌年の夏の陣では、道明寺の戦いに出陣。後藤又兵衛戦死後に戦列を立て直し、伊達政宗軍と激しく交戦した。続く天王寺・岡山の戦いでは、真田幸村、毛利勝永らと共に徳川家康本陣への突撃を敢行。掃部は敵中を突破し、その後の消息を絶つ。
出典:小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第8章・第9章
その勇戦ぶりは「大坂五人衆」の一人として数えられる根拠ともなっており、豊臣方における重要な軍事指揮官であったことがうかがえる。
出典:『日本人名大辞典』明石掃部項
キリシタン部隊の指揮官として
掃部のもとには、同じ信仰を持つ浪人たちが集まり、事実上のキリシタン部隊を編成していたと伝えられる。信仰と忠誠を旗印とした彼らの戦いは、幕府に抗する精神的象徴ともなった。掃部自身の信仰が、ただの個人的信念ではなく、組織的な行動を支える柱であったことを物語っている。
出典:小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第7章・第8章
明石全登(掃部)の最期 – 消えた猛将、深まる謎
天王寺・岡山の戦いの後、明石掃部の足取りは歴史の中から消える。彼は戦死したのか、それとも生き延びたのか。後世の史家や郷土の伝承が語る多様な説が、その謎をさらに深めている。
戦死説とその根拠 – 徳川方の記録に見る最期
『徳川実紀』には、掃部が戦死し、その首が水野勝成あるいは石川忠総の家臣によって討ち取られたという記録が残されている。天王寺・岡山の戦場での激戦ぶりと、敵中突破という状況を考えれば、討死は自然な帰結ともいえる。
出典:小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第9章、『国史大辞典 第1巻』明石掃部項
ただし、この記録には異説もあり、敵将の記録に基づいた情報には誤認の可能性があることも指摘されている。戦時下の混乱と勝者側記録の性質から、検証には限界がある。
逃亡・生存説 – 全国各地に残る根強い伝説
掃部が戦死せず、生き延びたという伝説は全国に残る。九州では息子と共に落ち延びたとする説、四国・土佐の山中では隠棲生活を送ったという伝承がある。東北では仙台・津軽・秋田方面へ移り住んだという話も伝えられ、秋田扇田には子孫を称する家系も存在する。さらに、備前に帰郷したとする説もある。
出典:小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第9章
いずれも地域伝承に基づくものであり、史料的裏付けには乏しいが、掃部という人物がいかに強い印象を後世に残したかを示している。
結論:消息は依然として不明 – 歴史ミステリーとして
現時点で、明石掃部の最期を断定できる資料は存在しない。戦死説と生存説が並立する中で、掃部の最期は今なお日本史の大きな謎のひとつである。
出典:小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第9章
この不明瞭さこそが、掃部という人物に神秘性を与え、時代と信仰、忠誠を背負った武士像としての魅力を際立たせている。
関連人物とのつながり
明石掃部(全登)の生涯は、主君、恩人、戦友との関係を通じて形作られていった。彼を語る上で欠かせない人物との関わりを見ていく。
主君・宇喜多秀家への忠誠
掃部は宇喜多家中で家宰格の立場にあった。1599年の宇喜多騒動では、対立派の粛清や軍制再編を主導し、主君・秀家を擁護する立場を貫いた。関ヶ原敗戦後も秀家と行動を共にし、脱出を助けたとされており、その忠誠は終始一貫していた。
出典:小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第5章・第6章
黒田如水・直之 – 危機を救った縁戚・信仰仲間
関ヶ原の敗戦後、掃部は黒田如水およびその弟・黒田直之の庇護を受けて筑前秋月に潜伏した。黒田直之はキリシタンであり、掃部と同じ信仰を共有していたことが保護の背景にあった。また、掃部の妻が黒田家縁者であった可能性も指摘されており、縁戚関係と信仰が重なったことが救済の理由とされる。
出典:小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第7章
大坂の陣の戦友たち(真田信繁、毛利勝永など)
大坂夏の陣では、掃部は真田信繁、毛利勝永、後藤又兵衛らと共に徳川家康本陣への突撃を試みた。その戦いぶりは「大坂五人衆」の一人と称される要因となった。五人衆との協調行動や役割分担は史料に残る範囲で確認でき、彼らの中で掃部はキリシタン武将として独特の存在感を放っていた。
出典:『日本人名大辞典』明石掃部項
時代背景と明石全登(掃部)の役割
明石掃部が生きたのは、戦国の終焉から江戸幕府の確立へと至る激動の時代だった。彼はその変革期において、軍事・政務・信仰の各面で複数の役割を果たした。
戦国時代の終焉と江戸幕府の確立期
豊臣政権の衰退と、徳川幕府の成立という構造変化の中、掃部は西軍の武将として敗者の道を歩んだ。改易された宇喜多家を支え、浪人となってからも再起の機会をうかがったその姿は、多くの戦国武将に共通する「時代に翻弄された忠臣像」の一端を体現している。
キリシタン弾圧の時代と信仰に生きた武士
徳川幕府はキリシタン禁制を強化し、信徒たちは隠れ信仰へと追い込まれていった。掃部はそのような情勢下にあっても信仰を捨てず、大坂城入城の一因にも信仰の自由があったとされる。彼の行動原理には常に宗教的信念があり、それが武士としての忠誠や選択にも大きな影響を与えていた。
出典:小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第4章・第8章
役割分類:補佐・調整役/軍事指揮官/信仰の指導者としての側面
掃部は宇喜多家中では家宰としての政務能力を発揮し、戦場では副将として軍事指揮を担い、大坂の陣ではキリシタン部隊の統率者として信仰の面でも精神的支柱となった。彼の生涯は、補佐・軍事・信仰の三面にわたる複合的な役割によって貫かれている。
歴史に刻まれた明石全登(掃部) – 謎多き忠臣、その歴史的評価
大坂の陣での奮戦、そして消息不明という最期。明石掃部は、戦国から近世への大転換期における象徴的存在ともいえる。
歴史的インパクト – 大坂の陣での奮戦とキリシタンの象徴
掃部の突撃は、豊臣方の敗色濃厚な状況において味方の士気を奮い立たせた。彼の行動は単なる軍事行動にとどまらず、抵抗の象徴として語られてきた。
また、迫害を受けながらも信仰を貫いた彼の姿は、後の潜伏キリシタンたちにとっても精神的な拠り所となるモデルとなった。
出典:小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第8章・第9章
武将としての評価 – 勇猛さと忠誠心
関ヶ原、大坂の陣の両戦において前線に立ち、軍勢を率いた掃部は、勇猛な指揮官としての評価を受けている。また、改易後も主君に殉じたその忠誠心は、江戸時代を通じて顕彰されることは少なかったが、後世の研究により再評価が進んでいる。
出典:小川博毅『新版 史伝 明石掃部』第6章・第9章
なぜ真田幸村ほど語られないのか?
明石掃部は真田幸村と同様に徳川本陣を突いた猛将であるにもかかわらず、知名度では大きく水をあけられている。背景には、キリシタンであったことが幕府下で語られにくかった点や、明確な顕彰主体(藩や宗派)が存在しなかったことが挙げられる。近年の研究や創作では、その人物像が少しずつ掘り起こされつつある。
未解決の謎がもたらす魅力
掃部の消息不明という事実は、かえって人々の想像力をかき立ててきた。彼は戦国の闇に消えた伝説の武将として、歴史ミステリーの対象となっている。この不可解さが、時に史実以上の魅力を生み出している。
明石全登の子孫について
秋田県の扇田地域には、掃部の子孫を称する家系が存在しているとされる。その他にも、九州・四国・備前など各地に彼の子孫または末裔を名乗る伝承があるが、いずれも史料的裏付けには乏しい。
明石全登(掃部)ゆかりの地
- 備前:保木城跡、明石氏屋敷跡(現・岡山市東区吉井)
- 筑前秋月:潜伏時代の居住地とされる(現・福岡県朝倉市)
- 大坂城跡:最後の戦場。天王寺・岡山方面も現地に痕跡あり
- 香美市(高知県)・秋田県扇田など:墓所や潜伏伝承地として語られる場所もある
参考文献
- 小川博毅『新版 史伝 明石掃部』吉備人出版、2023年。
- 大西泰正 編『宇喜多秀家と明石掃部』岩田書院、2015年。
- 『国史大辞典 第1巻』1979年:明石掃部項。
- 『日本人名大辞典』講談社、2001年:明石掃部項。