奈良時代、日本と唐との外交の最前線に立ち、ついに帰国を果たすことなく唐に没した一人の官人がいた──それが藤原清河(ふじわら の きよかわ)です。
藤原北家の名門に生まれ、遣唐使として渡航。帰国困難の中で唐の官僚組織に登用され、文化人・外交官として現地で活躍しました。
本記事では、彼の生涯と功績、そして『万葉集』に遺された一首の和歌から、その人物像に迫ります。
藤原清河の基本情報 ── 名門に生まれ唐で没した公卿
藤原清河は、藤原鎌足の曾孫にあたる藤原房前の四男として生まれ、奈良時代中期に活躍した藤原北家の公卿です。
彼は第12次遣唐使の大使として派遣され、現地で唐の皇帝・玄宗に謁見。日本の席次をめぐる外交交渉を成功させた後、唐の動乱(安史の乱)によって帰国できず、現地で「秘書監(ひしょかん)」に任じられました。
異国で客死するという異例の最期を遂げながらも、清河の生涯は国際的教養と交渉力に裏打ちされた外交官の先駆けといえます。
(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原清河項、吉川弘文館、1991年)
基本プロフィール
項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 藤原清河(ふじわら の きよかわ) |
出自 | 藤原北家(藤原房前の四男) |
生没年 | 生年不詳 ~ 宝亀9年(778年)(『続日本紀』巻四十) |
官位 | 従三位・参議・常陸守(死後に従一位追贈) |
唐での名 | 河清(かせい)/秘書監に任官(『続日本紀』) |
文化活動 | 和歌一首を『万葉集』巻十九に残す(『萬葉集(4)』4271番歌) |
年表で見る藤原清河の生涯
藤原清河の経歴は、唐との外交・文化交流の流れと密接に関係しています。以下の年表では、国内での昇進・派遣から唐での仕官・客死に至るまでの歩みを、出典に基づいて整理します。
年代 | 出来事 | 出典 |
---|---|---|
8世紀初頭 | 藤原房前の四男として誕生(正確な生年は不詳) | 『国史大辞典』 |
740年頃 | 従五位下に叙され、官人として台頭 | 同上 |
天平勝宝元年(749) | 参議に任じられる | 『続日本紀』巻三十七 |
天平勝宝2年(750) | 遣唐大使に任命、第12次遣唐使として出発 | 『国史大辞典』 |
天平勝宝4年(752) | 唐の長安に到着、玄宗皇帝に謁見 | 同上 |
天平勝宝5年(753) | 新羅との席次問題を交渉、日本の国威を示す | 同上 |
天平宝字元年以降 | 安禄山の乱で唐が混乱、帰国困難となる | 『続日本紀』巻三十八〜三十九 |
宝亀年間(770年代) | 唐で「河清」と名乗り秘書監に就任 | 『続日本紀』巻四十 |
宝亀9年(778) | 唐にて客死、日本では従一位を追贈 | 『続日本紀』巻四十 |
藤原清河をめぐる人物たちとその関係
藤原清河の人生は、名門の出自だけでなく、多くの重要人物とのつながりによって形づくられています。家族、同時代の留唐者、そして娘に至るまで、その関係性をひもとくことで、彼の生涯の深みが見えてきます。
父・藤原房前と清河の出自
藤原清河は、藤原不比等の子である藤原房前を父とし、藤原北家に連なる家柄に生まれました。兄には、式家を創始した藤原宇合、京家の祖である藤原麻呂など、のちの「藤原四家」を構成する兄弟たちが並び、名門中の名門に育ったことがわかります。
(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原清河項)
同時代の留唐者・阿倍仲麻呂との接点
同時期に唐に渡り、高官として活躍した阿倍仲麻呂は、藤原清河と活動時期・思想的関心において共通点が多い人物です。両者はともに詩文の才に優れ、また唐皇帝との関係も深く、日本と唐との文化・外交の懸け橋となりました。
(出典:『国史大辞典 第12巻』阿倍仲麻呂項)
娘・喜娘(きじょう)と「異国の家族」
唐滞在中、清河は現地女性との間に娘・**喜娘(きじょう)**をもうけたとされます。『国史大辞典』によれば、喜娘はのちに日本に帰国したとの記録がありますが、その後の消息については不明です。この事例は奈良時代における国際婚姻例として、貴重な史料的価値を持ちます。
(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原清河項)
藤原清河が生きた国際環境とその意義
藤原清河の活動は、日本が国家としての国際的地位を模索していた時代に重なります。外交交渉、文化交流、そして政治的な駆け引きが交錯する奈良時代の国際情勢を概観します。
奈良時代の外交と遣唐使の目的
奈良時代における遣唐使の目的は、仏教や律令制の導入に加え、国際的な正統性の確保にもありました。遣唐大使として清河が派遣された天平勝宝年間、唐は全盛を誇っていましたが、後に安禄山の乱が起こり、日本使節の帰還が困難になる状況が生まれました。
(出典:『続日本紀』巻三十七~巻四十〈蓬左文庫本〉)
新羅との外交席次問題
752年、清河は玄宗皇帝に謁見し、日本の国使が新羅より下位に置かれていた外交席次について異議を唱え、その訂正を実現しました。この交渉は、当時の日本の独立性と外交的地位を象徴する成果として知られています。
(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原清河項)
官歴と唐での異例の登用
清河は日本国内で従五位下に叙せられたのち、天平勝宝元年(749年)に参議に就任。その翌年、遣唐大使として派遣されました。
唐では「河清(かせい)」と改名し、秘書省に属する官職「秘書監(ひしょかん)」に任命され、外国人としては破格の待遇を受けました。
(出典:『続日本紀』巻三十七・巻三十九〈蓬左文庫本〉)
家族と国際的交流の痕跡
娘・喜娘に関する記録のほか、清河自身の活動も、日本と唐との人的・文化的ネットワークの形成に寄与したと考えられます。遣唐使の一員として渡った吉備真備・大伴古麻呂らとの関係もまた、文教政策や外交実務の一環として注目されています。
(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原清河項)
藤原清河の人物像と詠んだ和歌
藤原清河は、唐の玄宗皇帝から「君子人」と称された温厚で礼儀正しい人物と伝えられています。また、出発前に詠んだ和歌一首が『万葉集』巻十九に収められており、その内容は次のようなものです。
唐国に遣(つか)はさるる時の歌
わが背子を 大和へ遣ると 玉桙(たまほこ)の 道のつら道に ま幸くありこそ
(『萬葉集(4)』小学館〈新編日本古典文学全集〉巻十九・4271番)
この歌には、故国を遠く離れる者の不安と無事を願う思いが込められており、清河の人となりと深い教養を物語っています。
藤原清河が歴史上に成し遂げた功績
奈良時代、日本の国際的立場は模索と交渉の連続でした。その中で藤原清河は、遣唐使として派遣され、現地で異例の出世を果たした数少ない日本人の一人です。外交・文化の両面における功績を振り返ります。
遣唐使としての功績
藤原清河は、天平勝宝2年(750年)に第12次遣唐使の遣唐大使に任命されました。吉備真備・大伴古麻呂らとともに唐の長安へ向かい、翌752年、玄宗皇帝に謁見します(『国史大辞典 第12巻』『続日本紀』巻三十七)。
この際、清河は新羅より下位とされていた日本使節の席次を是正すべく交渉にあたり、唐側から待遇の改善を引き出したとされます。この成果は、日本の国威と外交的自立性を示す重要な事例とされています。
唐朝における官職と文化交流
帰国の途中、藤原清河の船は暴風に遭い漂流。一度は帰国を断念して唐に戻り、唐名「河清(かせい)」を名乗りつつ、唐の官僚機構の一角である「秘書監(ひしょかん)」に任じられます(『続日本紀』巻三十八~三十九)。
この秘書監は、文書管理や経籍(書籍)に携わる知的な役職であり、外国人の登用はきわめて珍しいものでした。その登用は、清河が文才・人柄・礼節すべてにおいて唐朝から高く評価されていた証といえるでしょう。
また、彼の現地での活動を通じて、唐の制度や思想が日本に伝わるための人的・知的ネットワークの構築にも寄与したと考えられています。
唐朝での活動と帰国の試み
帰国の途上、清河の一行はベトナム北部(交趾)沿岸に漂着し、現地住民の襲撃に遭うという事件にも巻き込まれました(『続日本紀』巻三十八)。その後、再び長安に戻り、唐に留まる決断を下します。
以後、安禄山の乱の余波や唐朝内の混乱により、日本側からの帰国命令が幾度も出されながらも、実現には至りませんでした。
結果として、藤原清河はそのまま唐朝に仕え、宝亀9年(778年)に客死します。日本では彼の功績を讃え、従一位を追贈しています(『続日本紀』巻四十)。
歴史に刻まれた藤原清河の生涯
藤原清河の生涯は、日本と唐との間に築かれた外交・文化の橋渡しを象徴しています。その行動は、単なる派遣使節の枠にとどまらず、現地社会で信任を得て活躍した国際的な文化人・知識人外交官の先駆といえるでしょう。
また、出発にあたって詠まれた和歌が『万葉集』に残されており、外交官としての姿と一人の人間としての葛藤が同時に伝わってきます。
わが背子を 大和へ遣ると 玉桙の 道のつら道に ま幸くありこそ
(『萬葉集(4)』巻十九・4271番)
この一首と彼の行跡は、奈良時代における「日本人としての国際的在り方」を体現したものとして、現代においても強い示唆を与えています。
参考文献
- 『国史大辞典 第12巻』藤原清河項、吉川弘文館、1991年
- 『続日本紀 蓬左文庫本 第5冊』吉岡眞之・石上英一、八木書店、1991年
- 小島憲之・木下正俊・東野治之 校注『萬葉集(4)』小学館〈新編日本古典文学全集〉、2004年