奈良時代、日本と唐との外交の最前線に立ち、ついに帰国を果たすことなく唐に没した一人の官人がいた──それが藤原清河(ふじわら の きよかわ)です。
藤原北家の名門に生まれ、遣唐使として渡航。帰国困難の中で唐の官僚組織に登用され、文化人・外交官として現地で活躍しました。
本記事では、彼の生涯と功績、そして『万葉集』に遺された二首の和歌から、その人物像に迫ります。
藤原清河の基本情報 ── 名門に生まれ唐で没した公卿
藤原清河(ふじわらの きよかわ)は、奈良時代中期に国際的な活躍を遂げた公卿です。
藤原鎌足の曾孫であり、藤原房前の四男として生まれ、名門・藤原北家に連なる出自を持ちました。
和歌や外交の分野で才を発揮し、遣唐大使として唐に渡ったのち、唐朝の高官に登用されるという異例の経歴を辿ります。
その生涯は、日本と唐の外交・文化交流の歴史を語るうえで、欠かせない存在となっています。
基本プロフィール
項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 藤原清河(ふじわら の きよかわ) |
出自 | 藤原北家(藤原房前の四男) |
生没年 | 生年不詳 ~ 宝亀8年(777年)頃か(※1) |
官位 | 従三位・参議・常陸守など(※2) |
唐での名 | 河清(かせい)/秘書監・特進などに任官 |
文化活動 | 和歌二首を『万葉集』巻十九に残す(4270・4271番歌) |
※1:没年は正確には不明。『続日本紀』巻三十五(宝亀10年正月17日条)に薨伝があり、日本の朝廷にその死が伝えられた時期を示します。『世界大百科事典』などでは、宝亀8年(777年)の遣唐使派遣時にはすでに客死していた可能性が高いとされます。
※2:日本に戻らず唐に留まったまま、文部卿・仁部卿・常陸守などに任じられました。没後、宝亀10年に従二位、承和3年(836年)には従一位が追贈されています。
(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原清河項、『世界大百科事典』藤原清河項、『日本人名大辞典』藤原清河項)
名門の出自と文化人としての素顔
清河は、教養と官歴に恵まれた藤原北家に生まれ、若くして官途につきました。
やがてその詩文の才は朝廷でも認められ、後年に至るまで高位に昇進します。
とりわけ、『万葉集』巻十九に残された二首の和歌は彼の文化人としての一面を伝えています。
天雲の 行きかへりなむ ものゆゑに 思ひぞ我がする 別れ悲しみ(4271番)
この歌は、遣唐使として出発する際の別れの悲しみを詠んだとされ、清河の望郷の情と旅立ちへの覚悟がにじむ作品です。
遣唐と仕官、そして異国での最期
750年(天平勝宝2年)、清河は遣唐大使に任命され、吉備真備・大伴古麻呂らとともに入唐。
唐の玄宗皇帝に謁見し、朝賀の儀では新羅との席次争いを制して日本の外交的立場を高めました。
しかし、帰国の途中で乗船が安南(現在のベトナム北部)に漂着し、同船者の多くが殺害されるという悲劇に遭遇します。
清河は命からがら生還し、再び長安に戻って仕官。以降は唐名「河清(かせい)」を名乗り、秘書監・特進などの高官に任ぜられました。
その後、日本では清河の帰国を願って遣唐使が繰り返し派遣されましたが、安史の乱による混乱で果たされることなく、最終的に唐にて客死したと見られます。
ただし、娘の喜娘(きじょう)のみは日本に帰国したと記録されています。
清河は、異国に骨を埋めながらも、外交官・文化人として国際的に活躍した先駆者でした。
新羅との外交成果や、唐朝での高官登用は、奈良時代の日本が東アジアにおいて一定の地位を確立していたことを示す、貴重な歴史的証言となっています。
年表で見る藤原清河の生涯
藤原清河の経歴は、唐との外交・文化交流と深く結びついています。以下の年表では、国内での昇進や遣唐大使任命から、漂着・仕官・客死に至るまでの主要な歩みを、信頼できる出典に基づいて整理します。
年代(西暦) | 元号 | 出来事 |
---|---|---|
(生年不詳) | – | 藤原房前の四男として誕生 |
740年 | 天平12 | 従五位下に叙される |
749年 | 天平勝宝元 | 参議に任じられる |
750年 | 天平勝宝2 | 遣唐大使に任命される |
752年 | 天平勝宝4 | 吉備真備・大伴古麻呂らと共に入唐 |
753年 | 天平勝宝5 | 正月の朝賀で新羅と席次争い。帰途、安南に漂着 |
754年以降 | – | 長安に戻り「河清」と称して唐朝に仕官、秘書監・特進となる |
755年 | 天平勝宝7 | 唐で安史の乱が勃発し、帰国困難に |
777年頃 | 宝亀8頃 | この頃までに唐で客死したと見られる |
779年 | 宝亀10 | 日本で薨伝が記録され、従二位を追贈される |
836年 | 承和3 | 従一位を追贈される |
(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原清河項、『続日本紀』巻三十五、『世界大百科事典』藤原清河項)
藤原清河をめぐる人物たちとその関係
藤原清河の人生は、名門の家柄に生まれたことに加え、唐での長期滞在による国際的な人脈や、家族とのつながりによって彩られています。ここでは彼と関わりの深い人物たちとの関係性を通じて、その人間像を立体的に掘り下げていきます。
父・藤原房前と清河の出自
藤原清河は、藤原不比等の子である藤原房前を父とし、藤原北家に属していました。
房前の兄弟には、藤原武智麻呂(南家の祖・長男)、藤原宇合(式家の祖・三男)、藤原麻呂(京家の祖・四男)がおり、この四人はそろって藤原四家の祖として知られています。
その中で清河は、北家の後裔として育ち、やがて摂関家に連なる一門の系譜に名を残すことになります。
(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原清河項)
同時代の留唐者・阿倍仲麻呂との接点
清河と同じく唐に渡った阿倍仲麻呂は、ともに詩文の才に秀でた文化人として知られています。
両者は玄宗皇帝に信任される高官として唐朝に仕え、日本と唐との外交・文化の懸け橋として活動しました。
帰国の途上、両者はそれぞれ遭難に巻き込まれましたが、いずれも生還し、再び長安へ戻ることになりました。
しかしその後、阿倍仲麻呂もまた清河と同様、日本に帰国することなく唐で生涯を終えました。
(出典:『国史大辞典 第12巻』阿倍仲麻呂項)
娘・喜娘(きじょう)と「異国の家族」
藤原清河は、唐滞在中に現地女性との間に娘・喜娘(きじょう)をもうけたと伝えられています。 『国史大辞典』によれば、清河は宝亀8年頃に唐で客死したとされ、その翌年、宝亀9年(778年)に娘の喜娘が遣唐使とともに日本へ渡来したと記録されています。
この出来事は、奈良時代における国際婚姻と親子の往還を示す貴重な事例として注目されています。
なお、来日後の喜娘の消息については史料に記録がありませんが、清河の外交官としての生涯に、家族的側面から光を当てる重要な証言となっています。
(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原清河項)
藤原清河が生きた国際環境とその意義
藤原清河の活動は、日本が国家としての国際的地位確立を模索していた時代に重なります。外交交渉・文化交流・政治的駆け引きが交錯する奈良時代の国際情勢の中、彼の果たした役割には大きな歴史的意義があります。
奈良時代の外交と遣唐使の目的
奈良時代における遣唐使の目的は、仏教や律令制の導入、国際的な正統性の確立にありました。
清河が遣唐大使として派遣された天平勝宝年間(749年以降)、唐は全盛期を誇っていましたが、後に安史の乱(755年〜763年)が発生し、唐は国内の混乱により深刻に疲弊しました。
この影響で、日本使節の帰還は困難となり、清河自身も帰国の機会を完全に失うこととなりました。
(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原清河項)
新羅との外交席次問題
天平勝宝5年(753年)、清河は正月の朝賀の儀において、日本使節が新羅より下位に置かれていた席次に異議を唱え、これを訂正させました。
この外交交渉は、当時の日本の独立性と国際的地位を示す象徴的な成果とされています。
(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原清河項)
官歴と唐での異例の登用
清河は日本で従五位下に叙せられたのち、天平勝宝元年(749年)に参議に任命され、翌年に遣唐大使として唐へ渡りました。
唐では河清(かせい)と改名し、秘書監(秘書省の長官)・特進に任じられるなど、外国人としては異例の高官に登用されています。
(出典:『国史大辞典』藤原清河項)
家族と国際的交流の痕跡
清河は唐滞在中、現地女性との間に娘・喜娘(きじょう)をもうけたとされています。 喜娘は宝亀9年(778年)、父の帰国を促すために派遣された遣唐使とともに日本へ渡来したと記録されています。
しかし、父である清河自身はこの頃すでに唐で客死していたと見られ、親子の再会は叶いませんでした。
また、清河の活動は、吉備真備・大伴古麻呂ら遣唐使の仲間たちとともに、日本と唐の文化的・人的ネットワークの形成に大きく寄与し、奈良時代における日本の国際的地位向上に重要な役割を果たしたといえるでしょう。
(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原清河項)
藤原清河の人物像と詠んだ和歌
藤原清河は、唐の玄宗皇帝から君子国の使臣として称賛された温厚で礼儀正しい人物として知られています。外交官・文化人として国際社会で信任を得ただけでなく、その詩文の才も高く評価されました。
清河の自作の和歌二首は『万葉集』巻十九に収められています。とくに以下の歌は、遣唐使としての出発に際し詠まれたもので、故国を離れる心境を率直に表現しています。
あらたまの 年の緒長く わが思へる 児らに恋ふべき 月近づきぬ
(『萬葉集(4)』小学館〈新編日本古典文学全集〉巻十九・4270番)
この歌からは、遠い異国に旅立つ清河の家族への思慕と望郷の情が強く感じられます。
また、しばしば誤解されることがありますが、同じ巻に収められた
わが背子を 大和へ遣ると 玉桙の 道のつら道に ま幸くありこそ
(4271番)
は、清河本人の歌ではなく、彼の無事を祈った妻(または近親の女性)の作とされています。清河を送り出す側の切なる願いが込められた一首です。
(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原清河項、『萬葉集(4)』小学館)
藤原清河が歴史上に成し遂げた功績
奈良時代、日本は国際的地位を模索し続ける中で、藤原清河は外交・文化両面で大きな足跡を残しました。
遣唐使としての功績
清河は天平勝宝2年(750年)に遣唐大使に任命され、吉備真備・大伴古麻呂らとともに唐の長安へ向かいました。
天平勝宝5年(753年)、玄宗皇帝に謁見した際、日本使節が新羅より下位に置かれていた席次について異議を唱え、訂正を実現させました。
この交渉は、日本の独立性と外交的自立性を象徴する成果とされています。
(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原清河項)
唐朝における官職と文化交流
帰国の途中、清河の船は暴風で漂流し、現地民の襲撃を受けた後、長安に戻りました。
彼は唐名「河清(かせい)」を名乗り、唐朝で秘書監・特進に任じられるなど、外国人としては異例の高官登用を果たしました。
その登用は、文才・人柄・礼節を備えた人物としての高い評価の証といえるでしょう。
清河の活動は、日本と唐の文化・人的ネットワークの形成にも寄与しました。
(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原清河項)
唐朝での活動と帰国の試み
安史の乱(755年〜763年)の混乱が長期化する中、清河の帰国は叶わず、最終的に宝亀8年(777年)頃に唐で客死したと見られています。
日本ではその功績を称え、承和3年(836年)に従一位を追贈しました。
また、娘の喜娘(きじょう)は宝亀9年(778年)、遣唐使とともに日本へ渡来したと記録されています。
(出典:『国史大辞典 第12巻』藤原清河項)
歴史に刻まれた藤原清河の生涯
藤原清河は、奈良時代において日本と唐の間で外交・文化の橋渡しを果たした先駆的な文化人・知識人外交官でした。
その詩歌や行跡は、国際社会に生きた一人の日本人としての姿を現代に伝えています。
参考文献
- 『国史大辞典 第12巻』藤原清河項、吉川弘文館、1991年
- 『続日本紀 蓬左文庫本 第5冊』吉岡眞之・石上英一、八木書店、1991年
- 小島憲之・木下正俊・東野治之 校注『萬葉集(4)』小学館〈新編日本古典文学全集〉、2004年