奈良時代前期、藤原不比等の遺志を継ぎ、兄弟たちと共に藤原氏の権力基盤を築いた「藤原四子」の一人が藤原宇合(ふじわらのうまかい)です。藤原式家の祖として知られ、軍事・行政・外交・文芸においても傑出した実力を示しました。ここでは、藤原宇合の役割とその歴史的意義を、主要出典に基づき解説します。
藤原宇合とは? – 藤原四子の一翼、式家を開いた実力派官人
藤原宇合は藤原不比等の三男として生まれ、兄の武智麻呂・房前、弟の麻呂と共に「藤原四子」と称され、政権の中枢で活躍しました。とくに軍事力や辺境統治に優れた実行力を発揮し、藤原式家の繁栄の礎を築いた人物です。
基本情報 – 藤原不比等の子、行動力ある文武の官人
項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 藤原宇合(ふじわらのうまかい/馬養とも書く) |
生没年 | 持統天皇8年(694年)頃 – 天平9年8月5日(737年) |
出自 | 父:藤原不比等、母:蘇我娼子(蘇我連子の娘) |
家系 | 藤原式家の祖 |
兄弟 | 武智麻呂(南家)、房前(北家)、麻呂(京家) |
官職歴 | 常陸守、式部卿、参議、大宰帥、西海道節度使など |
主要な活動 | 遣唐副使(716年任命、717年入唐、718年帰国)、持節大将軍(724年蝦夷反乱鎮圧)、長屋王の変(729年)、西海道節度使(732年、警固式制定) |
死因 | 天然痘(737年8月、藤原四兄弟同年没) |
子孫 | 広嗣、良継、百川、田麻呂、蔵下麻呂など |
墓所 | 不明 |
(出典:『国史大辞典』藤原宇合項、『世界大百科事典』藤原宇合項、『日本人名大辞典』藤原宇合項、『日本大百科全書(ニッポニカ)』藤原宇合項)
宇合の業績と生涯 – 武略と制度構築に長けた式家の礎
宇合の生涯は、文官としての実務能力に加え、武官としての胆力・軍事的手腕が際立っています。
- 遣唐副使として派遣(716年任命、717年入唐、718年帰国)。
- 724年、持節大将軍として陸奥の蝦夷反乱を鎮圧。
- 729年の長屋王の変では、兵を率いて長屋王邸を包囲。
- 732年、西海道節度使となり、九州・西国の防衛制度(警固式)を整備、大宰帥も兼務。
- 737年8月5日、流行した天然痘により死去。享年44歳。同年に藤原四兄弟全員が相次いで没しています。
(出典:『国史大辞典』藤原宇合項、『世界大百科事典』藤原宇合項、『日本人名大辞典』藤原宇合項、『日本大百科全書(ニッポニカ)』藤原宇合項)
宇合の人柄と教養 – 詩歌や文筆にも才能
宇合は武に秀でただけでなく、文化的教養にも優れていた人物です。
- 『懐風藻』には宇合の作とされる漢詩6首が収録されています。
- 『経国集』には賦文「棗賦」1首が伝わっています。
- 『万葉集』にも和歌6首が残されており、文筆・詩歌の才能を発揮しました。
宇合の文武両道の才能は、藤原式家の特徴の一つとなりました。
(出典:『国史大辞典』藤原宇合項、『世界大百科事典』藤原宇合項、『日本人名大辞典』藤原宇合項、『日本大百科全書(ニッポニカ)』藤原宇合項)
藤原宇合の歩みを知る年表
年代(西暦) | 出来事 |
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694年(持統天皇8年)頃 | 藤原不比等の三男として生まれる。 |
716年(霊亀2年) | 遣唐副使に任命される。 |
717年(養老元年) | 遣唐副使として入唐。 |
718年(養老2年) | 唐より帰国。その後、常陸守に任じられる。 |
720年(養老4年) | 父・不比等が死去し、藤原四兄弟が政権の中核を担う。 |
721年(養老5年)頃 | 式部卿に就任。 |
724年(神亀元年) | 持節大将軍として陸奥の蝦夷反乱を鎮圧。 |
726年(神亀3年)10月 | 知造難波宮事に任じられる。 |
729年(天平元年) | 長屋王の変で兵を率いて長屋王邸を包囲。 |
731年(天平3年) | 参議に昇進。 |
732年(天平4年) | 西海道節度使に任命され、大宰帥も兼務。 |
737年(天平9年) | 8月5日、天然痘により死去(享年44歳)。兄弟も同年相次いで没。 |
(出典:『国史大辞典』藤原宇合項、『世界大百科事典』藤原宇合項、『日本人名大辞典』藤原宇合項、『日本大百科全書(ニッポニカ)』藤原宇合項)
藤原氏の御曹司・藤原宇合 – 父・不比等と「四兄弟」
藤原宇合の生涯を理解するには、父・藤原不比等の巨大な政治的遺産と、「藤原四子」と呼ばれた兄弟たちの存在が不可欠です。不比等がどのような国家基盤を築き、四兄弟がどのように藤原氏の主流派閥となったのかを解説します。
父・藤原不比等 – 律令国家の屋台骨を築いた傑物
藤原不比等(659-720)は藤原鎌足の次男で、持統・文武・元明・元正の四代に仕えました。大宝律令・養老律令の編纂主宰、平城遷都への関与、天皇家との婚姻政策による特権的な地位の確立が最大の特徴です。不比等の男子四人は南家・北家・式家・京家の祖となり、女子も有力皇族・貴族の室となるなど、藤原氏が皇室と密接な関係を持つ特権貴族に成長する礎となりました。
また、不比等は仏教にも深く帰依し、興福寺建立や維摩会の創設にも尽力しました。
(出典:『国史大辞典』藤原不比等項)
藤原四兄弟とは誰? – 武智麻呂・房前・宇合・麻呂の結束と役割
不比等の四人の男子は、それぞれ藤原氏の「四家」の祖となりました――
- 長男:武智麻呂(680-737) 藤原南家の祖。大学頭や式部卿、大納言を経て右大臣まで昇進し、藤原氏の代表格として政界を主導しました。死に際して正一位・左大臣に任じられたがまもなく死去し、のちに太政大臣を追贈されました。
- 次男:房前(681-737) 藤原北家の祖。行政手腕が高く、内臣や中衛大将、東海東山両道節度使を歴任。参議民部卿正三位で没し、死後まず正一位・左大臣を贈られ、のちに太政大臣を追贈されました。
- 三男:宇合(694?-737) 藤原式家の祖。軍事・行政両面で活躍し、式部卿・参議・大宰帥・西海道節度使など歴任しました。
- 四男:麻呂(?-737) 藤原京家の祖。兵部卿・参議、持節大使として陸奥・出羽路建設を指揮。兵部省卿宅とされる木簡も平城京跡から出土しています。
この四兄弟が「藤原四子」として協力し、政界の主導権を握ったのです。
特に長屋王の変(729年)で連携し、政敵・長屋王を排除したことが、藤原政権の確立に直結しました。
(出典:『国史大辞典』藤原不比等項・藤原武智麻呂項・藤原房前項・藤原麻呂項・藤原宇合項)
なぜ「式家」の祖と呼ばれるのか? – 宇合と藤原式家の始まり
藤原宇合は、式部卿を長く務めたことに由来し、子孫の系統は「藤原式家」と呼ばれます。
その子孫には広嗣(広嗣の乱)や良継・百川らが現れ、奈良時代中期以降も政治的影響力を持つ一族となりました。
(出典:『国史大辞典』藤原宇合項)
藤原宇合の奈良時代の政争と軍事 – 長屋王の変と宇合の武断的側面
藤原四兄弟が政権主流となる過程で、最大の障害となったのが長屋王でした。宇合はこの政争で武人としての実力を発揮し、藤原氏の権力確立に貢献しました。
長屋王の変(729年) – 藤原氏による政敵排除
長屋王(皇親)は政界で強大な影響力を持っていましたが、天平元年(729年)2月に謀反の疑いをかけられて自害しました。この事件において藤原四兄弟は結束して長屋王の排除にあたったとされます。特に『国史大辞典』藤原宇合項は、宇合が兵を率いて長屋王邸を包囲したと具体的に記しており、事件への深い関与を示しています。
この出来事によって皇親勢力である長屋王が排除され、藤原四子政権への転機となりました。
(出典:『国史大辞典』藤原宇合項)
武人としての宇合 – 大宰帥としての九州統治と対外政策
宇合は天平4年(732年)に西海道節度使となり、大宰帥も兼ねて九州防衛や国境警備(警固式の制定)を担いました。
また神亀元年(724年)には持節大将軍として陸奥の蝦夷の反乱鎮圧にも出征しました。
このように、軍事と行政の両面で活躍した「現場型官人」の特質が顕著です。
(出典:『国史大辞典』藤原宇合項)
藤原四子政権と藤原宇合の役割
長屋王の変後、藤原四兄弟は「藤原四子政権」を築き、宇合は実務・軍事・外交の要を担いました。
兄弟間の連携と政権運営
四兄弟は南家・北家・式家・京家の各祖として連携しつつ、朝廷の政務にあたりました。
武智麻呂は右大臣、房前は内臣・中衛大将・節度使、宇合は式部卿・大宰帥・西海道節度使、麻呂は兵部卿・持節大使としてそれぞれ要職を歴任しました。
宇合はとくに実務・軍事分野で中央と地方をつなぐ要の存在でした。
(出典:『国史大辞典』藤原宇合項・藤原武智麻呂項・藤原房前項・藤原麻呂項)
宇合の政治的手腕と評価
宇合は現場型の実務官僚として軍事や地方統治に手腕を発揮し、長屋王の変や九州防衛などで見せたその決断力と実行力は高く評価されています。
その現実主義的な実践派特質は、子孫の広嗣・百川らにも継承されました。
(出典:『国史大辞典』藤原宇合項)
突然の終焉 – 天然痘の猛威と藤原宇合の死因
順調に政権基盤を築いていた藤原四子でしたが、その栄光は突然の終焉を迎えます。天平9年(737年)、奈良時代を襲った疫病の大流行は国家中枢を直撃し、日本の政治構造に大きな転機をもたらしました。
天平の疫病大流行(737年) – 国家を揺るがしたパンデミック
天平9年、当時の日本では疫病(通説では天然痘)が猛威を振るい、多数の高官が病没して政務機構が一時的に機能不全に陥りました。この疫病は都市部や貴族社会にも深刻な被害を及ぼしたとされます。こうした危機を契機に聖武天皇は仏教による鎮護国家政策を進め、のちの東大寺大仏造立につながる信仰政策が形成されたとされています。
藤原四兄弟、相次いで斃れる – 宇合の死因と藤原氏の危機
この疫病の影響を最も大きく受けたのが、政権を担っていた藤原四兄弟でした。天平9年(737年)、まず次兄の房前(4月)、次いで末弟の麻呂(7月)、長兄の武智麻呂(7月)、そして宇合(8月)が、数ヶ月の間に相次いで病没し、藤原四子政権は事実上崩壊しました。
『国史大辞典』藤原宇合項によれば、宇合は天平9年8月5日に「流行した疫病のため」没しており、参議・式部卿・大宰帥・正三位の官にありました。なお「流行した疫病」とあるのみで、病名は明記されていませんが、通説として天然痘とされます。
(出典:『国史大辞典』藤原宇合項・藤原武智麻呂項・藤原房前項・藤原麻呂項)
藤原宇合と関連人物とのつながり
藤原宇合の生涯は、父・不比等、兄弟たち、そして政敵との関係抜きには語れません。
父・藤原不比等 – 偉大な政治家の息子として
宇合の父・不比等は、律令国家体制を築いた藤原氏の巨人です。不比等没後、四人の男子は「藤原四子」として政権を担い、宇合にとっては大きな影響を与える存在でした。
(出典:『国史大辞典』藤原不比等項・藤原宇合項)
兄弟(藤原武智麻呂、房前、麻呂) – 「藤原四子」としての結束と各家の祖
宇合は三男として兄弟と協調し、それぞれ南家・北家・式家・京家の祖となりました。宇合の藤原式家は、後に広嗣・百川・良継・緒嗣らを輩出し、奈良から平安初期の政界で存在感を持つことになります。
(出典:『国史大辞典』藤原宇合項・藤原武智麻呂項・藤原房前項・藤原麻呂項)
政敵・長屋王 – 奈良時代前期の最大のライバル
長屋王(684-729)は高市皇子の子で、天武天皇系皇親として大納言・左大臣まで昇りつめた人物です。藤原氏との関係は、和銅年間の側室関係や昇進競争などで深化しつつも、養老四年の不比等没後は王が政権担当者となりました。天平元年(729年)には密告により邸宅を兵で囲まれ、十二日自尽。王夫妻の墓は現在の奈良県生駒郡平群町にあります。
(出典:『国史大辞典』長屋王項)
天皇たち(元正天皇、聖武天皇)との関係
宇合は元正天皇・聖武天皇両代に仕え、聖武天皇期には大宰帥など要職を歴任し信任を受けていたとみられます。天皇との個人的な交流に関する一次記録は少ないため、評価には慎重さが必要です。
(出典:『国史大辞典』藤原宇合項)
歴史に刻まれた藤原宇合 – 式家隆盛の礎と奈良朝の武断派官僚
藤原宇合は律令国家創成期において、政治・軍事の両面で実務を担い、藤原式家の祖として歴史に大きな足跡を残しました。
藤原宇合の評価 – 武断的側面と政治的手腕
宇合は特に軍事・外交に明るい実務官僚として知られ、中央では式部卿、地方では大宰帥を歴任し、二面性ある行政能力を発揮しました。「長屋王の変」において兵を率いた記録が残るなど、現実主義的な強硬派の側面も特徴です。
(出典:『国史大辞典』藤原宇合項)
なぜ藤原式家は北家ほどには…? その後の式家の運命
宇合の死後、式家は一時的な隆盛を見ましたが、長男・広嗣の乱(740年)によって一時衰退。百川・良継らが再興を図りましたが、北家ほどの長期繁栄には至りませんでした。式家には武断的かつ実務に長けた人物が多く、調整力の不足が課題とも評価されます。
(出典:『国史大辞典』藤原宇合項・藤原百川項・藤原良継項・藤原広嗣項)
藤原宇合の子孫たち – 歴史を彩った式家の人々
藤原広嗣(?-740):宇合の長男。式家の中心人物。藤原広嗣の乱の首謀者として知られる。大宰少弐に左遷され、天平12年(740年)に挙兵したが敗北し、肥前国松浦郡値嘉島で斬殺された。この乱で式家は一時衰退を余儀なくされた。
藤原良継(716-777):宇合の第二子。はじめ宿奈麻呂。天平12年(740年)兄の反に連座し伊豆に流されるが赦され昇進。仲麻呂の専権に抗い一時失脚、後に内大臣従二位に至る。娘乙牟漏は桓武天皇皇后、所生の平城天皇が即位したことで外祖父として正一位太政大臣を追贈。
藤原百川(732-779):宇合の八男。はじめ雄田麻呂。称徳天皇崩御後、藤原永手らと光仁天皇(白壁王)を擁立、道鏡の政権を排除し山部親王(桓武天皇)の立太子に力があった。没時は参議従三位中衛大将兼式部卿。女旅子は桓武天皇夫人・淳和天皇母で、百川は外祖父として太政大臣正一位を贈られた。
藤原緒嗣(774-843):百川の長子。桓武天皇に恩寵され、延暦7年元服時に天皇より加冠。参議・右大臣・左大臣などを歴任し、民政を重んずる政論家としても著名。『新撰姓氏録』『日本後紀』編纂にも尽力した。
(出典:『国史大辞典』藤原広嗣項・藤原良継項・藤原百川項・藤原緒嗣項)
藤原宇合の墓とゆかりの地
宇合の墓所については、国史大辞典等の主要文献には記載がなく、現在不明です。大宰帥を務めた関係で、太宰府政庁跡(福岡県太宰府市)は宇合ゆかりの地といえるでしょう。
(出典:『国史大辞典』藤原宇合項)
参考文献
- 『国史大辞典』、国史大辞典編集委員会 編、吉川弘文館、1979-1997年(全15巻)
- 『世界大百科事典 第2版』、平凡社、2005年
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』、小学館、1984-1994年
- 『日本人名大辞典』、講談社、2001年