松平春嶽(慶永)は何をした人?幕末四賢侯、改革と公武合体に奔走した苦悩の生涯

幕末、激動の日本を動かした「四賢侯」の一人、松平春嶽(慶永)。名門徳川一族に生まれながら、開明的な思想で藩政改革や幕政改革に挑み、公武合体運動の中心となるも、理想と現実の狭間で苦悩しました。この記事では、彼が何をした人で、どのような理想を持ち、幕末史にどんな足跡を残したのか、信頼できる資料に基づき、初心者にも分かりやすく解説します。

  1. 松平春嶽(慶永)とは? – 幕末四賢侯の一人、改革派藩主の実像
    1. 基本情報 – 徳川一門出身の改革派藩主
  2. 松平春嶽(慶永)の歩みを知る年表
  3. 松平春嶽(慶永)と越前福井藩 – 藩政改革にかける情熱
    1. 若き藩主の挑戦 – 藩の課題と改革への決意
    2. 有能なブレーンたち – 中根雪江、鈴木主税、橋本左内、横井小楠の登用
    3. 福井藩藩政改革の具体的な内容
  4. 松平春嶽(慶永)、中央政界へ – 幕政改革と公武合体の理想
    1. 将軍継嗣問題で徳川慶喜を推す – 一橋派の中心として
    2. 安政の大獄 – 一橋派への弾圧と春嶽の隠退
    3. 復権、そして政事総裁職へ – 公武合体運動の旗手
    4. 理想と現実の壁 – 公武合体運動の行き詰まりと辞任
  5. 松平春嶽(慶永)と明治維新 – 新時代への関わりと晩年
    1. 大政奉還と新政府樹立への動き
    2. 徳川救済への尽力と構想の崩壊
    3. 明治政府での活動と早期引退
    4. 晩年の春嶽 – 『逸事史補』に綴られた思い
  6. 松平春嶽(慶永)と関連人物とのつながり
    1. 運命を共にした側近 – 橋本左内、由利公正
    2. 幕末四賢侯 – 山内容堂らとの連携とライバル意識
    3. 徳川慶喜 – 擁立から最後まで続いた複雑な関係
    4. 思想的影響 – 横井小楠
  7. 歴史に刻まれた松平春嶽(慶永) – 賢侯の功績、苦悩、そして遺したもの
    1. 藩政改革と人材育成 – 福井藩に残した遺産
    2. 幕政改革・公武合体への尽力とその挫折
    3. 「英明か、優柔不断か」 – 多面的な人物評価
    4. 春嶽が現代に伝えるもの – 改革者の情熱と苦悩
    5. 松平春嶽ゆかりの地
  8. 参考文献

松平春嶽(慶永)とは? – 幕末四賢侯の一人、改革派藩主の実像

まずは松平春嶽(慶永)がどのような人物だったのか、その基本的なプロフィールと、英明さ理想主義が同居した人となりを見ていきましょう。

基本情報 – 徳川一門出身の改革派藩主

項目内容
名前松平 慶永(まつだいら よしなが)
春嶽(しゅんがく) ※一般に「春嶽」の号で知られるが、『国史大辞典』によれば「隠居後は春岳の号を通称に用いた」とされる。藩主としての活動期は実名の「慶永」が正式な名乗りであった。
生没年文政11年(1828年) – 明治23年(1890年)
出自田安徳川家第3代・斉匡の八男。天保9年(1838)、将軍徳川家慶の命により、越前福井藩第16代藩主となる。
藩主在任天保9年(1838年)~安政5年(1858年)※隠居謹慎により退任
幕府での役職政事総裁職として、幕政改革に従事。
新政府での役職内国事務総督、議定、民部卿、大蔵卿、大学別当、侍読などを歴任。
関連人物家臣・ブレーン: 中根雪江、鈴木主税、村田氏寿、橋本左内、横井小楠/政治的盟友: 山内豊信(容堂)、伊達宗城、島津斉彬(四賢侯)/関係した幕府要人: 徳川斉昭、徳川慶喜、井伊直弼
墓所東京都品川区南品川の海晏寺

(出典:『国史大辞典』松平慶永項)

四賢侯とは、松平春嶽・山内容堂・伊達宗城・島津斉彬の4名を指します。

松平春嶽(慶永)の歩みを知る年表

徳川一門に生まれ、若くして藩主となり、幕末の政局で調停と改革に尽力、明治を迎えるまで。松平春嶽(慶永)の激動の生涯を年表で振り返ります。

年代(西暦)出来事・春嶽の動向
1828年(文政11年)江戸城内田安邸にて、御三卿・田安徳川家第3代斉匡の八男として誕生。
1838年(天保9年)将軍徳川家慶の命で、越前福井藩主・松平斉善の養嗣子となり、第16代藩主に就任。「慶永」を称する。
1839年(天保10年)〜中根雪江・鈴木主税・村田氏寿・橋本左内らを登用し、財政改革・兵制刷新・藩校「明道館」創設・種痘館設立など、革新的な藩政改革に着手。
1853年(嘉永6年)ペリー来航に際し、徳川斉昭に心服し、幕府の指導力強化と攘夷論を主張
1857年(安政4年)将軍継嗣問題で一橋慶喜を推戴する中心的役割を果たし、島津斉彬・山内容堂・伊達宗城らと連携。
1858年(安政5年)大老井伊直弼と対立し、「不時登城」の罪で隠居・謹慎処分。家督を松平茂昭(直廉)に譲る。
1859年(安政6年)側近の橋本左内が安政の大獄で刑死、大きな痛手となる。
1862年(文久2年)島津久光の活動などに応じる形で幕府から謹慎を解かれ、政事総裁職に就任し政界復帰。
1863年(文久3年)諸侯会議を提案し上京。朝廷からの攘夷実行圧力に反対し、政事総裁職を辞任・帰国。
1867年(慶応3年)大政奉還に向けて調整に奔走。王政復古前に再び上京し、国事周旋に尽力。
1868年(明治元年)新政府の議定となり、徳川家の存続に尽力
1869年(明治2年)民部卿・大蔵卿を兼任し、明治政府の運営に参加。
1870年(明治3年)官職を辞し、以後は文筆活動や史料編纂(『逸事史補』『徳川礼典録』)に専念。
1890年(明治23年)東京小石川の邸宅で死去。享年63。墓所は東京都品川区の海晏寺

(出典:『国史大辞典』松平慶永項、『世界大百科事典』松平慶永項、『日本人名大辞典』松平慶永項、『日本大百科全書』松平慶永項)

松平春嶽(慶永)と越前福井藩 – 藩政改革にかける情熱

若くして藩主となった松平春嶽は、疲弊した藩を立て直すため、優れた人材を登用し、意欲的な改革に取り組みました。その具体的な内容と成果を見ていきます。

若き藩主の挑戦 – 藩の課題と改革への決意

春嶽が藩主に就任した当時、福井藩は累積債務と慢性的な財政難に苦しんでいました。藩政の旧弊を打破するべく、彼は若くして抜本的な改革に踏み切ります。特に、学問・政治への高い関心危機感が改革の原動力となりました。

有能なブレーンたち – 中根雪江、鈴木主税、橋本左内、横井小楠の登用

春嶽は、中根雪江・鈴木主税・村田氏寿・橋本左内などを家臣に抜擢し、熊本藩士・横井小楠も顧問的に登用するなど、人材重視の藩政運営を実践しました。彼らの力を借りて、財政・兵制・教育など各分野の大改革を次々に実現していきます。

福井藩藩政改革の具体的な内容

松平春嶽は藩主就任後、誠実・謹直で明敏な資質をもって藩政改革を断行しました。主な実績として、

  • 藩財政の立て直し
  • 兵制の刷新
  • 種痘館の設立
  • 藩校「明道館」の創設
  • 殖産興業策の振興

などがあり、福井藩を幕末期における有力な親藩の一つへと押し上げました。これらは家臣・ブレーンの力を活用した実績であり、幕政改革にもつながる礎となりました。

(出典:『国史大辞典』松平慶永項、『世界大百科事典』松平慶永項、『日本人名大辞典』松平慶永項、『日本大百科全書』松平慶永項)

松平春嶽(慶永)、中央政界へ – 幕政改革と公武合体の理想

藩政改革で成果を上げた春嶽は、その識見行動力をもって中央政界へと進出します。将軍継嗣問題、そして公武合体運動における彼の役割と苦悩を追います。

将軍継嗣問題で徳川慶喜を推す – 一橋派の中心として

将軍継嗣問題が表面化すると、春嶽は徳川慶喜を将軍後継候補として推し、一橋派の中心人物として活動を開始します。その背景には、英明な人物として知られた慶喜の資質に期待したことや、島津斉彬ら開明派大名との連携もありました。

これに対し、大老・井伊直弼を中心とする南紀派は、紀州藩主・徳川慶福(のちの家茂)を推し、幕府内の対立は激化していきます。春嶽のこうした政治活動は、幕政関与への端緒となりました。

(出典:『国史大辞典』松平慶永項、『世界大百科事典』松平慶永項、『日本人名大辞典』松平慶永項、『日本大百科全書』松平慶永項)

安政の大獄 – 一橋派への弾圧と春嶽の隠退

将軍継嗣問題で一橋派が勢力を増すなか、南紀派を支持する大老・井伊直弼は、安政5年(1858)6月、慶喜擁立派諸侯の「不時登城」事件を口実に、松平春嶽・徳川斉昭・山内容堂らに隠居・謹慎の処分を下しました。春嶽は家督を松平茂昭(直廉)に譲り、政治の第一線から退くことになります。

翌安政6年(1859)には、安政の大獄の一環で最も信頼を寄せていた側近・橋本左内が刑死。この事件は春嶽にとって深い精神的打撃となりました。以後、春嶽は政治的沈黙を強いられる時期に入ります。

(出典:『国史大辞典』松平慶永項、『世界大百科事典』松平慶永項、『日本人名大辞典』松平慶永項、『日本大百科全書』松平慶永項)

復権、そして政事総裁職へ – 公武合体運動の旗手

桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、幕府方針は公武合体路線へ転換。これを受けて文久2年(1862)、春嶽は謹慎を解かれて政界に復帰し、幕府の政事総裁職に就任しました。この役職は幕政全般の統轄を担う事実上の最高責任者であり、春嶽は就任直後から幕府の私政的体制を厳しく批判し、諸藩の意見を幕政に反映すべきだと主張します。

とくに彼は、参勤交代制度の緩和幕臣の特権是正など、封建制度の改革に着手。将軍後見職の一橋慶喜とともに幕政改革にあたりましたが、幕権の維持強化を重視する慶喜とは、必ずしも意見の一致を見ませんでした

それでも春嶽は、朝廷と幕府が協調して国政を運営する「公武合体」を理想に掲げ、将軍継嗣問題から続く政争の収拾と体制改革に尽力しました。

(出典:『国史大辞典』松平慶永項、『世界大百科事典』松平慶永項、『日本人名大辞典』松平慶永項、『日本大百科全書』松平慶永項)

理想と現実の壁 – 公武合体運動の行き詰まりと辞任

公武合体という春嶽の理想は、朝廷内の尊攘派や幕府内の保守派、薩摩・長州などの雄藩との方針対立により、次第に実現困難な状況に追い込まれていきました。文久3年(1863)、朝廷が攘夷決行の期日を定めるよう幕府に迫ると、春嶽はこれに反対し、政令を幕府に一本化する「政令帰一論」を主張します。

しかし、その主張は受け入れられず、春嶽は政事総裁職を辞任。さらに、幕府の許可を得ずに越前へ帰国し、長州藩に対して攘夷の延期を要請するなど独自に圧力をかけました。この行動は、公武合体構想が政治現実の中で限界に達したことを示しており、政局はやがて大政奉還・王政復古の大号令へと雪崩を打ちます。

(出典:『国史大辞典』松平慶永項、『世界大百科事典』松平慶永項、『日本人名大辞典』松平慶永項、『日本大百科全書』松平慶永項)

松平春嶽(慶永)と明治維新 – 新時代への関わりと晩年

幕府の要職を辞した春嶽ですが、大政奉還、そして明治維新という歴史の転換点に再び関わることになります。新時代における彼の役割と、その後の人生を見ていきましょう。

大政奉還と新政府樹立への動き

幕府の権威が失われていく中で、春嶽は再び徳川慶喜と連携し、大政奉還の建白に関与しました。この動きは内戦を避けるための和平策でもあり、彼の政治的理想を象徴するものです。

王政復古の大号令ののち、新政府では「議定」という要職に任命され、新体制への移行に協力しました。

(出典:『国史大辞典』松平慶永項、『世界大百科事典』松平慶永項、『日本人名大辞典』松平慶永項、『日本大百科全書』松平慶永項)

徳川救済への尽力と構想の崩壊

春嶽は新政府の議定として、旧幕府の「辞官納地(役職・領地の返上)」に際し、円滑な処理を調整する中心人物となりました。さらに、徳川慶喜の朝政復帰を模索していたものの、慶応4年正月の鳥羽・伏見の戦で徳川家は朝敵とされ、春嶽の公武合体構想は潰えることとなりました

(出典:『国史大辞典』松平慶永項、『世界大百科事典』松平慶永項、『日本人名大辞典』松平慶永項、『日本大百科全書』松平慶永項)

明治政府での活動と早期引退

春嶽は明治政府において、内国事務総督・議定・民部卿・大蔵卿・大学別当・侍読など多くの役職を歴任しました。とくに大学別当・侍読としては新政府の教育制度編成に関与し、国学と儒学の対立や、行政官と教育官の摩擦を調整しようと尽力しました。

しかし、こうした諸課題の調整は思うように進まず、明治3年(1870)にすべての官職を辞して政界を退くに至ります。

(出典:『国史大辞典』松平慶永項、『世界大百科事典』松平慶永項、『日本人名大辞典』松平慶永項、『日本大百科全書』松平慶永項)

晩年の春嶽 – 『逸事史補』に綴られた思い

晩年の松平春嶽は、政治的回顧と記録に積極的に取り組みました。とくに『逸事史補』は、幕末維新期の政局や人物評を収録した回想録として知られています。

さらに彼は、儀礼制度や政治運営の記録として『幕儀参考』を著し、晩年には伊達宗城らとともに『徳川礼典録』の編纂にも参画し、旧幕府の儀礼制度を記録・体系化することに努めました。

これらは旧幕府体制の政治文化を後世に伝える意図をもった著述活動であり、史料的価値も高いとされます。

明治23年(1890)6月2日、東京府小石川区関口台町の邸宅にて死去。享年63。墓所は東京都品川区南品川の海晏寺にあります。

(出典:『国史大辞典』松平慶永項、『世界大百科事典』松平慶永項、『日本人名大辞典』松平慶永項、『日本大百科全書』松平慶永項)

松平春嶽(慶永)と関連人物とのつながり

松平春嶽の生涯は、多くの重要な歴史人物との関わりの中で形作られました。ここでは、特に影響力の大きかった人物との関係を見ていきます。

運命を共にした側近 – 橋本左内、由利公正

春嶽の藩政改革を支えた中核人物橋本左内由利公正(三岡八郎)でした。春嶽は彼らの才能を早くから見抜き、年齢や身分にとらわれず登用しています。橋本は政治思想や藩政理念の形成において春嶽の最も信頼する助言者であり、由利は財政や制度改革の実務面で重要な役割を果たしました。

安政の大獄で橋本左内が処刑された際、春嶽は後年の回想録『逸事史補』において、左内の死を深い悲しみとともに記録しており、その喪失は春嶽に大きな精神的打撃を与えたことがうかがえます。

(出典:『国史大辞典』松平慶永項、『世界大百科事典』松平慶永項、『日本人名大辞典』松平慶永項、『日本大百科全書』松平慶永項)

幕末四賢侯 – 山内容堂らとの連携とライバル意識

春嶽と並び称される「幕末四賢侯」には、山内容堂(土佐藩)、伊達宗城(宇和島藩)、島津斉彬(薩摩藩)がいます。彼らとは将軍継嗣問題や幕政改革、公武合体構想の中で協調・連携しながらも、ときに意見の違いから対立することもありました。

特に山内容堂とは政治理念の近さがありながらも、それぞれの立場や考え方の違いから、協調と対立を繰り返す複雑な関係でした。

(出典:『国史大辞典』松平慶永項、『世界大百科事典』松平慶永項)

徳川慶喜 – 擁立から最後まで続いた複雑な関係

春嶽が将軍継嗣として強く推したのが徳川慶喜でした。若き日の慶喜に期待を寄せた春嶽は、その聡明さと時代に対する柔軟な姿勢に惹かれ、たびたび政治的な後押しを行っています。

しかし、公武合体運動や大政奉還の過程で慶喜の判断や行動に疑問や失望を抱くこともあったようです。とはいえ、明治に至っても書簡のやり取りが続いており、両者の間には複雑ながらも深い信頼関係があったとみられます。

(出典:『国史大辞典』松平慶永項、『日本大百科全書』松平慶永項)

思想的影響 – 横井小楠

横井小楠は、熊本藩出身の儒学者・思想家として春嶽に大きな影響を与えました。春嶽は藩政改革期に彼を顧問的立場で招き、政治思想や教育・制度改革に関する多くの助言を受けています。

横井の合理主義的で道徳と国政を融合させる政治観は、春嶽が中央政界で目指した公武合体や幕政改革にも色濃く反映されました。

(出典:『国史大辞典』松平慶永項、『日本大百科全書』松平慶永項)

歴史に刻まれた松平春嶽(慶永) – 賢侯の功績、苦悩、そして遺したもの

藩政改革、幕政参与、そして明治へ。松平春嶽の生涯は、幕末という時代の縮図とも言えます。彼の功績と苦悩、そして歴史に何を残したのかを振り返ります。

藩政改革と人材育成 – 福井藩に残した遺産

春嶽は若くして藩政改革に取り組み、福井藩の近代化の土台を築きました。特に財政再建、軍制改革、教育制度の整備を通じて、福井藩を開明的な藩へと転換させた点は特筆されます。

また、彼が登用した橋本左内や由利公正らは、後の幕末・維新の政局で重要な役割を果たしており、春嶽の人材育成の眼力と功績は高く評価されています。

(出典:『国史大辞典』松平慶永項、『世界大百科事典』松平慶永項)

幕政改革・公武合体への尽力とその挫折

春嶽は藩主としての実績をもとに幕政に参画し、政事総裁職として公武合体運動を主導しました。朝廷と幕府をつなぐ調停役としての役割を果たすことで、内戦の回避を目指したのです。

しかし、朝廷内の尊攘派や幕府の保守勢力、雄藩との利害の対立などによって、その構想は次第に行き詰まり、政事総裁職を辞する結果となります。ここに春嶽の理想と現実のギャップが明確に表れました。

(出典:『国史大辞典』松平慶永項、『日本人名大辞典』松平慶永項)

「英明か、優柔不断か」 – 多面的な人物評価

春嶽はその学識と政治的先見性から「英明な賢侯」と称される一方で、決断力に欠けるという批判も受ける人物です。将軍継嗣問題や幕政改革においては、重要な局面での決断の遅れや逡巡が指摘されることもありました。

しかしその反面、情勢を冷静に見極めて行動する慎重さや調停能力は、戦乱を回避する上で大きな力となったともいえます。この多面性こそが、松平春嶽という人物の人間味ある魅力の一端を成しています。

(出典:『国史大辞典』松平慶永項、『日本大百科全書』松平慶永項)

春嶽が現代に伝えるもの – 改革者の情熱と苦悩

松平春嶽の歩みは、変革期におけるリーダーの姿を現代に問いかけています。急進的な革命ではなく、対話と調整による改革を目指した彼の姿勢は、今なお示唆に富んでいます

また、自らの見聞や思索を回想録『逸事史補』として記録に残した姿勢からは、歴史を後世に伝える意志と誠実さがうかがえます。彼の記録は、当時の政治や人物の動静を知る貴重な史料です。

(出典:『国史大辞典』松平慶永項、『日本大百科全書』松平慶永項)

松平春嶽ゆかりの地

  • 福井城址・福井市立郷土歴史博物館(福井県福井市)
  • 明道館跡(福井県福井市)
  • 橋本左内墓所(福井県福井市、東京都荒川区)
  • 海晏寺(東京都品川区):春嶽の墓所。側近の由利公正も同じ寺に眠る
  • 福井藩主松平家別邸 養浩館庭園(福井県福井市)

(出典:『国史大辞典』松平慶永項、『世界大百科事典』松平慶永項、『日本人名大辞典』松平慶永項、『日本大百科全書』松平慶永項)

参考文献

  • 『国史大辞典』、国史大辞典編集委員会 編、吉川弘文館、1979-1997年(全15巻)
  • 『世界大百科事典 第2版』、平凡社、2005年
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』、小学館、1984-1994年
  • 『日本人名大辞典』、講談社、2001年

私は普段、IT企業でエンジニアとして働いており、大学では化学を専攻していました。

歴史に深く興味を持つようになったきっかけは、NHK大河ドラマ『真田丸』でした。戦国の武将たちの信念や葛藤、時代のうねりに惹かれ、それ以来、特に戦国時代を中心に歴史の世界を探求しています。

理系出身ということもあり、気になるテーマに出会うと、書籍・論文・学術系ウェブサイトなどを徹底的に調べてしまう癖があります。最近では『戦国人名辞典』(吉川弘文館)などを読み込み、また縁の地も訪問しながら理解を深めています。

記事を執筆する際は、Wikipediaなどの便利な情報源も参考にはしますが、できる限り信頼性の高い文献や公的機関の資料を優先し、複数の情報を照合するように努めています。また、諸説ある場合はその旨も明記し、読者に判断を委ねる姿勢を大切にしています。

本業のエンジニアとして培ってきた「情報の構造化」や「素早いインプット」のスキルを活かして、複雑な歴史的出来事も整理して伝えることを心がけています。初心者ならではの視点で、「かつての自分と同じように、歴史に興味を持ち始めた方」の一助となる記事を目指しています。

まだまだ歴史学の専門家ではありませんが、誠実に歴史と向き合いながら、自分の言葉で丁寧にまとめていきたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。

日本史江戸
シェアする
タイトルとURLをコピーしました