大坂の陣で真田幸村と共に豊臣方最後の輝きを放った猛将・毛利勝永(もうり かつなが)。関ヶ原での敗北と土佐での蟄居という不遇を経ながらも、なおも豊臣家への忠義を貫き、大坂城での最期に向かって壮絶な戦いを繰り広げました。 彼の生涯は、名門森家に生まれ、豊臣家に仕えた前半生、関ヶ原での敗北と土佐での雌伏、そして大坂の陣で最後の輝きを放つという、大きく三つの時期に分けて理解することができます。本記事では、その劇的な人生と大坂の陣での目覚ましい奮戦ぶりに迫ります。
毛利勝永とは? – 豊臣恩顧に生きた不屈の将
毛利勝永は、関ヶ原の戦いで西軍につき改易された後、十数年にわたり土佐藩で蟄居しながらも、なお豊臣家への忠誠を失わなかった不屈の武将です。 大坂の陣では真田幸村と並び称される活躍を見せ、豊臣家最後の防波堤となって壮絶な戦死を遂げました。その忠義と武勇は、後世まで高く評価されています(『毛利勝永』今福匡 2016: 34頁)。
基本情報 – 森一族から豊臣家臣へ
項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 毛利 勝永(もうり かつなが) |
旧姓 | 森 勝永(もり かつなが) |
生没年 | 永禄11年(1568年)(永禄11年(1568年)生まれ説が有力だが、天正5年(1577年)説も存在する。) – 元和元年5月8日(1615年6月4日)※生年は諸説あり |
出自 | 織田家臣・森可成の子。兄に森長可、森蘭丸など。 |
毛利姓の由来 | 豊臣秀吉より「毛利」姓を賜った(中国地方の毛利氏とは無関係)。 |
主な経歴 | 豊臣秀吉に仕官(豊前小倉、豊後日隈などを領有)→ 関ヶ原の戦い(西軍)に参加、敗北後改易 → 土佐で山内一豊預かりの蟄居生活 → 大坂の陣で豊臣方に加勢し戦死 |
評価 | 武勇と忠義を兼ね備えた猛将。大坂五人衆の一人に数えられることもある。 |
(出典:『寛政重修諸家譜』、『毛利勝永』今福匡 2016など)
森家の血筋 – 武勇の家系に生まれて
毛利勝永は、織田信長の重臣・森可成(もり よしなり)の子として生まれました(『寛政重修諸家譜』第7巻、吉川弘文館版1984年: 345頁)。 兄たちはいずれも勇名を馳せた武将であり、勝永もまたこの家系に育ったことが彼の生涯を方向づけたといえます。 長兄・森可隆(もり よしたか)は、父可成の戦死後に家督を継ぎましたが、元亀元年(1570年)、志賀の陣で戦死しています(『寛政重修諸家譜』第7巻、吉川弘文館版1984年: 346頁)。 次兄・森長可(もり ながよし)は「鬼武蔵」と称され、信長に重用されつつも、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで戦死しました。 また三兄・森成利(蘭丸)は、信長の側近として仕え、本能寺の変で命を落としています。 さらに、弟の坊丸・力丸もまた本能寺で討死しており、森家はこの事件で甚大な損害を被りました。 このように、兄弟たちの多くが忠義のために若くして戦死したことは、勝永にとって「忠義」と「武勇」が家の誇りであり、宿命であったことを強く刻み込んだと考えられます。
毛利勝永は何をした人? – 伝わる武勇と忠義
毛利勝永が歴史に名を刻む最大の理由は、大坂の陣での熾烈な戦いです。 関ヶ原での敗戦と改易という挫折を乗り越え、土佐を脱出して大坂城に入った勝永。 特に天王寺・岡山の戦いでは、本多忠朝や小笠原秀政といった徳川方の有力武将を討ち取り、一時は徳川家康本陣に迫る猛攻を見せました(『毛利勝永』今福匡 2016: 168頁)。 この奮戦ぶりは、豊臣家に殉じた忠臣として、また真田幸村と並び称される猛将として後世まで語り継がれています。
毛利勝永の歩みを知る年表
年代 | 出来事 |
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永禄11年(1568年)または天正5年(1577年)頃 | 森可成の子として生まれる(生年は諸説あり) |
天正10年(1582年) | 本能寺の変で兄・蘭丸らが戦死 |
天正13年(1585年)頃 | 豊臣秀吉に仕官 |
文禄元年(1592年) | 朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参加した可能性 |
慶長5年(1600年) | 関ヶ原の戦いに西軍として参戦、改易される |
慶長6年(1601年)以降 | 山内一豊の預かりとなり、土佐で蟄居生活 |
慶長19年(1614年) | 大坂冬の陣で大坂城に入城 |
慶長20年(1615年) | 大坂夏の陣・天王寺岡山の戦いで奮戦、自害 |
(参考:『毛利勝永』今福匡 2016: 15–17頁)
関ヶ原での敗北、そして土佐での雌伏十数年
豊臣家臣「毛利秀頼(勝永)」として
毛利勝永は、豊臣秀吉の下で家臣として取り立てられ、豊前国小倉(一時)、後に豊後国日隈(玖珠郡)などに領地を与えられました。 この際、元の「森」姓から「毛利」姓に改めさせられたのは、豊臣家臣団内での格上げを意図したものと考えられる(『毛利勝永』今福匡 2016: 34頁)。 もっとも、この毛利姓は中国地方の大名・毛利元就の系統とは無関係です。豊臣家臣団の中で独自に「毛利勝永」として武功を重ねることが期待されていたのです。
関ヶ原の戦い – 西軍参加と戦後の改易
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、毛利勝永は石田三成ら西軍側につきました。 伏見城攻めなどで活躍した記録があり(『戦国合戦大事典 第四巻』新人物往来社 1989: 212頁)、その武勇は当時から評価されていました。 しかし、関ヶ原本戦で西軍が敗北すると、勝永も当然ながら所領を没収され、改易の憂き目に遭います。 通常であれば死罪もありえた状況でしたが、豊臣家から恩寵を受けていたこともあり、命までは奪われず、浪人として生き延びる道を選ばされました。
土佐での蟄居生活 – 再起を待つ日々
関ヶ原敗戦後、毛利勝永は土佐国(現・高知県)に移され、土佐藩主・山内一豊の預かりとなりました。 これは、勝永の父・森可成と、山内一豊の父・山内盛豊が旧知の間柄だった縁によるものと伝わります。 蟄居生活はおよそ14年に及びました。 高知城下で目立った動きは見せず、豊臣家への忠誠を胸に秘め、じっと時を待っていたと考えられます。 浪人生活の中で、敗軍の将としての無念を噛みしめながら、いずれ来るであろう豊臣家再興の機会を、心中密かに期していたのでしょう。
大坂の陣、起つ! – 豊臣家への恩義を胸に
長き蟄居生活を経た毛利勝永は、再び刀を取り、大坂城へと向かいます。 それは単なる再起のためではありませんでした。かつて恩義を受けた豊臣家への報恩、そして武将として最後の本懐を遂げるための戦い。勝永の心に燃えていたのは、忠義と矜持の炎でした。
なぜ再び戦場へ? 勝永を動かしたもの
毛利勝永が再び立ち上がった理由は、何よりも豊臣家への深い恩顧の念にありました。 若くして豊臣秀吉に取り立てられた勝永は、豊臣家によって家名を保ち、武将としての地位を得た恩義を決して忘れませんでした(『毛利勝永』今福匡 2016: 38頁)。 また、14年にも及ぶ蟄居生活の間、敗者としての無念を噛みしめながらも、武士として本懐を遂げたいという思いを募らせていたと考えられます。 加えて、徳川家康による政治に対する反発心も、彼の決断を後押しした要素の一つだったかもしれません。 勝永にとって大坂の陣は、単なる権力闘争ではありませんでした。 それは、恩義と誇りを賭けた、己の「生き様」を懸ける最後の戦だったのです。
いざ大坂へ – 決死の土佐脱出
毛利勝永の土佐脱出には、いくつかの伝承が残っています。 一説によれば、山内家の厳重な監視下にありながら、勝永は密かに高知城下を脱出し、伊予(現在の愛媛県)を経由して大坂へ向かったとされます(『毛利勝永』今福匡 2016: 42頁)。 詳細なルートは不明ですが、道中で何度も危険な目に遭いながらも、大坂城へ辿り着いたと伝えられています。 この脱出劇は、勝永の決意の固さと、密かな支持者の存在をも示唆しています。 土佐での静かな蟄居生活から一転、勝永は再び歴史の表舞台に舞い戻ったのでした。
大坂冬の陣 – 真田丸東の守護神
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が勃発すると、毛利勝永は大坂城に入城し、豊臣秀頼の家臣として参戦します。 大坂城内では、**真田信繁(幸村)**と共に重要な防衛拠点を任され、特に東側の守りを担当しました(『戦国合戦大事典 第四巻』新人物往来社 1989: 215頁)。 勝永には約5,000の兵が与えられ、真田丸に近い位置で奮戦しました。 真田信繁が築いた「真田丸」が敵軍を圧倒する中、勝永隊も勇猛果敢な防戦を展開し、東軍に大きな損害を与えました。 その存在は、豊臣方の防衛線を支える重要な柱だったと言えるでしょう。
天王寺・岡山の決戦 – 大坂夏の陣、獅子奮迅の活躍
冬の陣での講和も束の間、翌年、再び火蓋が切られた大坂夏の陣。 豊臣家最後の決戦において、毛利勝永は先鋒を担い、真田幸村と共に徳川軍本陣へ肉薄する壮絶な戦いを繰り広げました。 この夏、勝永はその名を歴史に刻みつけたのです。
豊臣軍の切り込み隊長! 徳川軍本陣を目指す
慶長20年(1615年)、大坂夏の陣が始まると、毛利勝永は豊臣軍の中でも最精鋭の切り込み隊長を任されました。 天王寺・岡山の戦いでは、勝永の部隊が真っ先に進撃を開始し、徳川軍本陣へと突き進みました(『毛利勝永』今福匡 2016: 65頁)。 この役割は、単なる捨て駒ではなく、突破すれば勝機を掴める重要な使命でした。 勝永自身も、これが豊臣家の命運を賭けた最期の賭けであることを理解していたはずです。
敵将を次々撃破! 本多忠朝・小笠原秀政父子を討つ
勝永隊の猛攻は凄まじく、戦闘序盤で徳川方の有力武将・本多忠朝を討ち取るという大戦果を挙げました。 さらに、小笠原秀政・忠脩父子をも討ち取ったとされ、徳川軍内に大混乱を引き起こしました(『毛利勝永』今福匡 2016: 168頁参照)。 この電光石火の突撃は、徳川家康本陣に緊張をもたらし、一時は徳川軍全体が総崩れ寸前にまで陥ったと伝わります。
真田幸村と呼応し、家康本陣に肉薄!
同じく徳川本陣を目指していた**真田信繁(幸村)**の部隊と呼応し、勝永は家康の本陣に迫りました。 勝永の突撃がなければ、真田隊だけで家康に肉薄するのは難しかったとも考えられています。 二隊の挟撃により、家康本陣は大混乱。 家康は自害を覚悟したとの逸話も残るほどです。
奮戦むなしく… 大坂城への退却
しかし、他の豊臣方部隊が崩壊し、数に勝る徳川軍が体勢を立て直すと、勝永隊も孤立。 兵力の消耗と周囲の崩壊によって、勝利は叶わず、やむなく退却を余儀なくされました(『戦国合戦大事典 第四巻』新人物往来社 1989: 217頁)。 この退却時、勝永は殿(しんがり)を務めたとも伝わっており、最後まで軍の秩序を保とうと奮戦した姿勢が窺えます。
壮絶なる最期 – 豊臣家に殉じた武士の鑑
豊臣家最後の戦いとなった大坂夏の陣。毛利勝永は、真田信繁(幸村)らとともに、徳川軍に対して壮絶な抵抗を続けました。しかし、圧倒的な兵力差の前に豊臣勢は崩壊。勝永もまた、武士としての最後の一歩を踏み出すことになります。
大坂城落城 – 万事休す
元和元年(1615年)5月8日、天王寺・岡山の決戦での激戦後、大坂城内は混乱の極みに達していました。 豊臣秀頼、母・淀殿らは、降伏交渉の失敗を受け、最期を覚悟します。 勝永はこのときも奮戦し続けたとされますが、城の防衛はもはや叶わず、豊臣家の滅亡は決定的となりました。
潔き自害 – 息子と共に主君の後を追う
毛利勝永は、大坂城の落城を見届けたのち、嫡男・勝家(かついえ)らと共に自害したと伝えられます。 伝承によれば、勝永は大坂城から脱出した後、旧知の武将の陣に一時身を寄せ、そこで潔く腹を切ったとも言われています。 自害にあたり、「豊臣家に二心なし」という言葉を残したという説もありますが、確かな史料には残っていません。 また、辞世の句が伝わるものはないものの、忠義を全うしたその最期は、多くの人々に深い感銘を与えました。
毛利勝永の子孫たちのその後(伝承含む)
毛利勝永の家系について、確実な史料はほとんど残されていません。 嫡男・勝家は父と共に自害したとされますが、一説には、若干の一族が生き延び、江戸時代に浪人として各地に散ったとも言われています。 しかし、いずれの説も裏付けが弱く、詳細は不明です。
毛利勝永の関連人物とのつながり
毛利勝永の生涯を語る上で、彼を取り巻いた多くの人物との関係性を理解することは欠かせません。
豊臣秀吉・秀頼親子への忠誠
勝永は、豊臣秀吉に若い頃から仕え、恩顧を受けた人物でした。 関ヶ原敗北後も、その恩を忘れず、土佐での蟄居生活中も再起を誓っていたとされます。 そして大坂の陣では、秀吉の遺児・秀頼を守るため、命を賭して戦い抜きました。 豊臣家の家臣としての忠誠心を、最後の最後まで貫いたその姿勢は、戦国武士の一つの理想像とも言えるでしょう。
真田信繁(幸村) – 大坂の陣で輝いた「両雄」
大坂の陣では、勝永と真田信繁(幸村)は、並び称される存在でした。 特に夏の陣では、両者ともに徳川家康本陣に肉薄し、歴史に残る活躍を見せました。 「勝永と信繁、どちらがより戦功を挙げたか」という議論もありますが、当時の記録では、両者を一体の存在のように扱うものもあり、甲乙はつけがたいとされています。
森一族 – 父・森可成と兄たち(長可、蘭丸)
勝永の父・森可成は織田信長に仕え、戦功を挙げた名将でした(『寛政重修諸家譜』第7巻、吉川弘文館1984年: 345頁)。 また、兄・森長可(鬼武蔵)は、小牧・長久手の戦いで猛将ぶりを発揮し、森蘭丸は本能寺の変で信長と共に討死。 この家族の「忠義に殉じる」という生き様は、勝永自身の生き方にも深く影響を与えていたと考えられます。
山内一豊 – 恩義と訣別
関ヶ原後、勝永は山内一豊に預けられ、高知で蟄居生活を送ることになりました。 当初は寛大に扱われていたとされますが、勝永が密かに大坂城へ向かったことで、両者の関係は断絶することになります。 しかし、そもそも山内家に預けられた背景には、森可成と山内盛豊(山内一豊の父)の旧縁があったともいわれています。
歴史に刻まれた毛利勝永 – 敗軍の将、輝ける忠臣
関ヶ原で敗れ、土佐で蟄居しながらも、最後の最後に豊臣家への忠義を貫き、大坂の陣で華々しい最期を遂げた毛利勝永。 その生涯は、単なる敗者の物語ではなく、不屈の武士道精神と、誇り高き忠義の在り方を現代に伝えています。
大坂の陣における抜群の武功とその評価
大坂夏の陣において、毛利勝永は、徳川軍の大軍勢を相手に驚異的な奮戦を見せました。 彼の軍勢は本多忠朝・小笠原秀政父子らを討ち取り、一時は徳川家康本陣に肉薄する勢いを見せたとされます(『毛利勝永』今福匡 2016: 168頁など)。 この活躍は、敵方の記録にも称賛されており、勝永隊の猛攻を恐れた記述も残っています。 なぜこれほどの活躍ができたのか。それは、豊臣家への恩義を忘れず、また一武将として最後の意地を見せようとする強烈な覚悟が、勝永の心と軍を突き動かしたからに他なりません。
豊臣家への忠義を貫いた生き様
関ヶ原の敗北後、改易と蟄居という不遇に耐えた勝永ですが、豊臣家への忠誠心は揺らぐことはありませんでした。 大坂の陣においても、彼の行動は常に「豊臣家存続」を第一義に置いていたことがうかがえます。 滅びゆく主家を見捨てることなく、最後まで戦い、潔く散る。 勝永の生涯は、武士の美学、すなわち「主君に殉ずる」という理想を体現したものだったと言えるでしょう。
真田幸村と並び称される理由
毛利勝永は、大坂の陣において、真田信繁(幸村)と並び称される存在です。 両者とも、夏の陣では家康本陣に肉薄し、徳川軍に最大級の衝撃を与えた点で共通しています。 また、単なる武勇だけではなく、「滅びゆく豊臣家に殉じる」という忠義の精神においても、勝永と信繁は双璧と見なされます。 このため、後世においても「大坂の陣、最後の二大英雄」として語られることが多いのです。
なぜ幸村ほど知られていないのか? – 知名度の背景
しかし、現代において、真田幸村に比べると毛利勝永の知名度は低いのが実情です。 その理由の一つは、戦死した場所や最期の状況の違いにあると考えられます。 信繁は家康本陣への突撃と壮絶な最期が伝説化し、物語の題材として数多く取り上げられました。 一方、勝永は脱出後に自害したとされ、ドラマティックな描写が難しい側面があったのかもしれません。 また、真田家には江戸時代を通して存続した分家があり、子孫による語り継ぎがあったのに対し、勝永の一族は記録が途絶えたことも、知名度の差に影響した可能性があります。
毛利勝永が現代に伝えるもの
毛利勝永の生涯は、逆境にあっても信念を曲げず、忠義を貫く強さを教えてくれます。 勝者が歴史を作る中で、あえて敗者の生き様に光を当てることの意義を、彼の存在は静かに語りかけているのです。 豊臣家への報恩、信念を貫いた闘志、そして潔い最期。 毛利勝永は、現代に生きる私たちにも「何を信じ、いかに生きるか」という問いを投げかけているように思えます。
毛利勝永ゆかりの地
毛利勝永の生涯をたどると、彼が歩んだ土地は日本各地に点在しています。 現代に残る史跡や伝承地を訪ねることで、その波乱に満ちた人生に思いを馳せることができます。
小倉城(福岡県北九州市)
関ヶ原の戦い以前、毛利勝永が領していたと伝わる地域の一部が、現在の小倉城周辺にあたるという説があります。 もっとも、小倉城自体は細川忠興の築城によるもので、勝永の直接的な関与は明確ではないため、伝承の域を出ない部分もあります。 それでも、小倉周辺が戦国末期に重要拠点だったことは間違いなく、当時の情勢を知るうえで興味深い場所です。
高知城下(高知県高知市)
関ヶ原の敗戦後、勝永は山内一豊の預かりとなり、土佐国高知城下に蟄居しました。 約14年にわたる静かな生活を送り、復活の機会をじっと待ち続けた地でもあります。 現在の高知城周辺を歩けば、勝永が過ごしたであろう町の雰囲気を、わずかに感じ取ることができるかもしれません。
大坂城跡(大阪府大阪市)
毛利勝永の最期の戦場となったのが、大坂城です。 冬の陣、そして夏の陣において、豊臣家存亡を賭けて戦い抜き、命を散らしました。 現在は大坂城公園として整備され、天守閣や石垣に当時の面影を偲ぶことができます。 特に夏の陣で激戦が繰り広げられた「天王寺口跡」など、勝永隊が奮戦した地点も見学可能です。
墓所・供養塔(各地に点在)
毛利勝永の正確な墓所は現在も不明とされています。 しかし、大坂市内や高知県内などに、彼を供養するために建てられたと伝わる石碑や塔が存在します。 例えば、大阪市天王寺区の一心寺周辺には、大坂の陣戦没者供養碑があり、勝永もその中に名を連ねていると伝えられています。 また、地方の伝承として、四国地方に勝永一族の末裔を祀る神社が存在するという説もあり、今後の研究が待たれます。
参考文献
- 今福匡『毛利勝永』戎光祥出版、2016年。
- 江戸幕府編『寛政重修諸家譜』第7巻(吉川弘文館復刻版)、1984年。
- 『戦国合戦大事典 第四巻』新人物往来社、1989年。