長宗我部盛親は、戦国大名・長宗我部元親の四男にして、土佐国の最後の当主です。父の後継者として家督を継ぐも、関ヶ原の戦いで不戦のまま敗者となり、土佐を失って浪人へ転落。その後、大坂の陣では「大坂五人衆」の一人として再起を図り、奮戦の末に非業の死を遂げました。しばしば「凡庸な二代目」と見なされがちですが、改易後も豊臣家に忠義を貫いた姿からは、再評価の余地もある武将です。
長宗我部盛親とは? – 偉大な父の影と、悲運の生涯
まずは長宗我部盛親がどのような人物だったのか、その基本的なプロフィールと、父・元親と比較されることの多かったであろう人物像を見ていきましょう。
基本情報 – 土佐の名門・長宗我部家最後の当主
項目 | 内容 | 出典 |
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名前 | 長宗我部 盛親(ちょうそかべ もりちか) | 『国史大辞典 第9巻』(長宗我部盛親項) |
生没年 | 元亀2年(1575年) – 元和元年5月15日(1615年6月11日) | 同上 |
出自 | 土佐国岡豊城主・長宗我部元親の四男。母は石谷光政の娘とも、斎藤利三の娘・福とも伝わる。 | 同上 |
家督相続 | 文禄4年(1595年)、父・元親の生前の指名により兄たちを退けて家督を継承 | 『高知県史 近世篇』第一章第四節「後期」/『国史大辞典 第9巻』 |
役職・身分 | 土佐国主(22万石)→ 関ヶ原敗戦後に改易 → 大坂の陣で豊臣方将領(「大坂五人衆」) | 『国史大辞典 第9巻』 |
最期 | 大坂夏の陣後、八幡付近で捕縛され、京都六条河原にて斬首 | 『当代記・駿府記 : 史籍雑纂』元和元年五月条/『高知県史 近世篇』第八章「結語」 |
関連人物 | 長宗我部元親、長宗我部信親、香川親和、津野親忠、豊臣秀吉、石田三成、毛利秀元、真田信繁(幸村)、藤堂高虎、井伊直孝 | 『国史大辞典 第9巻』ほか |
墓所 | 京都府京都市東山区・蓮光寺(長宗我部盛親墓) | 『高知県史 近世篇』資料編「長宗我部氏掟書」解説 |
長宗我部盛親は何をした人か? – 主な業績・出来事ダイジェスト
- 父・長宗我部元親の生前、**文禄4年(1595年)に異例の指名によって家督を継承。**兄・信親の戦死後の後継争いの中、家中の動揺を招いた(『高知県史 近世篇』第一章第四節「後期」)。
- 1600年の関ヶ原の戦いでは西軍として毛利秀元軍の一部に属すが、南宮山で行動を起こせず不戦のまま終結。敗戦により改易(『国史大辞典 第9巻』/『高知県史 近世篇』第一章第五節「末期」)。
- 改易後は京都などで浪人生活を送り、再仕官の道も模索したが叶わず、大坂城に入城(『国史大辞典 第9巻』)。
- 1614年の大坂冬の陣・翌年の夏の陣において「大坂五人衆」の一人として活躍。八尾・若江の戦いでは藤堂高虎軍に対し一時優勢となるも、井伊直孝の援軍により敗北(『大坂御陣覚書』巻之一)。
- 落城後、八幡付近の葦原に潜伏していた盛親は、蜂須賀家家臣によって元和元年5月11日に捕縛される(『当代記・駿府記 : 史籍雑纂』元和元年五月条/『蜂須賀家記』補助史料)。
- 京都・六条河原にて斬首刑に処される。切腹ではなく斬首となった背景には、徳川家による豊臣主力武将への見せしめの意図があるとされる(『当代記・駿府記 : 史籍雑纂』元和元年五月条/『高知県史 近世篇』第八章「結語」)。
人となり – 偉大な父・元親と比較されて
長宗我部盛親は、父・元親と比べて「武略に乏しい」とする評価もあり(『国史大辞典 第9巻』)、政治的・軍事的手腕の面で後継者として厳しい視線を受けたことがうかがえます。元親が四国の大半を制した稀代の戦国大名だったのに対し、盛親は関ヶ原で不戦、改易されて浪人となるなど、その後継者としては不本意な人生を歩みました。
また、三兄・津野親忠は関ヶ原直前に不審な死を遂げましたが(『高知県史 近世篇』第一章第五節「末期」)、その死に盛親が関与したとする直接的な一次史料は確認されておらず、後世の風聞に基づく説にとどまっています。
一方、大坂の陣での盛親の行動は、武将としての意地と覚悟を示すものでした。浪人という立場ながら、豊臣家への忠義を貫き、最前線で自ら兵を率いて戦場に立った姿は、再評価に値します。戦後、盛親の戦死を惜しむ声もあり、彼の勇敢な最期は多くの記録に刻まれています(『国史大辞典 第9巻』)。
長宗我部盛親の歩みを知る年表
土佐のプリンスから一転、改易、そして大坂での最後の戦いへ。長宗我部盛親の波乱に満ちた生涯を年表でたどります。
年代(西暦) | 出来事・盛親の動向 | 出典 |
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1575年頃(元亀2年) | 土佐にて長宗我部元親の四男として誕生したとされる。 | 『国史大辞典 第9巻』(長宗我部盛親項) |
1586年(天正14年) | 長兄・信親が戸次川の戦いで戦死。家督相続問題が浮上。 | 『高知県史 近世篇』第一章第三節「中期」 |
1588年頃(天正16年) | 父・元親により後継に指名され、家中が動揺。 | 『高知県史 近世篇』第一章第四節「後期」 |
1595年(文禄4年) | 父・元親の生前の指名により、家督を継承。 | 同上 |
文禄・慶長年間 | 豊臣政権下で諸役に従事したとされる。 | 同上 |
1597年(慶長2年) | 父・元親が『長宗我部氏掟書』(百箇条)を発布(盛親との連署)。 | 『高知県史 近世篇』資料編「長宗我部氏掟書」解説 |
1599年(慶長4年) | 父・元親が死去。盛親が名実ともに独立した土佐国主となる。 | 『国史大辞典 第9巻』(長宗我部元親項・盛親項) |
1600年(慶長5年) | 関ヶ原の戦い。南宮山に布陣するも戦闘に参加できず。 | 山本大『長宗我部元親』第七章/『高知県史 近世篇』第一章第五節「末期」 |
関ヶ原後 | 改易され、浪人生活へ。 | 『国史大辞典 第9巻』/『高知県史 近世篇』第一章第五節「末期」 |
1614年(慶長19年) | 大坂冬の陣。「大坂五人衆」の一人として活躍。 | 『国史大辞典』/『大坂御陣覚書』 |
1615年(元和元年) | 大坂夏の陣。八尾・若江の戦いで藤堂・井伊軍と激戦。 | 同上 |
同年5月 | 八幡付近に潜伏中、蜂須賀家臣に捕縛される。 | 『当代記・駿府記 : 史籍雑纂』/『蜂須賀家記』 |
同年5月15日 | 京都・六条河原で斬首。長宗我部嫡流は断絶。 | 『当代記・駿府記 : 史籍雑纂』 |
若き土佐国主・長宗我部盛親 – 家督相続と関ヶ原への道
父・元親の寵愛と波乱の家督相続
盛親は、長宗我部元親の四男として生まれました。後継者とされた長兄・信親は、九州征伐中の戸次川の戦い(天正14年/1586年)で戦死。その結果、家督相続をめぐる再編が行われ、父・元親は盛親を後継に指名しました(『高知県史 近世篇』第一章第四節「後期」)。
実際の家督継承は文禄4年(1595年)であり、その2年後の慶長2年(1597年)には元親が『長宗我部氏掟書』を盛親と連署し、家中統制の意志を明示しました(『高知県史 近世篇』資料編「長宗我部氏掟書」)。
なお、関ヶ原の直前に津野親忠が暗殺された事件については、盛親の関与を示す一次史料は存在せず、江戸時代以降の風聞にすぎないとされています(『高知県史 近世篇』第一章・第三章など参照)。
豊臣政権下での大名としての務め
家督を継いだ盛親は、豊臣政権下での諸役に従事したとされます。明確な史料は少ないものの、朝鮮出兵に関与していた可能性もあります(『高知県史 近世篇』第一章第四節)。慶長4年(1599年)には元親が死去し、盛親は名実ともに22万石の土佐を治める大名となりました(『国史大辞典 第9巻』)。
関ヶ原の戦い – なぜ戦えなかったのか? 南宮山の悲劇
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて盛親は西軍に与し、毛利秀元に属して南宮山に布陣しました。しかし、先鋒の吉川広家が家康と内通して動かず、盛親らの軍も戦闘に参加しないまま終戦を迎えました(山本大『長宗我部元親』第七章/『高知県史 近世篇』第一章第五節「末期」)。
戦後、盛親は家康に謝罪を試みましたが、兄・津野親忠の死に関する疑念なども影響して受け入れられず、22万石を失って改易されました。これが長宗我部家の没落の決定打となったのです(『国史大辞典 第9巻』/『高知県史 近世篇』第一章第五節「末期」)。
改易、そして浪人へ – 再起を期す雌伏の時
関ヶ原での不戦は、長宗我部盛親に「改易」という厳しい処分をもたらしました。土佐を追われ、浪人となった彼の十数年間を見ていきます。
戦後処理と無情の改易 – 土佐国主の座を失う
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、西軍に与した長宗我部盛親は、戦後ただちに徳川家康への謝罪を試みました。しかし赦免は認められず、盛親は改易され、22万石の土佐の地を失うことになります。家康の判断には、西軍に加担したことのほか、戦場で実績を示せなかったことや、家督相続をめぐる内部抗争、さらに兄・津野親忠の急死をめぐる風評も影響したとされます(『国史大辞典 第9巻』長宗我部盛親項/『高知県史 近世篇』第一章第五節「末期」)。
土佐には山内一豊が入封し、一領具足など旧臣の抵抗もありましたが、山内勢により速やかに制圧されました(同上)。
京都での蟄居・浪人生活
改易後、盛親は京都に移り、大岩祐夢という僧のもとに身を寄せて蟄居したとされます。この間、旧臣との密かな連絡を保ちつつ、再起の機会をうかがっていたとも伝わります(『高知県史 近世篇』第一章第五節「末期」)。
この時期の盛親の動向は文書史料が乏しく不明瞭ですが、後の大坂の陣での行動からは、失地回復の意志が静かに燃えていたことがうかがえます。
長宗我部盛親と大坂の陣 – 大坂五人衆、最後の奮戦
浪人生活を送っていた盛親に、再起の機会が訪れます。豊臣家最後の戦いとなった大坂の陣。彼は「大坂五人衆」の一人として、かつての土佐国主の意地を見せつけます。
なぜ大坂城へ? – 豊臣家への恩義と旧領回復への執念
慶長19年(1614年)、徳川家康による大坂攻めが始まると、豊臣秀頼は浪人衆を募り、大坂城に集結させました。盛親もこれに応じて入城し、旧家臣や一領具足の残党と共に参戦します(『国史大辞典 第9巻』長宗我部盛親項)。豊臣家に対する恩義、また旧領土佐の回復を願う執念が、彼を戦場へと導いたと考えられます。
大坂五人衆の一角として – 冬の陣から夏の陣へ
大坂城に入った盛親は、真田信繁(幸村)、毛利勝永、後藤又兵衛、明石全登と並び、「大坂五人衆」の一人として迎えられました(『高知県史 近世篇』第一章第五節「末期」)。冬の陣では城南口の守備を担当するなど防備に尽力し、翌年の総力戦に備えます。
八尾・若江の戦い – 藤堂高虎軍との死闘
元和元年(1615年)5月6日、夏の陣の決戦が始まり、盛親は八尾・若江方面に出陣。徳川方の藤堂高虎軍と激戦を繰り広げました。盛親軍は藤堂軍の将・藤堂高刑らを討ち取り一時優勢となりますが、井伊直孝の援軍が加わって形勢は逆転。盛親はやむなく撤退します(『大坂御陣覚書』大阪市史編纂所編、2011年/『当代記・駿府記』〈史籍雑纂〉続群書類従完成会、1995年)。
捕縛、そして斬首 – 名門・長宗我部本家の終焉
大坂夏の陣での奮戦もむなしく、豊臣方は敗北。逃亡を図った長宗我部盛親でしたが、捕らえられ、非情な最期を迎えることになります。
逃亡潜伏と無念の捕縛
落城後、盛親は八幡付近の葦原に潜伏していましたが、蜂須賀氏の配下によって発見され、元和元年5月11日に捕縛されます(『当代記・駿府記 : 史籍雑纂』元和元年五月条/『高知県史 近世篇』第一章第五節「末期」)。
なぜ切腹ではなく斬首だったのか?
盛親は徳川家康・秀忠による見分の後、切腹ではなく斬首に処されました。これは、豊臣方の主力武将として徹底抗戦したことに対する見せしめ的な処断であり、また一度赦免された者が再び敵対した重罪として扱われたともされます(『駿府記』元和元年五月条)。
京都・六条河原での最期
処刑は元和元年(1615年)5月15日、京都六条河原にて執行されました。六条河原は当時の公開処刑場であり、徳川政権が反逆者を断罪する象徴的な場所でもありました。
子どもたちの処刑と長宗我部嫡流の断絶
盛親の子息らも捕らえられ、三条河原にて処刑されました。これにより、長宗我部元親の血を引く本家の嫡流は事実上断絶するに至りました(『国史大辞典 第9巻』長宗我部盛親項)。
長宗我部盛親と関連人物とのつながり
盛親の生涯は、偉大な父、対立した兄たち、そして最後の戦いを共にした戦友たちとの関係の中で形作られました。人物相関のなかに、彼の選択や行動の意味が浮かび上がります。
父・長宗我部元親 – 偉大すぎた父の影
「土佐の出来人」と称され、四国の大半を制した名将・長宗我部元親。その四男として生まれた盛親は、父の晩年に家督を継ぎました。元親の寵愛を受けたといわれる一方で、兄弟間の軋轢や家中の不和を招いた背景には、この後継指名の重みがありました(『高知県史 近世篇』第一章第五節「末期」)。
兄たち(信親、親和、親忠) – 家督を巡る骨肉の争い
嫡男・信親は九州征伐中に戦死。次兄・香川親和、三兄・津野親忠はいずれも他家に養子入りしており、盛親が家督を継承することとなりました。親忠は盛親の後継に反発したとされ、後に幽閉・殺害された事件には、盛親との確執が影を落としていたとされます(『高知県史 近世篇』第一章第五節「末期」/山本大『長宗我部元親』第六章)。
大坂五人衆(真田信繁、毛利勝永ら) – 最後の戦友たち
盛親は、浪人として迎えた大坂の陣において、真田信繁(幸村)、毛利勝永、後藤又兵衛、明石全登とともに「大坂五人衆」の一人として奮戦しました。かつての国主としての意地を示し、戦場でその存在を印象づけました(『国史大辞典 第9巻』大坂の陣項)。
敵対した武将たち(藤堂高虎、井伊直孝、山内一豊)
盛親の運命に大きく関わった敵将たちも無視できません。八尾・若江で直接戦った藤堂高虎や、援軍として戦局を決した井伊直孝。そして、関ヶ原後に土佐へ入封し、長宗我部旧臣を制圧した山内一豊の存在は、盛親にとって宿命的な対峙者でした(『高知県史 近世篇』第一章第五節「末期」)。
歴史に刻まれた長宗我部盛親 – 悲運の将、土佐最後の魂
偉大な父の後を継いで土佐国主となりながら、関ヶ原で改易、大坂の陣で奮戦し、非業の最期を遂げた長宗我部盛親。その生涯は、戦国から近世への移行期に翻弄された武将の姿を、今に伝えています。
歴史的インパクト – 長宗我部本家の断絶と大坂での奮戦
- 長宗我部氏本家の滅亡: 土佐を統一した名門・長宗我部氏の嫡流は、盛親の斬首とその子らの処刑により断絶。これにより土佐の支配構造は山内氏によって一新され、地域史における重大な転換点となりました(『国史大辞典 第9巻』長宗我部盛親項/『高知県史 近世篇』第二章第一節)。
- 大坂の陣における主力武将: 改易後も再起を図り、「大坂五人衆」として八尾・若江の戦いにおいて敵将を討ち取るなどの奮戦を見せた盛親は、改易された大名の意地と豊臣家への忠誠を体現する存在でした『大坂御陣覚書』巻之一/『当代記・駿府記』元和元年五月条)。
評価の分かれる点 – 家督と関ヶ原での動向
- 家督相続をめぐる兄弟間の対立、とりわけ三兄・津野親忠の死に盛親が関与したとされる説は、評価を複雑にしています(『高知県史 近世篇』第一章第五節)。
- 南宮山に布陣しながら戦えなかった関ヶ原での判断についても、戦局理解や指導力の観点から議論が分かれるところです。
再評価される忠義と武将としての矜持
- 改易後の14年間を耐え、大坂の陣で奮戦した姿は、近年では再評価されつつあります。
- 豊臣家への恩義を貫いた姿勢は、多くの人々の共感を呼び、「判官贔屓」的な人気をもって語られています。
長宗我部盛親の子孫について
盛親の子は父とともに斬首され、嫡流は断絶しました。ただし、長宗我部氏の分家筋や旧臣の子孫が、現在の高知県などにその名を留めている例もあり、伝承的に語り継がれています(※系譜上の検証は別途必要)。
ゆかりの地を巡る(Experience)
- 岡豊城跡(高知県南国市):長宗我部氏の本拠地跡。盛親の出発点。
- 南宮山(岐阜県関ケ原町):関ヶ原合戦時の布陣地。
- 大坂城跡(大阪市):大坂の陣での豊臣方の本拠。
- 蓮光寺(京都市上京区):盛親の墓所とされる。
- 六条河原跡(京都市下京区):盛親が処刑された場所。現在は石碑が建つ。
長宗我部盛親に関するQ&A(よくある質問)
- Q長宗我部盛親ってどんな人? ざっくり言うと何をしたの?
- A
土佐を統一した戦国大名・長宗我部元親の四男で、家督を継いだ最後の当主です。関ヶ原では西軍に与して改易され、その後は浪人として再起を図り、大坂の陣で豊臣方の主力武将として奮戦しました。最終的には捕らえられ、京都で斬首されました。
- Qなぜ四男の盛親が家督を継いだの?
- A
長兄の信親が戦死し、他の兄たちも養子に出されていたため、父・元親の寵愛を受けていた盛親が後継に選ばれました。ただし、家中ではこれに反発する声もありました
- Q関ヶ原の戦いで、なぜ盛親は戦えなかったの?
- A
南宮山に布陣しましたが、上位の毛利秀元や吉川広家が動かず、それに従って行動できないまま戦闘は終了。結果として戦わずに西軍は敗北しました。
- Q改易された後、盛親はどうしていたの?
- A
京都で浪人として暮らしながら、旧臣たちと連絡を取り続け、再起の機会を静かに待っていたとされています。
- Qなぜ大坂の陣に参加したの?
- A
豊臣家からの召集を受け、かつての恩義に報いるため、また旧領・土佐の回復を目指して大坂城へ入城しました。
- Q盛親の大坂の陣での戦いぶりは?
- A
夏の陣・八尾若江の戦いで藤堂高虎軍と交戦し、敵将を討ち取るなど奮戦しましたが、井伊直孝の援軍により形勢が逆転し、最終的には撤退を余儀なくされました。
- Q盛親の最期はどうなったの?
- A
大坂城落城後、八幡の葦原に潜伏していたところを蜂須賀氏の家臣に捕らえられ、元和元年5月15日に京都六条河原で斬首されました。
- Qなぜ切腹ではなく斬首だったの?
- A
豊臣方の主力として徹底抗戦した上、一度赦免されたにもかかわらず再び徳川に敵対したことが重罪と見なされ、見せしめの意味も込めて切腹は許されなかったとされています。
- Q盛親に子孫はいるの?
- A
盛親の子どもたちは彼とともに処刑され、本家の嫡流は断絶しました。ただし、分家や旧臣の末裔と伝わる家系は、高知県などに現存すると言われています。
- Q「大坂五人衆」って誰のこと?
- A
豊臣方の中核を担った五人の武将のことです。長宗我部盛親、真田信繁(幸村)、後藤又兵衛、毛利勝永、明石全登がこれにあたります。
参考文献
- 『国史大辞典 第9巻』国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館、1988年
- 山本大『長宗我部元親』吉川弘文館〈人物叢書〉, 新装版1988年
- 高知県(編)『高知県史 近世篇』高知県、1968年
- 長宗我部氏掟書』高知県編『高知県史 近世篇』所収
- 大阪市史編纂所(編)『大坂御陣覚書』大阪市史料調査会、2011年
- 『当代記・駿府記 : 史籍雑纂』続群書類従完成会、1995年
- 『蜂須賀家記』岡田鴨里 著、伊吹直亮、1876年